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ブックマーク / 55096962.seesaa.net (2)

  • 「ウル第三王朝」が「第三」なら第一と第二はどこにあるのか探してみた

    探してみたっていうか前から無いなー無いなーってずっと思いながらなんとなく探してた。ええ、結論。ありました。 じゃなくて… 見つからないということが判りました。 第一と第二があると想定して「第三」と呼んでたのに 第二王朝の存在が不明 わりと「あるある」なパターンなんですが、どうしてこうなったのかというと。 ・「シュメール王名表」を元に都市国家ウルの王朝を想定 ・しかし第二の部分は実在したという証拠のある王様が今のところでてきてない ・ウルの場合、確実な歴史記録のあるのは「第三王朝」として知られる王様たちから ・第一の何人かは実在の証拠があるが、第二のあたりの時代はそもそもウルに単独の王がいない 年表だとこういうこと。(出展元「初期メソポタミア史の研究」) 第一王朝のあとはウルクの支配を受け、その後ルガルザゲシ以降はアッカド王朝の支配下に入るので、ここに果たして王朝が入るのかどうか今は微妙なカ

    「ウル第三王朝」が「第三」なら第一と第二はどこにあるのか探してみた
  • 「島のケルト」は「大陸のケルト」とは別モノだった。というかケルトじゃなかったという話

    歴史上の民族としての「ケルト」と、近代に作り出された「ケルト的なもの」の間には、深い溝がある。多くの人が持っているイメージは商業的な、そして近代のナショナリズムが生み出した「ケルト的な」幻想に過ぎない。 ――という話はわりと昔から言われていたのだが、最近の研究を久し振りに読み返してみたら、まさかの展開になっていた。 「そもそも島のケルトはケルトじゃない」 「中世以降のケルトは自称してるだけだった」 なんとアイルランドもウェールズも「ケルトを自称する別の何か」でケルト人の子孫じゃなかったのだ。 ******************************** 【旧来説】 ・ケルト人はローマに大陸から追い払われて島の片隅にしか残らなかった ・ケルト人が移住していったから製鉄技術が広まった ・「島のケルト」と「大陸のケルト」は少し違うものとして扱われる このあたりは知ってる人も多いだろうし、いま

    「島のケルト」は「大陸のケルト」とは別モノだった。というかケルトじゃなかったという話
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