戦後責任に関するt-hirosakaのブックマーク (22)

  • Gazing at the Celestial Blue 野田総理が26日参院予算委員会で「慰安婦」に関して発言

    現実で対応しなければいけない諸々が大量にあるもので、すっかりブログを書く暇がとれない今日この頃であるが、関心方面の話題をチェックしてみると、そんな事が起こっていた。わざと紛糾を招くようにやってるのかと呆然とするレベルなのだが、報道は産経だけ、、、かな? 韓国ソウルの日大使館前に「慰安婦の碑」が建てられた問題をめぐり、野田佳彦首相は26日の参院予算委員会で、碑に「日軍性的奴隷問題」と記述されたことについて「正確なことが記されているかというと大きく乖離(かいり)している」と懸念を表明した。その上で昨年12月の李明博大統領との会談で碑の早期撤去を要請したことを強調した。 …あのう、碑文って確か『1992年1月8日から始まった水曜集会が1000回目を迎えたことを記念し、平和の碑を建立した』程度の文章が韓国語、英語、日語の3カ国語で刻まれていたんじゃなかったっけ? と思ったら、3月27日に既に

  • 元従軍慰安婦のハルモニの話を日本人はまず聞いてください。 - 村野瀬玲奈の秘書課広報室

    村野 様 はじめまして。私は、ネトウヨと言うことも無いと思いますが、村野さんの主張とは相容れない歴史観をもっている人間です。その事の論議は、しても仕方が無いと思うので省略させて頂きますが、「慰安婦問題」が人権の問題であるとするならば、韓国政府こそが、「慰安婦問題」を政治の問題にしてしまっていると思います。今回の「第二、第三の像」という李明博大統領の発言は、最たるものです。 当に、「慰安婦問題」を人権の問題として解決したいのであれば、政治的に利用しようとする韓国政府にも抗議するべきでは無いですか? 私は、所謂「慰安婦問題」は捏造であり、人権の問題も無いと思いますが、もし、人権の問題があり解決しなければならないのだとしたら、政治に利用されない形でやって貰えませんか? 「水曜デモ」の人たちも、「在特会」の人たちも、私にとっては共に、気持ちの悪い存在です。

  • 「原爆被爆者対策基本問題懇談会」議事録、続報 - Apeman’s diary

    8月に東京新聞が報じていた「原爆被爆者対策基問題懇談会」の議事録について、今日の朝日新聞が報じている。 asahi.com 2010年10月25日 「被爆者補償、歯止めありきの議論「財政破綻恐れた」」(魚拓1ページ、2ページ) asahi.com 2010年10月25日 「被爆者補償議事録「一種のたかり」「何でもない人多い」」(魚拓1ページ、2ページ) asahi.com 2010年10月25日 「被爆者補償阻止、旧厚生省が議論誘導 30年前議事録」(魚拓1ページ、2ページ) なるほど、格的な補償のためには財源が必要であり、官僚が「財政破綻を恐れた」と釈明するのは理解できなくもない。しかし問題が「財政」であるならそう正直に言えばよいのであって、「ぴんぴんして何でもない人もずいぶん多い」だの「センチメンタルなものを長々と読みまして、せっかくの時間を浪費してしまった」だの「一種のたかりの構

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  • A級戦犯の合祀手続きについて検討会(追記あり) - Apeman’s diary

    毎日jp 2010年9月8日 「原口総務相:A級戦犯の合祀手続き検証へ、省内に検討会」(魚拓) この問題については以前エントリを書いたはず、と思って確認したらちょうど4年前の今日だった。 原口一博総務相は7日、靖国神社にA級戦犯が合祀(ごうし)される過程で国がかかわった行政手続きに問題がなかったかを、国として初めて検証する考えを明らかにした。有識者や政務三役などによる検討会を近く総務省に設置する方針。靖国神社は合祀について「国の事務手続きに従った」と主張しており、過去の行政手続きが不適切だとされた場合、合祀の有効性が問われる可能性もある。 (中略) 原口氏は7日の総務省政務三役会議で、71年の通知について「(合祀事務協力の)行政的な手続きが無効であるとすると、(その後にA級戦犯が)合祀されている史実自体が、歴史の事実と違うことになる」と指摘。「行政手続きに瑕疵(かし)があったとすれば、今ま

