■100年をたどる旅~未来のための近現代史~④予告された敗戦 「国防は軍人の専有物にあらず」「国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養(かんよう)し、一方外交手段により戦争を避くることが、…
※本記事はアフィリエイトプログラムによる収益を得ています 2020年2月に行われた上映会でインターネットのごく一部をザワつかせ、そして先日12月20日の配信上映会(関連記事)でも大いに話題になった映画「アフリカン・カンフー・ナチス」。さらにこの12月23日にはAmazonプライム・ビデオにてVODでの配信も開始された。第二次世界大戦を生き延び潜水艦でアフリカはガーナにたどり着いたヒトラーと東條英機がカラテの力でガーナを征服、それに対し地元のカンフー道場に通うぐうたらな青年が一念発起して立ち向かうという、2回くらいストーリーを聞き返したくなるトラッシュ・ムービーである。 ちなみにこのポスターだけはガーナではなくドイツで作ったとのこと しかし、なぜ「アフリカ」「カンフー」「ナチス」というお題を組み合わせようと思ったのか。監督は日本在住のドイツ人だというが、そもそもどうやってこの映画の着想を得て
2021年06月07日22:30 【歴史】東条英機さん、日本国民の「はよ開戦しろ」「意気地なし」という声に押されて戦争していた Tweet 1: 風吹けば名無し 2021/06/07(月) 09:57:53.52 ID:03YY9eRR0 いつの時代でも国民はアホやね。 「東条英機が先頭に立つことで日本は戦争に突入していった」と思っている方もいるかもしれませんが、実は、「戦争をしたくない」という昭和天皇の思いを一番重んじていたのは東条英機だったそうです。 東条英機の開戦決断について、その時代の空気が後押ししたと言います。なかなか宣戦布告しない東条英機に対し、国民は、「早く開戦しろ」「意気地なし」「卑怯者」などという声を上げていたといいます。日本が3年半~4年で敗戦することはシミュレーションによって分かっていたのに、作戦があるから戦わざるを得ないという流れに乗ってしまったそうです。 時局から
The Legend Interview不朽 1913年に創刊された週刊ダイヤモンドには、日本の産業史に名を残す大経営者が数多く登場してきた。その中から、今でも色褪せることのない至極のインタビュー記事を、当時の時代背景に関する解説記事を加えて再編集し、お届けする。 バックナンバー一覧 太平洋戦争開戦時の首相であり、戦後はA級戦犯として絞首刑に処された東条英機(1884年12月30日~1948年12月23日)。1952年5月15日発行の「ダイヤモンド」臨時増刊「日本の告白」という雑誌に、「東条英機の遺言」と題された12ページに及ぶ特集が組まれている。メインコンテンツは、タイトル通り東条の遺書で、48年12月23日の死刑執行の1時間半前、教誨師の花山信勝に託した遺言の全文が掲載されている。記事には、死刑の十数分前に手錠をかけられたまま自署した絶筆の署名も添えられている。 遺言は、花山が独房で東
『昭和史』や『日本のいちばん長い日』など、数々のベストセラーを遺した半藤一利さんは、今年1月に90歳で亡くなられました。陸軍将校による座談会の記録を、昭和史研究の基礎資料として読み込んできた半藤さん。 「アメリカと戦争するなんて、夢にも思わなかった」。参謀本部、陸軍省の元エリートたちは、口を揃えてそう言いました。1941年、日本最強の巨大組織で、何が起こっていたのでしょうか。『なぜ必敗の戦争を始めたのか』(文藝春秋)より一部抜粋して紹介します。(全2回の1回目/後編を読む) ◆◆◆ 独ソ開戦前後と日本の国力 さて、まずは独ソ開戦前後と日本の国力についての興味深いエピソードから。 この独ソ開戦の1日前の昭和16年6月21日、アメリカは石油の全面輸出許可制に踏みきっているのです。これは日本からみれば事実上の輸出禁止と判断しなければならなかった重大なことであったのです。そこで翌22日、陸軍省燃料
仕事ができて部下に慕われ、上司の非は遠慮なく指弾する。このため何度も左遷させられるが、そのたびに実力で本社に戻ってライバルに「倍返し」――。人気TVドラマ「半沢直樹」のストーリーではない。東条英機元首相(陸軍大将、1884~1948年)の若き日の軌跡だ。東条が多くの犠牲者を出した太平洋戦争を開始し、軍国主義のシンボルとして批判されるべきA級戦犯であることに変わりない。しかし30~40代の東条は名連隊長、名課長として知られていた。ビジネス現場の多様化が進む令和の企業トップは、細部も把握する名課長としての手腕も要求されるという。しかし名課長必ずしも名社長ならず。卓越した中間管理職だった東条英機の限界を、埼玉大学の一ノ瀬俊也教授に聞いた。 大正デモクラシーの空気を吸った「平民派」 太平洋戦争中のよく知られるエピソードがある。1942年7月の朝4時過ぎ、東条は札幌の街で道ばたのゴミ箱から菜っ葉の切
2022.09.22 東条英機が現代によみがえってしまった (2) テーマ:ニュース(100594) カテゴリ:戦争と平和 プーチン大統領への抗議デモ参加者に軍への召喚状を渡す ロシア報道 ロシアの独立系メディア「メドゥーザ」は22日、プーチン大統領が発表した「部分的な動員令」に反対し、警察署に拘束されたデモ参加者に軍への召喚状が手渡されたと報じた。 モスクワの複数の警察署では、召喚状が拘束者に直接手渡されたという。別の警察署では、近く召喚状が手渡されることになる、と拘束者に告げられているという。 メドゥーザによると、ある拘束者は、召喚状への署名を拒否すれば刑事事件で立件されることになる、と脅されたという。 プーチン氏は21日、「我が軍が対峙するのは事実上、西側集団の全戦争マシンだ」などと述べ、軍務経験がある予備役の市民を招集することを明らかにしていた。 --- 記事を読んだ瞬間、タイトル
ドイツ視察時に現地要人と握手する山下奉文陸軍中将(当時、手前右)=1941年1月、ベルリン(ゲッティ=共同) 日本陸軍の山下奉文(ともゆき)中将率いる欧州視察団が、対米英開戦前夜の昭和16年にまとめた報告書からは、国家総力戦体制の構築や航空兵力が加わった近代戦の戦術をドイツから吸収、発展させようとした合理的側面が浮かび上がる。しかし戦時中の軍部や陸軍内の派閥対立が変革を阻み、多方面に弊害をもたらした。非常事態における組織運営をはじめ、現代に通じる教訓は少なくない。 「ドイツ軍に協力を希望」山下視察団が示した国防機構一元化などの改革案が実現しなかった背景には、陸軍の実力者だった山下と、東条英機陸相との反目があったともいわれる。陸軍には「自分に楯突く者を遠ざける」との東条評があった。 視察団の一員だった高山信武(しのぶ)陸軍少佐が著した『参謀本部作戦課 作戦論争の実相と反省』(昭和53年、芙蓉
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く