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門田博光の検索結果1 - 11 件 / 11件

  • 門田博光さんが急死 74歳 プロ野球歴代3位の通算567本塁打

    南海、オリックス、ダイエーでプロ野球歴代3位となる通算567本塁打を放った門田博光(かどた・ひろみつ)氏が死去したことが24日、分かった。74歳。 門田さんの親族が明かした。かねて兵庫・相生市内で療養中だった門田さんは、23日に予定されていた通院治療に現れなかったという。病院から相談を受けた警察官が自宅を訪ねたところ、倒れていた門田さんを見つけた。 オールスター第1戦で殿堂入り表彰を受けた門田博光さん=2006年7月21日門田さんは奈良・天理高、クラレ岡山を経て1970年ドラフト2位で南海に入団。79年2月のキャンプで右アキレス腱を断裂する大けがを負った。懸命なリハビリの後、指名打者(DH)として復活。81年に初の本塁打王を獲得し、40歳の88年に本塁打、打点の2冠とパ・リーグMVPに輝いたことから「不惑の大砲」と呼ばれた。 南海がダイエーへの身売りで消滅した89年にオリックスに移籍。91

      門田博光さんが急死 74歳 プロ野球歴代3位の通算567本塁打
    • 門田博光さんが急死 74歳 プロ野球歴代3位の通算567本塁打(サンケイスポーツ) - Yahoo!ニュース

      南海、オリックス、ダイエーでプロ野球歴代3位となる通算567本塁打を放った門田博光(かどた・ひろみつ)氏が死去したことが24日、分かった。74歳。 【写真】王貞治氏、野村克也氏、門田博光氏のスリーショット 門田さんの親族が明かした。かねて兵庫・相生市内で療養中だった門田さんは、23日に予定されていた通院治療に現れなかったという。病院から相談を受けた警察官が自宅を訪ねたところ、倒れていた門田さんを見つけた。 門田さんは奈良・天理高、クラレ岡山を経て1970年ドラフト2位で南海に入団。79年2月のキャンプで右アキレス腱を断裂する大けがを負った。懸命なリハビリの後、指名打者(DH)として復活。81年に初の本塁打王を獲得し、40歳の88年に本塁打、打点の2冠とパ・リーグMVPに輝いたことから「不惑の大砲」と呼ばれた。 南海がダイエーへの身売りで消滅した89年にオリックスに移籍。91年に古巣となるダ

        門田博光さんが急死 74歳 プロ野球歴代3位の通算567本塁打(サンケイスポーツ) - Yahoo!ニュース
      • 門田博光さん死去 ホームラン王3回 歴代3位の通算567本 | NHK

        プロ野球・南海などで豪快な一本足打法で活躍し、歴代3位の通算567本のホームランを打った門田博光さんが亡くなりました。74歳でした。 門田さんは山口県出身で奈良の天理高校から社会人野球のクラレ岡山を経て昭和45年にドラフト2位で南海に入団し、2年目でレギュラーに定着、打点王のタイトルを獲得しました。 右足をあげてタイミングをとる豪快な一本足打法で、球界を代表するホームランバッターとして活躍しました。 昭和54年のキャンプでアキレスけん断裂の大けがを負いましたが、そこから懸命のリハビリを重ねて指名打者として復活を果たし、よくとしの昭和55年に41本のホームランを打ったほか、昭和56年と58年にはホームラン王に輝きました。 身長1メートル70センチと野球選手としては小柄な体格ながら、プロ23年間でホームラン通算567本と通算1678打点は、いずれも王貞治さん、野村克也さんに続く歴代3位の記録で

          門田博光さん死去 ホームラン王3回 歴代3位の通算567本 | NHK
        • ホームランに取り憑かれた人生・門田博光という男【コラムその90】 - スタ辞苑〜全国スタジアム観戦記〜

          2023年1月24日、南海ホークスの主砲を務めた門田博光氏が亡くなりました。 通算本塁打数、通算打点ともに王貞治氏、野村克也氏に次ぐ第3位という日本を代表する大砲でした。 しかし、王氏、野村氏に比べるとメディア露出も少なく、指導者としてもほとんど活動していなかったことから、どういった選手だったのか、どういった人柄なのかを知る機会は中々なかったのが実情でしょう。 そこで今回は門田氏を偲び、その生涯を追っていきたいと思います。 1.年齢を重ねるごとに凄みを増していった打棒 2.野村・王にも譲らなかったホームランへのこだわり 3.くすぶり続けたホームランへの情熱 4.まとめ 1.年齢を重ねるごとに凄みを増していった打棒 1948年、山口県に生まれた門田氏は、父親が事業に失敗した影響でつつましい子供時代を送りました。 天理高校の4番として活躍した後は、クラレ岡山硬式野球部に進みます。 高卒即プロで

