データの「発生」を管理下における「実験レポート」と異なり、人文系の研究の場合、その語源に近く「与件・与えられたもの」でのやりくりを半ば強いられる。 もちろん資料は努めて蒐集されるが、「残っていないもの」については断念するしかない。 こうした条件の下、論文執筆の手がとまるのは、構成の破綻か資料の不足が原因である。 そして、しばしば、構成の破綻は、ただ知力の不足のみならず、資料の豊逸によっても引き起こされる。 同じように資料の不足は、構成プランの作り込み過ぎが、しばしばその原因となる。 一方は、資料の豊かさに対して、論旨および構成がシンプル過ぎて、資料が盛り込めず溢れ出している。 主張を裏付ける資料もあれば、否定する資料もある。 議論の口を早く占め過ぎてしまったのか。 無論、論旨に逆らう資料をばっさり切って捨てる手もある。 守勢に回りすぎる論文は、批判を封じるには長けていても、ほぼ学問的には無
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