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日経新聞の「経済教室」や「やさしい経済学」は、経済学者(たまに経営学者や社会学者も)が自分の研究テーマを絡めながら政策動向などについてわかりやすく考察したり政策提言したりしていて、いつも勉強になる。でもたまにヒドイのがある。今日の榊原英資もその一つ。 まずは冒頭の要約から。 階層の固定化を伴いながら若い世代ほど格差が拡大していることは否めない。教育を中心に悪平等主義がまん延したことが原因であり、ポスト産業資本主義の時代には、こうした悪平等を拝し、高い教育を受ける機会を与え、公平な競争を進めて、格差論議を乗り越えるべきである。 次に本文からの抜粋。 ポスト産業資本主義における能力主義、知識重視と二代目・三代目の跋扈(ばっこ)は、実は、かなり矛盾する現象である。一部欧州諸国のように階級社会が長期に継続した国と違って、明治維新以来の日本の階層間の流動性はかなり高かった。しかし、このところポスト資
労政審の労働条件分科会が、 ついに雇用ルール改革の最終報告をまとめた。 明記されたのは、 「一定の条件を満たすホワイトカラーの会社員を労働時間規制の対象外とする制度の創設」 及び 「残業代の割増率引き上げ」 一方、今回も見送られたのは「解雇の金銭解決制度」*1、 といった感じで一般的には報道されているようだ。 残念なことに、この報告を受けて早速、 危機感を煽るメディアのネガティブキャンペーンが始まりつつある。 ニュースを見ても、不敵な笑みを浮かべる経営側委員と、 「これは労働者の命にかかわる問題です」と真顔で力説する 労働側委員の、極めて対照的な姿が描かれており、 年が明ければ、制度改革反対の大合唱が巻き起こるのは必至だろう。 某野党の幹事長(元党首)などは、 「ホワイトカラー・エグゼンプションという言葉自体が分かりにくい。残業代不払い法案といえば分かりやすい」*2 などといちゃもんを付け
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教育再生会議での野依良治座長の「塾禁止」発言があちこちで取り沙汰されている。 asahi.comより 「塾は禁止」 教育再生会議で野依座長が強調 議事要旨によると、野依氏は「塾はできない子が行くためには必要だが、普通以上の子供は塾禁止にすべきだ。公教育を再生させる代わりに塾禁止とする」と再三にわたって強調。 該当の議事録(PDF形式)へのリンクはこちら。 どちみち、仮に塾禁止などという提言を行ったところでそれが実現するはずもない状況なので、まあ年寄りの戯言か、という程度の話なのだが、あちこちで反応があるのは、それなりに何か言いたくなるような案だ、ということなのだろう。 自分も反応しているし。 もしも塾禁止になったら、学校教育現場はどのようになるか、ということを想像してみた。 ここでいう塾は、野依氏の言うように、落ちこぼれを救うものは除き、学校の勉強の範囲を超えて学ぶ進学塾のようなものを考え
企業は順調に利益を上げているけど、儲けた金は、社員に還元しない。 儲けは、配当や株価上昇を通じて、株主に配られている.....かのように見えるが、 それはウソだ。 もしそれがホントウなら、普通の人でも、貯金して株を買って、株主になれば、 搾取される側から搾取する側になれるはず。 しかし、現実には、そんなことは無い。 なぜなら、現在の企業の株価は、その企業の将来の儲けまで織り込まれて値付けされているからだ。 かなり企業が儲けているのに、株価が下がることなんて、全然珍しくない。 もっと儲けるだろう、という期待で株価が膨らんでいるのに、期待よりも儲けが少なかったときなんかがそうなる。 むしろ、知識に乏しい普通の人が、株を買うと、儲けるどころか、損をすることも多い。 長期保有すれば儲け続けられるということも無い。 じゃあ、政府が規制をかけて、企業が儲けた金を、社員に還元しなければならないように し
最初に見たのは、1990年代の後半だったような記憶があります。最初に学生がそうしているのを見た時にはショックを受けたのですが、最近はかなり多くの人がそれをやるようになっています。というか、一時期に比べると減っているのかもしれないと思うこともあります。 今は30代前半くらいの人でもする人がいるような気がしますが、年齢が上がっていくとともに、やらなくなるものなのかもしれません。 確かに、手をメモ代わりに使うという発想は革命的というか、ペン以外はなにも道具を必要としないので、メモ帳としては最高のものなのかもしれません。人によって場所に微妙なこだわりがあるのかもしれませんが、多くの人は目に付きやすい左手の親指の甲側根元あたりや手の甲の真ん中、あるいは人目が気になる人は親指の内側根元付近に書く人が多いようです。 ボールペンやサインペンで書きますので、お風呂にはいったりあるいはよほど一所懸命手を洗わな
『市民の図書館』と「これからの図書館像」、経済界が望む図書館はどっちだ? もうひとつぐだぐだ考えていたのがこのこと。 以前にこちら(ケペル先生のブログ「図書館幕末血風録」)を読んだときから少し"もやっ"としたものが。いや、リンク先のお話を読んで考えるものがあった訳ではなく、「これからの図書館像」が指定管理者制度導入、更には新自由主義と結びついているという論拠が全然理解できないので、頷きには全く繋がりはしないのだが、一応指定管理者制度と図書館という事だけで考えても、指定管理者制度=民間解放で経済界大喜び、ということが論であるならば、はっきり言って公共図書館の指定管理者なんて民間業者にとっては利にならない効率の悪い商売であり、かつ運営方法についてもよく分かっていない役所や評価委員とかいう外部識者に好き勝手に意見され、翻弄されるので、TRCのような豊富な知識と強固な(?)信念で指定管理者とな
夕張市の図書館廃止に勝手に抗してみる ちょっと遅いですが、夕張市の図書館廃止についてつらつら。 報道でご存じの通り、夕張市は財政破綻により財政再建団体となる見通し、その財政状況も過去の財政再建団体とは桁違いであり、こうなっては図書館や美術館だって例外とは成り得ないのでしょう。このような現実を前にすると、業界内で散見される上辺だけの「公共図書館は絶対必要、特別な施設なんだから」論なぞ、微力にもならないんじゃないだろうか。 というところでしばらく思考が止まっていたのですが、じゃあ廃止でしょうがないね、で終わってしまってはほんとはいけない施設なんじゃないか、公共図書館は、という思いだけがくすぶっていたのです。 で、数日間、足りない頭で考えたのですが、どうにもうまく論が整理できず、といってこれだけ考えて何も書かないでは無関心と同じかということで、考えたことをだらだら書いておきます。お目汚し
安倍は憲法改正の動機の説明においてよく「日本人の手による憲法」という言葉を使う。この主張に色々と含まれている「議論としての甘さ」についてはとりあえず今は置く。しかし「日本人が自ら憲法を書く=作ることが重要だ」と言っておきながら、例えば国民投票法案では最低投票率規定も設けず、「とにもかくにも成立させればこっちのものだ」的なやり方を図るのはなぜなのか。「日本人が自ら作ったと思える憲法を」とは、「なるべく多くのコミットメントこそ憲法の重要な構成要素」であるということではないのだろうか。 「日本人の手による憲法」=「(手続きにおいて)なるべく多くの国民がコミットした憲法」では必ずしも無いとすれば、それは結局「内容的に」日本人らしい憲法であるということにならざるを得ない。しかしそもそも「日本人らしさ」とは誰が判断するというのか。 思うにそれは「人権メタボリック症候群」に罹った「醜く」・「不健全な」
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