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  • asahi.com(朝日新聞社):中国人強制連行、和解へ 西松建設、元労働者側と協議 - 社会

    戦時中に強制労働を強いられたとして中国人元労働者らが西松建設を訴え、07年の最高裁判決で原告の敗訴が確定した訴訟をめぐり、同社が元労働者側との和解へ向けた協議に入ったことがわかった。最高裁判決が「同社ら関係者が被害の救済に向けた努力をすることが期待される」と異例の付言をしたことを踏まえた対応だ。元労働者側も受け入れる方向で検討している。  裁判の手続きは終わっているが金銭面での補償などによる和解で解決を目指すことにしたのは、同社関係者によると、前社長が起訴されるなどした違法献金事件に絡み執行部が交代し、企業の社会的責任重視の姿勢を示す一環だという。  同社の顧問弁護士がすでに元労働者側と協議を開始。原告だった人だけでなく、同様の境遇に置かれた人や遺族も対象とする意向だ。元労働者側によると360人が発電所で働かされたが、うち何人の身元が判明して補償の対象となるかは未定で、額も今後詰める。同社

  • 戦争を知らないぼくたちに戦後責任は存在するか? - Something Orange

    題に入る前にひとつの記事を紹介しておこう。作家の山弘が、南京事件を巡る中国への謝罪にかんして語っている記事である。 「中国に謝罪すべきだろうか?」と題して、山はいう。 この問題についての僕の見解は単純。「謝罪する必要はない」である。 だって僕は何も悪いことしてないもん! 僕は戦後生まれである。父は戦争に行っていたが、南方戦線だったし、1937年にはまだ徴兵されていなかったはず。つまり僕が謝罪しなければならない理由は何もない。 僕は大阪に住んでいるが、たとえば何十年も前に大阪の警官が兵庫県に出かけていって大勢の人を殺した事件があったとしら、すべての大阪府民は兵庫県民に謝罪しなければならないのだろうか。現代の大阪府知事は現代の兵庫県知事に謝罪しなければならないのか。そんなことはあるまい。 もちろん、その犯罪を示唆したとか、犯罪の発生を予期していながら放置していたというなら責任はあるだろう

    戦争を知らないぼくたちに戦後責任は存在するか? - Something Orange
  • ストーカー化するリベラル・左派論壇(1) - media debugger

    『情況』の3月号で「田母神論文の批判的考察」という特集が組まれているので読んでみた。 ↑『情況』2009年3月号 ていうか、マジありえないんですけど。勢いで日タグと情況タグを作ってデバッグしちゃったんですけど。日リベラル・左派論壇って、非モテをこじらせてストーカー化してたのか?まるで宣伝になってないけど、もういいです(Uさん、改めてごめんなさい)。普通に批判します。 「田母神論文の批判的考察」として掲載されてる7の論文のうち、3が「侵略には、連帯感のゆがめられた表現という側面もある」という竹内好のDV史観*1を持ち上げてるって、どういうことですか?これで「田母神論文の批判的考察」??あまりにも読者をバカにしているし、何より田母神っちに対して失礼です。 念のため書いておくと、竹内好に依拠しない残りの4の論文は、上の批判には当たらないです。特に、来須宗孝の「田母神問題について」は、

