明朗闊達、豪放磊落、バンカラという言葉さえ似合いそうだ そんな中山雅史は常に光の中を歩いてきたように見える だがその明るさは乗り越えた困難に支えられていた プロリーグ入りは遅れた プロリーグに入るとすぐに離脱することになった ワールドカップの翌年にはプレーできなくなった 1998年フランスワールドカップでは日本の唯一のゴールを挙げる だが2002年日韓ワールドカップでは他の選手を鼓舞する役にまわる そんな苦労話ですらユーモアを持って話すのが中山だ Jリーガーになった年に原因不明のケガ 一番苦しんだのは、「ドーハの悲劇」の翌年、Jリーガーになった1994年なんですよ。所属したヤマハ発動機はJリーグ発足のときの10チーム「オリジナル10」に入れなくて、それでやっと1994年のリーグから加盟したんですけど、その年に、「恥骨結合炎」「鼠径(そけい)ヘルニア」「グロインペイン」になったんです。 これ
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