【Web】自分のブログ 死んだらどうなる? 訪問絶えぬ“墓碑”も (1/2ページ) 2009.8.13 07:45 自分がこの世を去ったら、日々更新しているブログやSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の日記はどうなるのか−。サービス業者によると、たいていは誰かが削除の依頼をしなければ、残り続けることになるという。書き込みが死後も消えないのは複雑な気持ちだが、残ることで訪問者が絶えない“墓碑”のような存在のブログもある。「お盆だから、亡くなったあの人の書き込みを見てみよう」。そんな時代が来るかもしれない。(森浩) 「自分が死ぬと、この愚痴の数々はどうなるのか」。東京都内の男性会社員(32)は、自分のブログを見ながらふと思った。「妻や会社の愚痴をつづっているSNSは『死んだら消してくれ』と、家族や同僚に頼むわけにもいかない」 SNSやブログなどのサービス業者の多くは、利用者が死
最近、生きたいと思うようになった。 これまでの人生、私はあまり生きたくなかった。別に明日死んでもかまわないし、世界が消滅してもよいと思っていた。けれど、そう思いつつも自分で死ねなかった。理由は第一に、痛いことや苦しいことに対する恐怖に負けていたから。第二に、親に面倒をかけたり悲しませたりすることを避けたかったから。私の勝手で死ぬのに、私以外の人にダメージを与えたくなかった。私が死ねば、私を知っている全ての人から私の存在がすっと消えて無くなってしまえばよいと願ったが、そんな都合のよいことができるわけもなく。 こういう思考に至ったのはいじめられた経験が原因なんだろうと思う。田舎に引っ越した小学生半ばから中学生の間は、波はあれどもいじめられ続けていた。悪口とか仲間はずれとか無視とかの程度だったけれど、人間不信を植え付けるには十分だった。そんな子供に学校以外の世界を見いだせるわけもなく、そこで否定
後で書きますーとか言いつつ寝てしまい、日付けが変わったのでエントリを新たに起こすことにします。namelessさんのコメントを読んで思ったことを適当に。 死が怖いのは主に「それが絶対的に未知であり不可知である」ということと「生きていることが喜ばしい」ということによると考えます。 解き方のわからない知恵の輪をずっといじくりまわしていたら、ある時、かちゃり、とそれが解けてしまい、そしてもう元に戻せない。そんな感じですね、ぼくの「死」に対する感覚は。たしかに昔はそれが怖かったはずなのですが、もうその気持ちを思い出すことができません。未知であり不可知であることにいつか触れられるのかもしれないという思いは自分をとてもワクワクさせるものですし、生きていることはほんとうに喜ばしいけれど、それを失うことにも特に惜しいという感じはないです。価値を置いていないわけではなくて、なんていうんでしょうか、もう充分満
あの子が死んで二年目の春を迎える。 花粉が飛散していたある日、 「結婚して」と言われてしまった。 もう人生を前に進むためのカードを 使い果たしてしまった。 オレん家で主婦として働くことしかできないという。 ちなみに、プロポーズの言葉は 「小学生好きなんでしょう。私はAカップ」。 今までロリ好きと公言・ネタにしてきたことを 非常に後悔した。 その発言が意味することの全てが分かって、 とにかくクールに対応しようと務め、相談相手になって、 なにか可能性を一緒に見つけようとして、 しかし、「結婚」という言葉はゴマカシ続けた。 でも、オレが所用で町を離れていた日、 自らを消滅させる手段を選んでしまった。 最後に携帯で話したのは「桜が見たい」だった。 その会話をしたとき、 僕は別な町の公園で満開の桜の下にいた。 それから1年、血反吐を吐くような思いをして過ごした。 飲めない酒を飲んだ。睡眠薬もがぶ飲み
最初に言っておこう。 失ったものに対しての取り返しのつかなさを感じるのは、そこから多くの物を得ていたからだ。 愛し合った分、憎み合うように。 すべての物は、そうやって釣り合いを取っている。 父を亡くしたのは、14歳の時だ。 2度目の癌で、1度目は胃で、2度目は喉だった。 告知の是非がまだ争われていた時代、彼は知ることを望み、 一時帰宅のときに、家族の食卓で自分は癌だと、必ず治して帰ってくると、そう告げた。 今思うと、とても不思議な病気だと思う。 癌は自分が育つために、宿主もやがて殺してしまう。 部位的なその特徴から、喉頭癌の進行は早い。 正月の一時帰宅を終えて、 (なんとも日本人とは律儀な性格だ。正月は自宅で迎えたいらしい。犯罪者でも、末期の患者でも。) すぐに目に見えて容態は悪くなった。 口内炎のように見えていた癌は段々と増えて、私たちは怯えた。 皮膚は乾き、黄色くなり、骨と皮だけになっ
