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ブックマーク / yuhka-uno-no-nikki.hatenadiary.jp (18)

  • 『女の子よ銃を取れ』を読んで―抑圧からの解放 - yuhka-unoの日記

    女の子よ銃を取れ 作者: 雨宮まみ出版社/メーカー: 平凡社発売日: 2014/05/23メディア: 単行(ソフトカバー)この商品を含むブログ (5件) を見る『女の子よ銃を取れ』(著者:雨宮まみ)。このは、過去記事『おしゃれ、したかったよね。―服が捨てられなかった私の話―』で書いたように、「おしゃれに興味のない、流行に疎い子でいて欲しい(金がかかるから)」という母親の願望を内面化していた私が、「私、当はおしゃれしたかった!」となって、押さえつけられていた欲望を解放していく過程で読んだ。このの冒頭部分に、“「美しくなりたい」と思う気持ちは、私の中では「自由になりたい」と、同義です。”と書いてあるけれど、私にとっておしゃれをすることは、まさに、母親や世間の抑圧から逃れて自由になることだったのだ。 特に共感したのは、「かわいくない女の子」の項。著者は、ドバイに旅行に行って、「なんとも言

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  • 「オシャレ=チャラ男&キラキラ女子=バカ」という偏見、あるいはオタクとファッションについて - yuhka-unoの日記

    「オシャレ=チャラ男&キラキラ女子=バカ」という偏見は、一般人のオタクに対する偏見と同じ 自分で言う、勉強熱心な方だから興味があればやってた。しかし、 ファッション誌を見ることもかっこ悪いし、 チャラいやつと会話するのもかっこ悪いし、 服とワックスとノリの良さキラキラ女子はバカっぽく見えるし、 …と、完全にバカにしてた。 「そんなの、偏見だ」 と言われるかもしれない。 だが、人間は往々にして「かっこいいと思ってるもの」「他を圧倒する何かしらのカリスマの意見」しか自分の中に響かないようにできている。 だが、僕の中で「僕よりもオタクで、僕よりもオシャレでモテて、好感が持てる人」が現れたのは、つい最近のこと。 それまでは、10年ほど「何がすごいかわからないし、そもそもバカだからああいうことでしか楽しめないんでしょ?」ぐらいには斜に構えていた。 オシャレに無関心な男に、母親や彼女が服を買い与えても

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  • 自分の命を人質にして相手を脅迫する人たち - yuhka-unoの日記

    能町氏、雨宮氏、抗議を行う - Togetterまとめ 能町みね子・雨宮まみによる北条かやへの抗議 - Togetterまとめ 北条かや氏の、取材・調査上の倫理違反や、著作者としての不誠実さ・責任感のなさについて、能町みね子氏や雨宮まみ氏など、複数の人たちが、何が悪かったのか懇切丁寧に抗議しているにもかかわらず、北条かや氏から出て来る言葉は、「嫌われて悲しい」「悔しい」「死んでお詫び」といった言葉ばかり。これを読んで、私は、小保方晴子の件と、「自虐おわび」という言葉と、かつて自分が遭遇した、自分の命を人質にして相手を脅迫する人のことを思い出した。私は、その一件以来、この手の人に対しては、「ああ、こいつの要求を叶えてやる必要なんてないわ」と思ってしまうようになった。 自分の命を人質に相手を脅迫するタイプの人は、虐待、DV、ストーカー等の、対人依存傾向が強い人たちに多い。「別れるって言うのなら

  • 「残したらもったいないから」―他人の胃袋をゴミ箱にする人たち - yuhka-unoの日記

    で、最初に注文する時に頼みすぎる、あるいは、料理を作る時に作りすぎてしまって、後で「残したらもったいないから」と言って、無理矢理べてしまう人。人だけがべるのなら、どうぞご勝手にだけれど、同席している他人にまでべることを強要して、一緒に行った人に多大な苦痛を与えてしまう人がいる。私だって、残すのはもったいないと思うし、べ物を無駄にするのは嫌いだけれど、こういう人たちは、べ物を無駄にしているとしか思えない。 そもそも、なぜ事をするのかというと、健康に生きるためだ。だから、べ過ぎて健康を害していたのでは、べる目的としては末転倒なはずである。べ物をべ物として活かすことができるのは、胃袋の許容範囲内に止めているところまでだ。それまでなら、べ物は美味しく、楽しみをもたらし、栄養になる。しかし、許容量を超えたべ物は、苦しく、十分に栄養として吸収されないまま、下痢や吐瀉物と