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  • 私は鈍感さを肯定しない - キリンが逆立ちしたピアス(ブログ版)

    id:mojimojiさんが、私が先に引用した西堂行人のピンター評を批判している。 mojimoji「政治的直接性からの逃走」 http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090130/p1 西堂さんは、ピンターの直接的でない政治的意見の表明を評価する。 ここでも「何も起こりはしなかった」が繰り返されている。ピンターの対応は絶妙である。決して感情的にならず、あくまで劇の対話のように、ユーモアとアイロニーを手放さない。それがために、かえってBBCの愚挙が鮮明になってくるのだ。あくまで「表現」を通しているから、その研ぎ澄まされた言葉は読者のなかに通り一遍でない感情を巻きおこす。 (http://booklog.kinokuniya.co.jp/nisidou/archives/2007/05/post_22.html) しかし、これは(良く読んでみればわかるが)西堂さんは

  • 日本軍「慰安婦」(性奴隷制)問題のいま――緊急・公開学習会の案内  | 私にも話させて

    もう明日になってしまったが、お伝えしておく(案内文の一部に、段落替え、読点追加を行なった)。以前にも紹介したが、国民基金側の宣伝が相変わらず活発な中、国民基金を批判し、植民地支配責任と日軍「慰安婦」問題を切り離さずに、「慰安婦」問題に取組む「日韓の女性と歴史を考える会」の活動は、大変重要である。 国民基金といえば、その中心的人物である和田春樹は、佐藤優と完全に結託している。佐藤も、国民基金について、和田を海外に派遣するなどして、日の「宣伝戦」の手段として活用するよう主張している。 http://blog.goo.ne.jp/taraoaks624/e/c70ced524aaed6e812e574598d0ee4e0 佐藤は、月刊誌『ZAITEN』で、日誌形式の「佐藤優の「獄外日記」なる連載を持っているが、その2008年7月号に、以下のような記述がある。 「(注・2008年)4月23日(

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  • 『思想地図 Vol.1』における東浩紀の発言について - Apeman’s diary

    先日のエントリのコメント欄にて上田亮さんから情報提供を頂いた件について、前後の文脈もあわせて改めてご紹介させて頂きます。 東浩紀・北田暁大(編)、『思想地図 Vol.1』、日放送出版協会、2008年4月 問題の発言が含まれているのは「特集・日」の「II ニッポンのイマーゴ・ポリティックス」中の鼎談「日論とナショナリズム」です。鼎談参加者は東浩紀、北田暁大に萱野稔人。 鼎談の流れとしては、従軍「慰安婦」問題を持ち出したのは北田暁大です(「●戦争責任と主体」という小見出しがつけられている)。これに至るまでの、ナショナリズムについての三者の議論は書をご参照ください。 北田 少し話題をずらしますが、戦争責任や従軍慰安婦問題にしても、韓国中国に対する謝罪の話が延々繰り返されてきましたが、結局、「謝れ」と言われるということは、「責任主体になれ」と外から言われていることになる。それでは「当の

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  • 「沖縄ノート」巡る名誉棄損訴訟、元少佐らの控訴棄却…大阪高裁  : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

  • 宋神道さんの言葉 - 歌ったらアカン歌なんてあるわけないんだッ!

    かなり前の話だが、元慰安婦の宋神道(ソン・シンド)さんのドキュメンタリー映画「在日朝鮮人『慰安婦』宋神道のたたかい オレの心は負けてない」を見た。ただし今回は、映画そのものではなく、そのパンフレットに書かれていたことについて。 パンフレットの中で作家の朴慶南氏が、次のような話を紹介している(改行・太字は引用者)。 宋さんの講演が終わった後、若い日人男性が手を挙げて宋さんに質問をしたんですね。日兵が中国でどんな酷い事をしたか教えてくださいって。すると、宋さんがその若者をこんな風に一喝したんです。 「兵隊さんだって可哀そうだったんだぞ。誰が好き好んで戦争さ行くだ。国には父ちゃんも母ちゃんも妹だっていたべ。それが戦争さ行かされて目の前には死ぬ事しかねぇんだぞ。兵隊さんだって頭おかしくなっちまうだろう。戦争起こした人間はぬくぬくしてて、オラ達みたいな下っ端が皆ひでぇ目に遭うんだ。このままいくと