10 名前:1/5[] 投稿日:2007/11/15(木) 07:10:17.81 ID:jEftDiJ40 幼い頃に父が亡くなり、母は再婚もせずに俺を育ててくれた。 J('ー`)し ( )\('∀`) || (_ _)ヾ  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 学もなく、技術もなかった母は、個人商店の手伝いみたいな 仕事で生計を立てていた。 ┌─────────┐ │ 個 人. 商 店 │ └─────────┘ │ J('ー`)し | │ ( ) ┌─| │ || │ i|  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ それでも当時住んでいた土地は、まだ人情が残っていたので 何とか母子二人で質素に暮らしていけた。 │ │ │ │ J('ー`)し_____________ / ̄ ̄ ( ) ('∀`) / || (_
生まれてきたからには、波はあったとしても、死ぬときに全体を均したら「あー、楽しかった。いろいろ凹むときもあったけど、まあ平均したら楽しかったかなー」と思いながら死にたい。 などと思うので、自分の行動・言動の判断基準の重要な一つは、自分が快であるか、である。 単純に自分の欲望のままに自分勝手に進めば快かというと、そんなわけがない。自分の都合を押し通したら、周りの人間が嫌そうな顔をする。あるいは、嫌そうな顔をする前に、自分が「相手、嫌だろうなぁ」と想像してしまう。自分の都合と、他人の都合(と自分が思っていること)とを天秤にかけたり、山と谷を頭の中で均したりしつつ、自分が一番総合して気分がいい場所を探す。 だから、必ずしも自分が第三者的に利益を得るところが自分にとって快な位置とは限らないし、逆に、他者から見たら「どうしてあんたそんなふうで平気なの?」と思えるところが自分にとって快な位置であること
生物は死に場所を求めて身を隠すなどと言いますが蝉はどうしてバタバタと路面に落ちているのだろう。普通虫の場合は鳥が餌として攫って行ってしまうのだろうが蝉は鳥も食わんのか。見るからにカサカサでスカスカそうで不味そうだ、が単に数が多すぎて回りきれないだけなのか。しかしその堂々とした死にっぷりは生なんてこんなに軽いものなんだよと人間をあざ笑っているかのように見てしまうのは私の問題か。精一杯鳴いて完全燃焼してあっけなく死んで行く蝉。何を隠れる必要がある、というかそこまで気が回らないというかその単細胞ぶりを愛すべき。蝉よ君はステキだ。人間は何ていやらしいんだ。
小さい頃から「早く死にたいなあ」と思ってきた。 具体的な自殺方法を冷静に検討する幼稚園児って結構イヤだな。今考えると。 生き辛い環境だったわけではない。とても恵まれていたが、生きていたいと思うことはなかった。 とりあえず、(幼稚園児が知る限りでの)自殺というのはすごく痛そうだということがわかった。 じゃあやめた。 死に切れないまま見つかって怒られてその後チャンスがなくなるのは嫌だし。 それでも、子どもの頃は、放っておいてもかなりの確率で自分は死ぬんだと楽観していた。 テレビのニュースを見てると、この世界は相当危険に満ちた場所みたいだったから。 ところが、偶然の危険はめったに襲って来ないし、危険に襲われても命というのはなかなか尽きない。 痛くても苦しくても悲しくても、この体は意思とは無関係のところで生き続けようとしていた。 周りの人間からも「生きていて欲しい」と強く願われた。「生きててよかっ
「人の一生のしあわせ、不しあわせは、棺の蓋が閉まるまで分からない」と申します。またほかの場合はいざ知らず、死と対する最期のときは、人は本当のことを語るといいます。今回の特集は、日本と外国の有名人の最期の言葉を集めてみました。さまざまの分野で頂点を究めた人達ばかりです。いずれにしても私達が知っているのは、 彼らが活躍したときのことで、死を迎えるときではありません。日頃は華やかな部分 だけがクロ-ズアップされる彼らも、最期にはそれぞれの死を死んでいくのです。 日本人の言葉 ◆一休(1394~1481) 室町時代の臨済宗の僧。当時の禅宗界をしんらつに風刺して、人間的な禅風を目指した。文明13年11月、寒さや高熱がおそう「ぎやく」にかかり、21日朝に没した。死ぬにあたって彼は「死にとうない」といって、座ったまま眠るように死んだという。87歳。 ◆芭蕉(1644~1694) 江戸時代の俳人。『奥の細
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く