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  • モテないことでバカにされない社会が良いと思うわけ - yuhka-unoの日記

    20歳前後の頃だったかと思うけど、中村喜春という人のエッセイを読んだことがあった。この人は戦前に新橋で芸者をして、結婚して離婚し、戦後アメリカに渡り、アメリカがすっかり気に入って、留学生の世話などしながらアメリカで暮らしたという、なかなか面白い経歴の人だった。著者がこのを書いたのは、たぶん80歳を超えてからだったんじゃないかと思う。 ときめきが大事だと言い、おしゃれが好きで、地味な着物を着ることを嫌い、男性との付き合いもそれなりに沢山ありそうな人だと思うのだが、「人生当に悲しい別れは3度あった」と書かれていた。恋愛絡みの別れだった。 もうひとつ、これは男性が書いたエッセイで、その人は奥さん公認で他の女性とデートをする人なんだけど、「もし病気になって死が近いということになったら、女房の他に会いに行きたい女性は二人いる」という。 私はこれらのを読んで、「沢山お付き合いしてそうな人でも、

    モテないことでバカにされない社会が良いと思うわけ - yuhka-unoの日記
  • 仕事ができない「過真面目」な人について - yuhka-unoの日記

    向上心がないやつはほんとにどうしようもない http://anond.hatelabo.jp/20100707221911 http://anond.hatelabo.jp/20100709111531 読んでて、これなんて私(´;ω;`)ってなった… 世の中には、たまにこういった「過真面目」な人がいる。そして、「過真面目」な人は、仕事ができない上に普通の指導法も通用しないのだね。 あまりにも共感したので、私なりの考えとそうなった原因について書くことにする。 まず、増田でいわれている「真面目になる」「不真面目になる」という言葉を「緊張度」という表現で説明してみる。 緊張度をグラフで表すと、緊張度0の状態がグダグダ・怠惰・自堕落の状態であり、緊張度100の状態がキャパ超え・パニック・の状態で、0と100、どちらになっても仕事はできない。 で、仕事で求められるの緊張度が50くらいだとすると、

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  • 「若者フォビア」―なぜ年長者は若者を叩いてしまうのか― - yuhka-unoの日記

    それから15年くらいして、今から8年くらい前に同世代の男性編集者と話していたら、「今の男がだらしない」と言いだしたので、「今の若者は団塊やバブルよりよっぽどましだよ」と私が言ったら、驚かれて。それで「今の若者はましである」という企画で誰かに書いてもらおうと思ったんです。私はもともと単行の編集者で物書きではないですから。そうしたら、「深澤さん、若い男を褒める企画なんか嫌だ」とみんなに断られたんです。 竹信 へえ。 深澤 「みんなそんなに若い男が嫌いなのか」と驚きました。それで「それなら、深澤さんが書けば」と言われて、2006年に「日経ビジネスオンライン」で始めたのが、「U35男子マーケティング図鑑」という、若い男性の面白さを中年男性に伝える内容の連載だったんです。 1回目は「リスペクト男子」といって、家族や友人を尊敬する男性を紹介した。その連載の中の1つに「草男子」っていうのもあったんで

    「若者フォビア」―なぜ年長者は若者を叩いてしまうのか― - yuhka-unoの日記
  • 論じられるべきは若者ではなく、むしろオヤジのほうだ - yuhka-unoの日記