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  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    中年以降の人生を考えるための5冊 今までずっと、ひたすらラクなことや楽しいことだけをやって生きていきたいと思っていたのだけど、40歳を過ぎた頃から、今までのやり方ではいろいろと行き詰まってくるようになってきました。何をやってもそんなに楽しくない。これからの人生はずっと下り坂が続いてい…

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  • 「悔恨」はどのように表現されるのか - Apeman’s diary

    ちょうど一ヶ月ほど前に放送された、Bill Guttentag 氏出演のラジオ番組でのやりとりで、ちょっと印象に残ったところがあった(14分45秒あたりから)。映画を観た司会者が、インタビュー対象の元日兵が「非常に気軽に casually」話しているようにみえた点が興味深かったと言い、彼らには悔恨 remorse があるのだろうか? と問うたのである。Guttentag 氏はこれに対してインタビュー対象者に後悔 regret の念が稀薄であったという自身の印象を語り、「人生の終りを迎えて深く後悔してインタビューを受ける」元兵士を予期していたのに意外であった、と告白している(彼自身は「悪の凡庸さ」の現われとして納得しようとしているようだ)。このような認識は外国人に特有のものではなく、以前に紹介したように野田正彰氏の『戦争と罪責』(岩波書店)の大きな柱の一つとなっている。だがその前提の一つと

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  • 50年代ブーム(?)への疑義 - Arisanのノート

    雑誌『現代思想』の12月臨時増刊号「戦後民衆精神史」に収められた入江公康の論考「詩を撒く」は、1952年当時に発行されていた労働運動系の詩誌『石ツブテ』をめぐって書かれたものである。 その論のなかに、次のような記述がある。 二号の巻頭詩は「民族の血は怒る」で始まっている。「民族」といい「民族解放」といい、今となっては"古めかしい"カテゴリーにみえるのかもしれない。だが半植民地的従属というポジションこそが日が置かれた占領の状態であり、一九四九年には、中華人民共和国が成立し、その翌年、朝鮮戦争という、アジア解放の契機を奪わんとする戦争が、日全土を基地としつつすすめられていた。(p126) この時代の日の左翼勢力における「民族」や「民族解放」という言葉の欺瞞性については、すでに多くの批判がなされていると思うが、念のためにぼくも少し付け加えておく。 端的に言って、上の文のなかに「半植民地的従

    50年代ブーム(?)への疑義 - Arisanのノート
  • 「歴史主体」論争をふりかえって - Apeman’s diary

    鉄血勤皇隊については資料を読み込んでからまた改めて追記する予定だが、それとは別件で。 加藤典洋と高橋哲哉の間で行なわれたいわゆる「歴史主体論争」を契機に戦争責任、戦争犯罪、戦後補償問題に関心をもった、というひとは少なくないように思う。私にとっても、いくつかあるきっかけの一つになっているわけだが、当時から漠然と予感していてこの2年ばかりつくづく実感させられているのは、「自国の300万の死者を弔い“われわれ”を立ち上げることによってこそ、アジアの2000万の死を悼むことができる」という議論に反駁することは比較的容易でも、「責任=応答可能性」がこの社会で広く受容されること、即ちこの社会のマジョリティが犠牲者からの呼びかけに応えること(応えるようはたらきかけること)は非常に困難である…ということだ。なにしろ、長い沈黙ののちにようやく語り始めた犠牲者を(なんらの具体的な根拠もなしに、頭ごなしに)嘘つ

    「歴史主体」論争をふりかえって - Apeman’s diary
  • 元従軍慰安婦の訴えを聞きたがらない歴史修正主義の底にある考えを解剖してみる - 村野瀬玲奈の秘書課広報室

