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ブックマーク / wallerstein.hatenadiary.org (13)

  • 日本共産党と社会民主党はチベット問題について早急に声明を出すべき - 我が九条

    チベット問題についての日国政府の声明が腰が引けている、という批判が主として反中を主張するブロガーから出ている。その主張は正しい。しかし政府与党の腰が引けているのもある意味仕方がない。おつきあいもある。民主党もまあ仕方がない。おつきあいもある。問題は日共産党と社会民主党だ。はっきり言って中国政府から見れば日共産党とか社会民主党など取るに足らないものだろう。実際ほとんど国会内でも存在感の無い小政党だ。北京五輪や上海万博に出入り禁止をらったとて、日之交易には何の影響も及ぼさない。そもそも彼らが中国から出入り禁止をらっても大勢には影響がない。だからこそ反虐殺という視点から中国政府を批判すべきだと思うのだが、とりあえず日共産党、社会民主党の公式サイトにはない。志位和夫委員長、福島瑞穂党首、辻元清美議員、保坂展人議員のブログやサイトをみたが、やはりない。この辺の有名人はとりあえず何か言及

    日本共産党と社会民主党はチベット問題について早急に声明を出すべき - 我が九条
  • 自転車(比喩) - 我が九条

    私は運転免許を持っていない。したがって公共交通機関を使うか自転車を使うか、である。自転車はエコで便利な道具である。しかし一つ間違えると凶器になる、という認識が必要である。 自転車が走行できる歩道で歩行者と交錯することがある。私は歩行者優先と学校で教えられたし、それを墨守してきた。歩行者がよけてくれるだろう、という考えは驕りである。それを少し意識するだけでずいぶん変わることだろう。 今のネット上での言論を見れば、どうもそうではないという意見もあるらしい。大きいのはよけるのが大変なのだから、歩行者が気をつけるべきだ、と。前をろくに見ずに突っ込んでくる自転車を歩行者がアクロバチックな身のこなしでよけろ、というような意見が結構目につく。日で歩道を歩く時には気をつけた方がいいかも知れない。

    自転車(比喩) - 我が九条
    suVene
    suVene 2008/02/24
    こういう批判抽象的につかわれる比喩があまり説得力がないというエントリ。/ しかし、「味方」には共感を得やすそうではある。
  • 連座の誤謬 - 我が九条

    まずはウィキペディア。 連座の誤謬(guilt by association) A「科学者Bの学説に対し、C教が公式に賛同を表明した。しかしC教は胡乱なペテン集団だ。B氏の学説もきっと信用には値しない」 これも対人論証の一種で、「その主張を支持する者の中にはろくでもない連中がいる。故にその主張は間違った内容である」というタイプの推論である。どのような個人または集団に支持されているか、という事柄は数学的・論理学的な正しさとは無関係なので、これは演繹にならない。 そもそも「対人論証」って何だっけ?ということで、「対人論証」をもう少し詳しく見ていくことにしよう。 またまたウィキペディア(「人身攻撃 - Wikipedia」)。なんだかんだ言っても役に立つ。不満があれば自分で解決解決。 人身攻撃(ラテン語: ad hominem、argumentum ad hominem)とは、ある論証や事実の主

    連座の誤謬 - 我が九条
    suVene
    suVene 2008/01/07
    『状況対人論証』 の例が微妙な気がするがどうなんだろう。
  • コメント欄における「荒らし」について - 我が九条

    「ネット右翼」という言い方は問題を拡散させる、と私は思う。ネット上で右翼的な発言を行う人=「ネット右翼」ではない。「ネット右翼」という用語は、どうもネット上で「荒らし」行為を行う輩のことを指すようである。ネット上では右翼的言辞が目に付くだけに、「荒らし」行為にも右翼的な言辞が目に付くので、「ネット右翼」という言葉が出てきたように思われる。しかし「荒らし」行為を行うのは「右翼」的な人物だけではない。「左翼」的な人でも「荒らし」行為は行うのである。だから「ネット右翼」という言葉は使う場合には定義を厳密にする必要がある。私自身はここまで「手垢」がついた言葉はできる限り使いたくない。したがって主張が「右翼」「左翼」「非政治的」を問わず「荒らし」という用語を使うことにする。他にも「ネットイナゴ」「ネットゴキ」「ネット珍走団」という用語は有効だろう。ただブクマでも指摘されていたように「右と左を鏡で移せ

    コメント欄における「荒らし」について - 我が九条
    suVene
    suVene 2007/06/07
    「組織的な荒らし」の話はどこから出てきているのだろう。
  • 扇動されやすい人 - 我が九条

