1990年代初頭、某所にて今後のゲーム業界を大きく左右する二社合同技術研究会が行われていた。 その研究会に参加していたのはセガの佐藤秀樹。後にセガ社社長にまで上り詰め、セガハードの父と呼ばれる男だった。セガ内のエース中のエース、アウトランとスペースハリアーを作った男、鈴木裕もいた。 そしてさらなる男がいた。ソニーの久夛良木健。プレイステーションの生みの親である。 彼らを中心にセガ、ソニー両社の技術者たちが机の上に並べられた資料を持って喧喧諤諤の大議論が行われた。その資料とは、開発途中だったセガサターンの資料だったのだ。隠しているものは何もなく、全スペックを久夛良木たちの前にさらけ出していた。 彼らの頭にあったのは「対任天堂共同戦線」である。当時のゲーム業界最大、最強の巨人に対抗しなければならない。それはセガ、ソニー両者の共通認識だった。そしてじきに「二社が共同で同じハード上で力を合わせるこ
ビデオゲームの語り部たち 第6部:誰よりもプレイヤーに近い場所でゲーム業界を支え続けたゲームズマーヤの足跡 ライター:黒川文雄 日本における家庭用ゲームの歴史が始まったのはいつだろうか。人によって見解は異なるだろうが,筆者は1983年7月15日だと考えている。理由はもちろん,この日発売となった任天堂のファミリーコンピュータ(以下,ファミコン)なのだが,セガ・エンタープライゼスからSG-1000が発売されたのも,この日なのだ。 それから35年近くが経過した2018年4月8日,東京都江戸川区中葛西にあるゲームショップ「ゲームズマーヤ」が閉店した。 決して大型店とは言えない規模であるにもかかわらず,著名なクリエイターが参加するイベントが多く開かれ,広くその名を知られた同店は,ゲームメーカーとプレイヤーたちをつなぐ役割を果たし,家庭用ゲームビジネスを“現場”で支え続けてきた。 今回の「ビデオゲーム
僕は飯野賢治さんのゲームをプレイしたことがない。プレステとサターンが覇権を争う90年代、僕はプレステ派だったので、サターンに移籍した飯野さんのゲームには手が出せなかったのだ。そんな僕にとっても、飯野さんのやることは、目が離せないほど刺激的だった。そもそも、プレステからサターンへの移籍の発表の仕方がすごかった。プレステのイベントでの新作発表で、プレステのロゴをサターンのそれに変形させて、そのままその場でサターンへの移籍を発表する、という演出は、「こんな漫画みたいなことをする大人がいるのか!」という衝撃を僕に与えてくれた。当時、中学生だった僕には、飯野さんが語ったソニー批判はしごくまっとうなものに感じられ、そのときばかりは自分のプレステがこの上なくダサく思えたものだった。 雑誌などで伝えられる飯野さんの活動は、サターンへの移籍後ますます興味深いものになっていた。「エネミーゼロ」では、敵の姿は全
初代プレイステーションを救ったのは『バーチャファイター』!? SCE創業メンバーたちがその成功の背景を語った 「勝てると思っていたわけではないし、負けると思っていたわけでもない。何が何でもやんなきゃいけないんだという、たったそれだけの話」(丸山氏) 2012年8月31日、エンターテインメント業界の各所で活躍してきた黒川文雄氏が主催するトークイベント“エンタテインメントの未来を考える会”(黒川塾 (弐))が都内で行われた。 音楽業界、映画業界、ゲーム業界など、エンターテインメント業界を幅広く渡り歩いてきた黒川氏が今回ゲストとして呼んだのは、丸山茂雄氏(247Music取締役会長)、赤川良二氏(ラルクス代表取締役)、藤澤孝史氏(T.C.FACTORY取締役)ら、ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)の創業メンバー。プレイステーションがいかにして生まれ、一大勢力へと成長したのかが語られ
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く