タグ

2019年10月2日のブックマーク (7件)

  • 日本陸軍における責任 Responsibility in Japanese Imperial Army

    なぜ旧日軍はたやすく敗れたのか?この原因を私なりに考えて,安易に日を勝たせてしまう仮想戦記ものがいかに非現実的で危険なものかを批判するページです. そして,現在の日にも通じている問題を考えます. 勝った戦争から学べることは少なく,負けた戦争から学べることは多いはずです. 旧日軍と戦前のシステムの欠陥 統帥権の独立 大日帝国憲法によって陸海軍は統帥権の独立を保証されていた.これは天皇の命令以外では軍隊を動かせないことを意味する.しかし,天皇が発言をするということは考えられなかったので,実際には天皇が望んでいるであろうことを推測して軍隊が動くということになった.この統帥権の独立によって陸海軍は内閣や国会の意向と関係なく動く自由が与えられていた.裏を返せば,内閣などは軍の作戦に口をはさむ余地がないのである.これらの悪例が満州事変,ノモンハン事件などである. 天皇の下には軍に命令を出す機

  • 素人は「戦略」を語り、プロは「兵站」を語る

    ロジスティクスという言葉は、軍事用語の「兵站術」をビジネス用語に転用したものだ。軍事や戦史に関して筆者は全くの素人ではあるが、その研究者や資料・文献から学んだことは多い。 とりわけ第2次世界大戦は、アメリカをはじめとする連合国と日独伊の枢軸国によるグローバルロジスティクスの闘い、「グローバル補給戦」だったと言われている。 それまでの戦争が基的に決戦場における指揮官の采配や軍隊の士気に勝敗を左右されていたのに対し、第2次世界大戦では必要な兵隊と物資を決戦場に送り続けることのできたほうが勝った。作戦の優劣以上に兵站術が大きかったという評価だ。 そのため、戦い方としては、資源の調達から軍需工場での生産、そして決戦場に至るグローバルなサプライチェーンを高度化すると同時に、相手にはそれを許さない、敵のグローバルロジスティクスの弱点を見つけてそこを叩くというやり方が有効だった。 空港や港湾、軍需工場

    素人は「戦略」を語り、プロは「兵站」を語る
  • 画家 山下清

    skam666
    skam666 2019/10/02
    山下清公式サイト
  • 「アパレルの町・岐阜」の誕生と歩み

    「ふるさと岐阜の歴史をさぐる」No.40 「アパレルの町・岐阜」の誕生と歩み -昭和40年代の後半には、「岐阜市はアパレルの町」「岐阜産のファッション製品は、東京・大阪と拮抗」と言われました。どのようにしてアパレル産業が盛んになったのでしょう?- 1.岐阜駅前ハルピン街の誕生 岐阜空襲によって岐阜市市街地の8割が焦土と化し、終戦後の昭和21年頃はまだ岐阜駅やその駅前一帯も焼け野原でした。駅前は疎開先から帰った人達、外地から帰った復員兵や引揚者であふれましたが、焼け野原の岐阜の町を前にして途方に暮れるばかりでした。 その頃、岐阜駅前に、外地から帰ってくる復員・引揚者のサービスのため、引揚者援護施設として「簡易宿泊所兼相談所」が設けられました。昭和21年の春、「在外同胞救出学生同盟岐阜地区委員会」の看板が掲げられ、岐阜師範(現岐阜大学教育学部)・岐阜工専(同工学部)・岐阜農専(同応用生物科学部

    skam666
    skam666 2019/10/02
    “昭和40年代の後半には、「岐阜市はアパレルの町」「岐阜産のファッション製品は、東京・大阪と拮抗」と言われました。どのようにしてアパレル産業が盛んになったのでしょう?”
  • 岐阜問屋町の歴史|岐阜県 婦人服・子供服製造卸企業|岐阜婦人子供服工業組合

    skam666
    skam666 2019/10/02
    "戦争で焼け野原となった国鉄岐阜駅前(現・JR岐阜駅)に(略)引き揚げ者たちが中心となってバラック小屋を作り、古着や軍服などの衣料を集めて売りました。これはハルピン街とよばれ、岐阜問屋街の始まりとなりました"
  • 岐阜市アパレル歴史

    skam666
    skam666 2019/10/02
    “岐阜のアパレルはどのようにして、成長してきたのでしょうか?それについて、「岐阜アパレル産地の形成―証言集・孵卵器としてのハルピン街―」荻久保嘉章・根岸秀行編(①)という本で(略)きちんと書かれています”
  • 戦後栄えたアパレル産業の集積地~岐阜の繊維問屋街を散歩した~

    [ad#ads1] 個人的に岐阜というと何か「渋い」というイメージがあるのですが、これはGifuという音の響きによるものなのかも知れません。が実際に行ってみると、昔からの繁華街である「柳瀬」や今回紹介する「繊維問屋街」はイメージ通りの渋さでした。 その繊維問屋街は岐阜駅の北口から歩くこと、数分の場所にあります。岐阜駅を降りると、再開発の高層マンションやオフィスビル、商業施設のビルが建ち並んでおり、岐阜の拠点に相応しい体裁の街並みが見られます。 そんな岐阜駅前の一角に、中問屋町というアーケードを発見したのです。今回の岐阜遠征の目的は金津や岐阜駅周辺の街並みを見ることでしたが、繊維問屋街があることは知りませんでした。 面白そうだったので中へ入ってみると、古く細いアーケードが続いています。まさにシャッター通りと呼ぶに相応しい光景が広がっていました。 お店の看板は真っ白で、すでに退去した後のようで

    戦後栄えたアパレル産業の集積地~岐阜の繊維問屋街を散歩した~
    skam666
    skam666 2019/10/02
    “昔からの繁華街である「柳瀬」や今回紹介する「繊維問屋街」はイメージ通りの渋さでした”