    なるほどね。いくら「若者よもっと怒れ」と言っても、こんな社会にした大人の責任はどうよ、と問い返されると、オヤジとしても、なあ……。 でも、言わせてもらう。 私たちは最近の社説でも、世界の政治は若者が動かし始めたと説き、若者よ当事者意識を持てと促した。それだけ社会が危うくなっていると思うからだ。 だから、くどいけれど、きょうも言う。成人の日ってのは、そんなもんだ。  ともあれ、おめでとう。 ―2012年1月9日 朝日新聞社説― 色々と話題になって、このブログでも取り上げた、成人の日の朝日新聞の社説について、こんな意見があった。 オヤジによる若者論への違和感 - Togetter なぜ、オヤジは若者論を語るのか。 なぜ、年長の女性はそれをしないのか、について考えました。 私は、今の時代は、経済的なことはともかく、価値観的には良い時代になってきていて、今の時代に生まれて良かったと思っているのだが

    論じられるべきは若者ではなく、むしろオヤジのほうだ - yuhka-unoの日記
  • なぜ、若者と見れば「甘やかされている」と思ってしまうのか - yuhka-unoの日記

    若者と見れば甘やかされている、一人っ子と見れば甘やかされている、お金持ちの家の子と見れば甘やかされていると考えてしまうのは、自己承認欲求なのだろう。「自分はこんなに努力して苦労している」→「あいつは努力して苦労していないに決まっている」→「あいつは甘やかされている」という思考回路だ。 もちろん、若者だから、一人っ子だから、お金持ちの子だから甘やかされているかというと、必ずしもそうではなく、個々の事情は異なる。しかし、これらの人のことを、すぐに「甘やかされている」と見てしまう人は、実はその人自身が一番甘えたくて、自分の努力や苦労を褒めて欲しいのだろう。しかし、自分の中の「甘えたい」という気持ちを抑圧しているので、素直に「褒めて欲しい」と言えない。だから、他人の努力や苦労を過小評価する形で、自己承認欲求を満たそうとする。 つまり、「自分だけが可哀想」と思い込みたい心理に似ているんだと思う。「自

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  • 我侭な人ほど、自分は「普通」で「一般的」で「多数派」だと思い込む - yuhka-unoの日記

    まともな人ほど「私はこう思う」と言い、我侭な人ほど、自分は「普通」で「一般的」で「多数派」だと思い込む。これはもう法則と言っても良い。 我侭な人は、「私はこう思う」と、自分個人の意見として言いたくない。なぜなら、批判されてしまったら、「私」が批判されていることになるからだ。我侭な人は、自分が批判されることに耐えられない。自分が批判されることをとことん避けたい。 だから、「普通はこうする」「これが常識だ」と言う。自分は「普通」で「一般的」で「多数派」なのだと思い込めば、批判してくる相手は、「私」ではなく「普通」や「一般」や「多数派」を批判しているのだと思える。自分自身を世間という大きな存在と一体化させててしまえば、自分に批判してくる相手は、普通じゃない非常識な人間なのだということにできる。こうして、常に自分のほうが正しいかのような幻想を形成する。 このような人が何か言う場合は、終始「私のほう

    我侭な人ほど、自分は「普通」で「一般的」で「多数派」だと思い込む - yuhka-unoの日記
  • 「自由か強制か」ではなく「自立か適応か」 - yuhka-unoの日記

    Togetter - 「橋下府知事(t_ishin)の教育についてのツイをきっかけに乙武 洋匡さん(h_ototake)が「僕が教員時代に最も頭を悩ませた問題でもあった」とツイート」 http://togetter.com/li/147955 橋下知事の教育観に乙武氏が自問する、という内容なのだけれど、これって一見「自由か強制か」の話に見えるけど、質は「自立か適応か」の話なんじゃないのかなぁと思う。 @t_ishin 橋下徹 人間の能のままに生きられる人はごく一握りの才能ある特殊人間。普通の人は、能と正反対のプレッシャーの中でストレスを感じながら生きていかざるを得ない。このストレスに耐えられるようにするのが教育。 http://twitter.com/#!/t_ishin/status/79772285501833217 もしかして橋下知事って、自由に生きるということを、能のまま好