    金銭は弾丸ですから、「補償を支払いたくない」というのは戦争の一形態として理解できます。ちょうど、保険会社が日々戦争をしているのと同じように。 金のためなら他人がどうなってもいい、というのは私も日々実行しているところですし。 ただ問題は、頭が悪いことです。 補償を支払えば損をする、だから歴史を修正する。これは、私達の日常で言えば「決して非を認めない人物」に相当します。 断言していいと思いますが、損をしたくないが為に「決して非を認めない人物」は、かえって大損をこきます。 何かしら問題が起きた時に、なるべく頭を下げたくないなあと思いながらも、迅速な対応の為に全リソースを注入する。これが、ずるい大人の政治というものです。 非を認めないことで日の名誉を守っているのだ、金を守っているのだ。これでは、ぼんぼんの発想です(笑)。 以上は、国家の視点からの問題展開。 それ以前、人道の視点からの論は言うまで

  • 西本願寺と戦争責任 - Apeman’s diary

    11月18日「朝日新聞」夕刊(大阪)、「西願寺 戦争責任にけじめ」 全国約1万寺、門信徒約700万人。伝統仏教の最大教団、浄土真宗願寺派(山・西願寺、京都市下京区)が動いている。9月には、宗派の最高法規「宗制」を改正。戦争協力を促した前門主の「消息(文書)」を公式に失効させ、戦争責任に明確なけじめをつけた。宗門改革は進むのか。 同派の最高議決機関「宗会」が9月に大多数の賛成で改正した宗制は、宗門存立の根となる教義や理念を規定した、いわば憲法。1946年の規定以来、改正は初めてだ。消息は門主が自らの考えを述べた文書で、これまでは宗祖・親鸞の教えや聖教と同等の効力があると宗制に定められていた。しかし、消息の中には、第2次世界大戦中に故大谷光照・前門主が発した「一死君国に殉ぜんは義勇の極み」など戦争協力を促すものもあった。改正によって親鸞、事実上の教壇創始者の3代覚如、中興の祖である8

    西本願寺と戦争責任 - Apeman’s diary
  • 戦後責任論 - coleoの日記;浮游空間

    が出版されてすでに丸6年は経過しているが、その主張の射程は現在をとらえていると思う。以下はcoleo流メモ。 責任の意味 書の題名にかかわる責任ということを、高橋哲哉は、responsibilityということばを用いて、「応答可能性」という切り口でとらえようとする。 考えてみると、高橋がいうように、あらゆる社会、あらゆる人間関係の基礎には人と人が共存し共生していくための最低限の信頼関係として、呼びかけを聞いたら応答するという一種の約束がある。人間が言葉を語り、他者とともに社会の中で生きていく存在であるのならば、否が応でもこの約束に拘束される。これを破棄する、つまりいっさいの呼びかけに応答することをやめるときには、人は社会に生きることをやめざるをえないし、結局は「人間」をやめざるをえない。 要するに人間はそもそもresponsibleな存在、他者の呼びかけに応答しうる存在。respon

    戦後責任論 - coleoの日記;浮游空間
  • On Reversibility - Apeman’s diary

    上のエントリで次のように書いた点について。 比較対象のうち一方は被害者側の生存者の証言であり、他方は加害者(と目される)側の証言である。それを「「思い違い」の可能性など」のひとことで同じ土俵に載せてしまうのは為にする懐疑主義としか言いようがない。 「館」の方で私はしばしば自白強要による冤罪事件について(主として浜田寿美男氏の業績に言及しつつ)語っているわけだが、これはもちろん(1)国家権力対私人、という圧倒的にパワーバランスが異なる当事者間の事案であり、(2)身柄を拘束されるという異常な環境で行なわれる「証言」という事案である。私人が国家権力により訴追された場合にはこうした事情を考慮する必要があることはいうまでもない。しかしそうでない場合、だれがもっとも強く「嘘をつく動機」をもつかと言えば、「実際に加害者である人間(およびそれに自己同一化する人間:以下略)>>(そこそこの壁)>>被害者を

    On Reversibility - Apeman’s diary
    t-hirosaka
    t-hirosaka 2007/10/13
    パフォーマティヴな否定論への追補