    現在鎌倉時代の講義*1をやっている。一昨年にもやったが、今年もやっている。なぜだかテスト一発勝負はダメ、という大学で、そのくせ数百人を一つの教室に詰め込むから、講師としてはどうやってテスト以外の評価をするべきなのか、よくわからない。そこで適当な時期に小レポートを書かせている。 一昨年宝治合戦のところでレポートを書かせた。宝治合戦とは、鎌倉幕府の有力御家人であった三浦泰村が北条時頼に滅ぼされ、鎌倉幕府の政治上の大きな画期となった合戦である。一般には得宗専制への道と評価される事件だが、永井晋氏の『吾鏡を読み直す』という著書の該当箇所を読ませて、レポートを書かせた。永井晋氏は、従来の時頼黒幕説ではなく、時頼は三浦氏から安達氏への外戚の交代をスムーズに行いたいと思い、三浦泰村にも事を荒立てるつもりはなかったのだが、時頼派の強硬派安達景盛と三浦氏の強硬派三浦光村に引きずられる形で合戦に至った、とい

    扇動されやすい人 - 我が九条
    suVene
    suVene 2007/05/23
    「目から鱗が落ちた!」つって、その鱗が落ちた目には何十にも鱗が張り付いてることに気がつかなくてはしゃいじゃう。
  • 私が主人公だ - 我が九条

    この前同僚の講師と話していて、物知りの生徒の話になった。「○○はこれについて『これは××だよ』とか言ってくるんですよ。『よく知っているな』と言っておきましたけど」とM先生は言う。私はちなみにその生徒に対して「要らんこと言わんでええ」と言った。自分がいかによく知っているかという知識をひけらかしたいのだが、生徒の知識をひけらかすことなど期待していない。どうせ私が知っている話しかしないのだから。6年くらいになると、オタクの中には詳しい話をする生徒もいる。こういうのは重宝する。しかしこちらが求めていない知識を延々と話す生徒にはもちろん「要らんこと言うな」の一言である。 生徒は「私が主人公」と思っていたりする。「一人一人が主人公」という価値観を教えられているからだろう。しかし集団指導の場ではそれでいいのだろうか。 学級崩壊の起こり方は、クラス全体が教師に反抗することでのみ起こるのではない。数人の生徒

    私が主人公だ - 我が九条
    suVene
    suVene 2007/01/21
    前半は納得できないが、後半は割と納得できる。
  • 年頭の決意 - 我が九条

    安藤美姫選手が肩を痛めながら最後まで踊りきったのは、まさに戦後民主主義教育のたまものだ。 なんてアホなことを書くとその思考力が疑われるのだが、そういえば昔安藤美姫選手がトリノで「楽しめればいい」と発言したことを「戦後民主主義教育の弊害」と定義した思考力の疑われる大学教授がいたなあ、と思ってしまった。その人の研究業績とその人がその研究業績以外のところでまともかどうかは全く関係がない、ということを改めて思ったのだが、そこのところを勘違いしてはいけないな、と野依良治氏を見ていて思ったのだが、そもそも私自身に帰ってくる問題か。 塾禁止に関して「公教育を充実させれば塾は競争力を失って淘汰される」と事務局も言っている。確かに、と言いたいが、塾業界の人間で「その通り」と思う人はいないだろう。塾と一口に言っても、私のように中学受験オンリーの塾と、学習困難児を受け入れる塾とでは同じ「塾」というカテゴリーでく

    年頭の決意 - 我が九条
    suVene
    suVene 2007/01/09
    「塾禁止」に対する異論。公教育を充実させても国家主義的イデオロギーを嫌う人々がいるのだよという指摘。
  • いじめに関する議論 - 我が九条

    いじめに関する議論を見ていると、多くは「不良が普通の子をいじめる」と考えているようだ。その最たるものが「いじめに対して毅然とした対応」として「出席停止」などの「処分」でもって望もうとする動きである。またそれに反対する側も同じような立場に立って議論している。いじめた側も弱者なのだ、とか。素行不良な者が素行善良な者を捕まえて暴力行為を働いたり、金銭をせびったりするのは、犯罪である。「いじめは犯罪である」という物言いは、それを反映したものであろうが、そのような「犯罪行為」と、今問題になっている「いじめ」の問題はかなり対応が異なるのだ。 『いじめの社会理論』の著者内藤朝雄氏は「いじめ」*1を二つに分ける。殴る蹴るといった暴力によるいじめと無視やあざわらいなどのコミュニケーション系のいじめである。そしてそれぞれの対処法は異なる。暴力系のいじめについては被害者が司法に訴えるのが有効、コミュニケーション

    いじめに関する議論 - 我が九条
    suVene
    suVene 2006/12/14
    未読
  • 学級運営 - 我が九条

    毎日新聞の記事より。http://www.excite.co.jp/News/society/20061124030100/20061124M40.125.html 要するに「なれ合い型の学級でいじめが生まれやすい」という話。管理型となれ合い型というのは教師の教え子への接し方によるものだそうで、有無を言わせず従わせる指導タイプと言い分を尊重する援助タイプがあり、指導タイプに偏ると管理型、援助タイプに偏るとなれ合い型になる、という。子どもの言い分は確かに尊重せねばならない。しかし尊重しすぎると学級崩壊に陥る。そこの線引きが難しい。 私は一年間の授業の最初にルールを示す。そのルールを守ることを生徒に求める。このルールは教室の秩序を維持するために必要なルールである。何よりも他人の邪魔をしない。授業進行の妨げをしない。以上である。それ以外は生徒の自由。と言っても以外と生徒に残された自由は少ない。そ