    「自由か強制か」ではなく「自立か適応か」 - yuhka-unoの日記
  • 元いじめられっ子のいじめっ子 - yuhka-unoの日記

    いじめられた経験がある人間は、いじめられる辛さを理解しているので、他人に対して優しくなる―こう思っている人は多いかもしれないが、現実は残念ながら必ずしもそうではない。かつていじめられっ子だった者がいじめっ子になってしまうケースは、それほど珍しくないことなのだ。それは、自分の身の安全を守ろうとしてしぶしぶ加害者側に回るというレベルに留まらず、中には率先していじめを行う無慈悲なリーダーになってしまう者すらいる。 特に男性はそういう傾向にある。私が学生だった時も、積極的にいじめに関わる男子の中には、かつてのいじめられっ子や、男子の間でいじめられている男子が、更に弱い女子のいじめられっ子をいじめるという構図が見られた。 これはおそらく、男の子がいじめに遭った場合、女の子よりも「いじめられるなんて情けない、恥ずかしい、格好悪い」「やられっぱなしで悔しくないのか。男だったらやり返せ」などと言われるため

    元いじめられっ子のいじめっ子 - yuhka-unoの日記
  • 自立とは、自分の心の赤ちゃんのお守りを自分ですること - yuhka-unoの日記

    『愛国心と赤ちゃん願望』でも述べたが、人は「誰からも愛されたい。誰からも受け入れられたい。誰からも特別扱いされたい。誰からも否定されたくない。誰もが自分の望み通りに動いて欲しい。」という願望(幼児的万能感)を、多かれ少なかれ誰でも持っている。欲・睡眠欲・排泄欲が身体の根源的な欲求とするならば、この願望は精神の根源的な欲求だろう。 この願望は、例えて言うなら自分の心の中の赤ちゃんだ。心という家の中に、大人の自分(理性)と赤ちゃんの自分(感情)が一緒に住んでいるようなものだ。 精神的に自立するということはつまり、自分の心の赤ちゃんのお守りを自分でできるようになるということだ。赤ちゃんの話をよく聞いてやり、落ち込んでいたら抱き締めて慰めてやり、怒りを抱いていたら適切に発散できるよう取り計らう。 たまには、誰かに慰めてもらったり励ましてもらったりと、赤ちゃんの世話を他人に手伝ってもらうこともある

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  • 相手は自分より頭が悪いと思い込む材料としての「アスペルガー症候群」 - yuhka-unoの日記

    前回記事『頭が良い人になるには、「頭が良い人だと思われたい」という願望を捨てること』に、1000を超えるブコメがついて驚いた。そして、ブコメを読んでいるうちに、また色々と考えさせられた。 私がこの手の話で思い出すのは、山月記の李徴だ。李徴はもともと若くして科挙に受かるほど頭も良く、詩才もあったのに、自分の詩才を伸ばすことよりも、自分の自意識を保っておくことのほうを選んでしまった。つまり、「詩が上手くなりたい」という気持ちより、「自分は詩が上手い人だと思っていたい」という気持ちのほうが強かった。虎になる前の李徴の中では、自己評価が実際の自分の実力よりもずっと高くなってしまっていた。これについて人が全くの無意識なら、私が前回書いた記事のような振る舞いになるのだろうが、李徴はどこかで(認めたくないものの)自覚があったので、実際の自分の実力が発覚するのを恐れて、師匠につきもせず、詩を志す者と交わ

    相手は自分より頭が悪いと思い込む材料としての「アスペルガー症候群」 - yuhka-unoの日記
  • 相手のための気遣いと、自分が嫌われないための気遣い - yuhka-unoの日記