            ホームランに取り憑かれた人生・門田博光という男【コラムその90】 - スタ辞苑〜全国スタジアム観戦記〜
          • 「不惑の大砲」門田博光さん74歳で死去 歴代3位の567本塁打

            プロ野球南海、ダイエー(いずれも現ソフトバンク)、オリックスで歴代3位の567本塁打を放った門田博光(かどた・ひろみつ)さんが死去したことが24日、分かった。74歳だった。 奈良県出身。奈良・天理高、クラレ岡山を経て昭和45年、左の好打者としてドラフト2位で南海に入団。54年2月のキャンプ中に右アキレス腱を断裂する大けがを負ったが、選手生命の危機を乗り越え、指名打者(DH)で復活。身長170センチと小柄な体格ながら、フルスイングを身上に本塁打にこだわる打撃を追求し、56年には44本で本塁打王のタイトルを初めて獲得した。同年7月には当時日本記録の月間16本塁打を達成した。 40歳で臨んだ63年は本塁打王、打点王の2冠に輝き「不惑の大砲」「中年の星」と呼ばれ、最優秀選手(MVP)に選ばれた。平成元年からオリックス、3年からダイエーに在籍し、4年に44歳で引退した。 通算成績は2571試合出場で

              「不惑の大砲」門田博光さん74歳で死去 歴代3位の567本塁打
            • 元南海・門田博光さん死去 74歳 プロ野球歴代3位の567本塁打 | 毎日新聞

              プロ野球・南海(現ソフトバンク)ホークスの長距離打者で、1988年に40歳で本塁打、打点で2冠に輝いた門田博光(かどた・ひろみつ)さんが死去したことが24日、分かった。74歳。兵庫県警の警察官が県内の門田さんの自宅を訪れ、亡くなっていることを確認した。 48年、山口県小野田市(現・山陽小野田市)生まれ。奈良県に移住後、天理高では外野手で65年夏の甲子園に出場。社会人野球のクラレ岡山を経て、ドラフト2位で70年に南海…

                元南海・門田博光さん死去 74歳 プロ野球歴代3位の567本塁打 | 毎日新聞
              • 「ノムさんが呼んどるぞ」10年前、門田博光が初めて語った“野村克也への後悔”「寂しい背中で部屋から…」噂と違った“カドタの実像”(田尻耕太郎)

                そんな門田さんに、筆者は一度だけじっくりと話を伺ったことがある。 今から10年前の2013年のこと。ホークスが球団創立75周年を迎えた記念事業としてホークス75年のベストナイン「LEGEND HAWKS」を決める企画が行われた。ファン投票と並行して、識者にも選定してもらおうということで何人かの球団OBを訪ねてインタビューすることになった。そこで門田さんにオファーをしたのだ。 球界のレジェンドと直接会える滅多にない機会。その幸運に興奮したのは今も憶えている。だが一方で、気が重かったというのも正直な気持ちだった。 事前準備のため、日頃から親しくさせてもらっている南海やダイエーのOB数人に門田さんに会うことを伝えて情報を得ようとしたのだが、みな表情が曇るのだ。 「あの人は気難しいぞ……」 「変わり者って言われてたな」 「マスコミ嫌いだから、喋ってくれないかもよ」 筆者は当時30代半ばで、ライター

                  「ノムさんが呼んどるぞ」10年前、門田博光が初めて語った“野村克也への後悔”「寂しい背中で部屋から…」噂と違った“カドタの実像”(田尻耕太郎)
                • “孤高の鬼才”門田博光が振り返る野村克也との関係「確執とかそんな単純なもんやない」 | 日刊SPA!