    学級運営 - 我が九条
    suVene
    suVene 2006/11/26
    おもろい先生だな
  • 間違っている論理展開 - 我が九条

    間違っている論理展開によって人びとは容易にだまされる。ここでは具体例を挙げて間違っている論理展開について考えたい。人をだます時には論理展開の約束事を破って己が望む解を導き出す。そしてそれは一見論理的であるだけに容易にだまされてしまう。この稿をそうするに当たっては以下のエントリを参照した。「間違っている論理展開」と「わら人形論法」に耐性の無い人々 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか。非常に勉強になったので私自身のメモのために自分流に事例を置き換えて考察したい。 まずは間違っている帰納的論理展開。帰納的に論理を展開し、解を導き出すには「適切な事例の選択」が必要である。以下は恣意的な事例選択により、間違った解を導き出した例。 うらやましいほど優雅に生きた平安貴族も、じつは短命でした。貴族の代表である歴代天皇の寿命を見てみると、平安前期には54歳だったのものが、中期には44歳、後期には33歳とじつに

    間違っている論理展開 - 我が九条
    suVene
    suVene 2006/11/06
    恣意的な例の選択による結論の提示の例。
  • いじめ - 我が九条

    今ホットな話題といえば、藤田東吾社長が官邸に押し掛けたことだろう。もっともマスコミからは黙殺されるだろうが、ワイドショーか週刊誌位は取り上げるか。しかし私がそれについて何か言及できるか、と言えばできない。 そこでもう一つホットな話題。いじめ。 塾でも当然いじめは存在する。ただ塾が学校と違うのは、塾でのいじめは塾の存亡にかかわる、ということだ。「あそこの塾はいじめを放置した」という話が広まれば、塾生は雪崩を打って辞めるだろう。悪い話は一瞬にして広まる。だからいじめの問題は放置できない。 もっとも塾では生徒の自主的な時間は少ない。行き帰り位だが、そこでいじめられている、というのもあり得るが、それは塾が関わるべき問題ではなくなっている。彼らの私生活までこちらは介入できない。塾も生徒も親もそれは了解している。問題は塾にいる時間である。学校が難しいのは、学校は生徒の全人格を管理するものと意識されてい

    いじめ - 我が九条
    suVene
    suVene 2006/10/21
    とある一塾講師であろう人の視点のいじめ問題。
  • 非正規雇用 - 我が九条

    非正規雇用者の問題は大学教員に限らず、現在の格差社会問題の根幹をなしている。格差社会論批判としてよくあるのが、現在の低所得者もパソコンを持ち、それなりに生活していけている、という議論だ。しかし問題となっているのは、非正規雇用の拡大による将来への不安と数字上における貧困層の増加である。 現在大学では非正規雇用の教員がかなりを占める。特に文学部史学科というあまり実学的でない学問の置かれた現状は厳しい。現在語学教師くらいしか雇用の道筋は描けない。留学生に日語を教えるのである。しかし語学教師自体が非常に雇用は不安定である。需要に波があるため、非正規雇用者を多く雇用することで、人数の調整を行おうというのである。さらにその年限を限定することで需給関係を調整している。さらに現在某大学では人材派遣業の会社を作り、そこから派遣する、という形態をとろうとしている。現在大学の語学担当常勤講師はおおむね年収60

    非正規雇用 - 我が九条
    suVene
    suVene 2006/07/31
    「雇用の不安定」という見方があるのは分かるけど、「非正規雇用」が「クオリティの低下」に直下するのは論理の飛躍。まぁ、雇う側が能力のある教員に対しても相応の対価を支払わないつもりだからかも。
  • 塾講師のつぶやき: [国語受験術]国語の特性

    石原千秋氏は『国語教科書の思想』(ちくま新書)の中で次のように述べる。 国語はすべての教科の基礎になるような読解力を身に付ける教科だとか、豊かな感性を育む教科だとか、そんな風に考えている人がいるとしたら、それは「誤解」である。現在の国語という教科の目的は、広い意味での道徳教育なのである。したがって国語ができるということは道徳が身に付いているということを意味し、読解力が身に付いたということは道徳的な枠組みから読む技術が身に付いたということを意味するのだ。 国語で点を取らせるには、そういうことを徹底させる必要がある。国語における「正解」とは、学校教育で「道徳的」とされることに沿った解答のことなのだ。 対策として二通りのアプローチがあるだろう。一つは学校教育で「道徳的」とされる考え方を完璧に身に付けさせるやり方だ。骨の髄まで「道徳」を身に付ければ、苦労なく「正解」にたどり着ける。その前提としての

    塾講師のつぶやき: [国語受験術]国語の特性
    suVene
    suVene 2006/05/10
    洗脳されずに徹底的に相対化して捕らえる事。とても興味深い。続きが気になる。って、これ4月のエントリーか。あとでよむ
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