    毎日放送関西ローカルのお昼の時間帯に、「ちちんぷいぷい」という情報番組がある。良い意味でのゆるい雰囲気が持ち味で、私はけっこうこの番組が好きで見ている。 その「ちちんぷいぷい」の中に、大吉洋平という若手アナウンサーが、京都の様々な老舗で、一週間(五日間)修行をするというコーナーがある。前回が旅館で、前々回が和菓子屋だった。 和菓子屋での修行の回、従業員たちが新しい和菓子の案を出す時に、大吉アナは、「故郷を離れて働く子供が、親元を離れて初めて親のありがたみがわかって、親に感謝して贈るための和菓子」を提案したところ、和菓子屋の女将さんに、「悪いけど、お利口さん」と評されてしまう。一方、他の従業員は「焼肉を模した和菓子で、名前が『叙々苑』」を提案する。女将さん曰く、こっちのほうが面白い、と。その後、大吉アナは、ポッキーを木の枝に見立てた和菓子を作り、自分の殻を破ることができた。 次に行った旅館の

    相手のための気遣いと、自分が嫌われないための気遣い - yuhka-unoの日記
  • 音楽業界のブームのゴリ押しは、着物業界の凋落に似ている - yuhka-unoの日記

    私の個人的音楽史と、現代の日音楽業界について思うことを書いてから、また色々と思うところがあったので、続きを書くことにした。 フジテレビの韓流ゴリ押し騒動について、フジテレビ韓国の裏の関係を想像する人がいるようだが、私は単に、国内で仕入れてきたものを押し売りするか、海外から仕入れてきたものを押し売りするかの違いでしかないと思っている。商品そのものはあまり関係がなく、売ってる人の都合だろう。 大して売れてもいないものを「売れている」「今人気」「あの有名な」などと言って売ろうとする手法は、「皆さん買っていらっしゃいますよ」と言って浄水器などを買わせようとする訪問販売の手口に似ている。 私の個人的音楽史と、現代の日音楽業界について思うことでも書いたが、私は、ネットに触れてから自分好みの音楽に出会えるようになり、CDもよく買うようになった。私の弟はインディーズバンドのライブに行くのが趣味で、C

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  • 私の個人的音楽史と、現代の日本音楽業界について思うこと - yuhka-unoの日記

    私が10代の頃は、安室奈美恵、華原朋美、SPEED、MAX、ポケットビスケッツにブラックビスケッツ、SMAPなどの全盛期だった。しかし、私は実際のところ、あまり流行りの音楽に興味はなかった。学校の友達に「どの歌手が好き?」と聞かれたら、一応「安室奈美恵が好き」などとは言っていたものの、それは単に話を合わせるために言っていただけであって、気で好きなわけではなかった。あの時代の音楽は、友だちと話を合わせるための材料や、カラオケで皆で盛り上がるための材料として機能していたと思う。 インターネットが十分に普及していなかったあの頃は、周囲に音楽通の人がいない限り、接する音楽といえば、学校で習う音楽テレビやラジオで流れてくる流行りの音楽ばかりで、実質そのどちらかしか選択肢がなかった。 なので、10代の頃の私にとっては、たまに良いなと思う音楽もあったものの、全体的にはそのどちらにもたいして興味は持て

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  • 甘やかされているようで全然甘えられていない子供たち - yuhka-unoの日記

    子供に与えなさすぎる親というのが、子供にとって快適ではないということは、多くの人が納得するところだろう。ネグレクト(育児放棄)というやつである。しかし、子供に与えすぎる親というのもまた、子供にとって快適ではないケースが多いというのは、あまり知られていないことだ。「過保護なのは確かに子供の成長にはマイナスだが、当の子供にとっては快適なこと。親元にいるのがあまりにも快適すぎて、そこから抜け出せなくなるから、自立心が養われない」―そのように考える人が多い。 しかし、与えすぎる人というのは、ありがた迷惑なことが多いのだ。例えば、こちらが「いえ、もう結構です。もう満腹なんです」と言っても、「そんなこと言わずに、ほらほら」と、どんどんべ物や飲み物を勧めて来る人。こういう人は、こちらがやんわりと断っているうちは進めるのをやめてくれず、とうとう強い口調でぴしゃりと断らなければならない段階になってやっとや

    甘やかされているようで全然甘えられていない子供たち - yuhka-unoの日記
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