                  大男たちが一投一打に命を懸けるグラウンド。選手、そして見守るファンを一喜一憂させる白球の行方――。そんな華々しきプロ野球の世界の裏側では、いつの時代も信念と信念がぶつかり合う瞬間があった。あの確執の真相とは? あの行動の真意とは? 第1回では“孤高の鬼才”と呼ばれた男、門田博光の光と陰に迫る。 【画像をすべて見る】⇒画像をタップすると次の画像が見られます 「引退後、友人はいません。一匹狼やったからね。勝負の世界はひとりでいい、プロならば周囲になんと言われようとも成績を残すことだけを突き詰めればいい。“19番”との一件から、そう思って一切人を寄せつけてこなかった。でも、引退したら横の繫がりがないから大変やね。話し相手もいないし……」 73歳の門田博光は、静かな笑みを浮かべながら息を吐くようにそう言った。’70~’80年代に南海、オリックスで活躍した往年の大スラッガーの絞り出した吐息はあまりに

                    “孤高の鬼才”門田博光が振り返る野村克也との関係「確執とかそんな単純なもんやない」 | 日刊SPA!
                  • 村田兆治も門田博光も、独居15年の “孤独死”…名選手たちが抱えていた「2007年問題」 - Smart FLASH/スマフラ[光文社週刊誌]

                    村田兆治も門田博光も、独居15年の “孤独死”…名選手たちが抱えていた「2007年問題」 社会・政治FLASH編集部 記事投稿日:2023.02.07 14:55 最終更新日:2023.02.07 16:11 1月24日、プロ野球歴代3位となる567本塁打を記録した門田博光さん(享年74)が、亡くなっているのが発見された。 離婚後、2006年から兵庫県の山奥にある別荘地で一人暮らしを続けており、近年は持病の糖尿病が悪化。腎不全で透析を受けていた。受診予定だった病院に姿を見せず、連絡を受けた警察官が門田さんの自宅を訪ねたところ、亡くなっていたという。 【関連記事:カリスマAV男優・沢木和也が壮絶ガン死……盟友が初告白「彼は公私混同の天才ジゴロ」】 2022年11月11日には、門田さんと真剣勝負を繰り広げた元ロッテ投手の村田兆治さんが、自宅の火事で亡くなった(享年72)。妻は現役時代の村田さん

                      村田兆治も門田博光も、独居15年の “孤独死”…名選手たちが抱えていた「2007年問題」 - Smart FLASH/スマフラ[光文社週刊誌]
                    • 門田博光が語っていた死生観。晩年15年間100回以上顔を合わせ、最後の通話者でもあったライターが明かす、レジェンドとの会話

                      webスポルティーバ野球の記事一覧プロ野球門田博光が語っていた死生観。晩年15年間100回以上顔を合わせ、最後の通話者でもあったライターが明かす、レジェンドとの会話 プロ野球のキャンプがスタートし、WBC日本代表の話題にも楽しみが詰まる。球春到来を感じる一方で、門田博光の訃報から1週間あまりが過ぎた。私のなかで、球史に偉大な功績を残したスター選手がこの世を去った寂しさとはまた違う、いつも身近にいた人を突然失ったつらさが日毎に増している。 おこがましくも"球界のレジェンド"を、いつからか歳の離れた友人のように感じるようになっていた。あらためて数えてみると、この15年の間に門田と100回以上も顔を合わせ、「ナンバーワン(王貞治氏)を超える選手を育てたい」という夢の話から、打撃の極意、日常のぼやき、病、家族、酒、死生観......さらにはダイヤモンドを掘り当てたいという、門田曰く"アホな話"まで

                        門田博光が語っていた死生観。晩年15年間100回以上顔を合わせ、最後の通話者でもあったライターが明かす、レジェンドとの会話
                      • 門田博光が回想する村田兆治とのマンガの世界のような真剣勝負。「フォークの握りを見せてから放ってくることもあった」

                        webスポルティーバ野球の記事一覧プロ野球門田博光が回想する村田兆治とのマンガの世界のような真剣勝負。「フォークの握りを見せてから放ってくることもあった」 「病院でテレビ見とったら、兆治の家が燃えてる言うから、なんかいなと思うとったら......元気でやっとると思うとった人間が、まさかや」 村田兆治さんが亡くなり1週間が過ぎた日の午後。ホテルのミーティングルームで会った門田博光は、ずいぶんと疲れているように見えた。自らも病院通いが続き、そこへ同時代を戦ったライバルの突然の訃報。気分が沈んでいることは、その口調からも十分伝わってきた。 「一酸化炭素というのは、ある程度吸ったら意識がなくなるんか? おそらくは苦しまんと逝けたということかいな」 門田も過去にボヤを起こし、気づくのがあと少しでも遅れていれば......という経験をしたことがある。酒を飲みながら趣味の油絵を描いていたところウトウトと

                          門田博光が回想する村田兆治とのマンガの世界のような真剣勝負。「フォークの握りを見せてから放ってくることもあった」
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