ブックマーク / hokusyu.hatenablog.com (12)

  • 「一般意志」とは何か - 過ぎ去ろうとしない過去

    紙屋研究所の紙屋氏が東浩紀の「一般意志2.0」をdisっているのだけれど、何か質を外している気がします。 ■架空インタビュー2.0 『一般意志2.0』ふたたび http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20120306/1331001376 特に違和感をもったのが、「差異の総和」について書いている部分。 ――「差異の和」のくだりですね。 そうです。岩波文庫の桑原・前川訳の方で紹介します。 これらの特殊意志から、相殺しあう過不足をのぞくと、相違の総和として、一般意志がのこることになる。(岩波版p.47) この最後の部分「相違の総和として、一般意志がのこることになる」は、フランス語の原文では「reste pour somme des différences la volonté générale.」となるので、東訳よりも桑原・前川訳の方がいいと思いますね。 こ

    「一般意志」とは何か - 過ぎ去ろうとしない過去
  • 東京都表現規制問題をめぐる一連の出来事についての共同声明(転載可) - 過ぎ去ろうとしない過去

    参考 ●「東京都青少年健全育成条例改正案に反対する緊急ネットワーク」と昼間氏らへんの対立(Togetter - amamako氏のまとめ) ●mukofungoj c^iuloke ●よねざわいずみ (yonezawaizumi) on Twitter 12月15日、「東京都青少年健全育成条例改正案」が東京都議会で可決され、マンガ・アニメへの表現規制がいっそう厳しくなることになりました。これについて、わたしたちにはいくつかの言うべきことがあります。 1. 制定の過程で石原都知事は、同性愛者について「どこかやっぱり足りない感じがする。遺伝とかのせいでしょう。マイノリティーで気の毒ですよ」という発言を行いました。石原都知事の差別的発言は今に始まったことではありません。しかし、この発言がセクシャルマイノリティへの重大なヘイトスピーチであることに変わりは無く、わたしたちは市民のひとりひとりとして、

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  • 児童ポルノ法(改正案)はとりあえず廃案になったけど・・・ - 過ぎ去ろうとしない過去

    単純に喜んでいる人が多いのに驚く。 「理性的に」法律の問題を指摘していけばいい派(+「表現の自由に紐をつけるな」派)の人は、今回のお流れが「政局」の助けなしにはありえなかったという現実をもっと重く受け止める必要があるのではないか。 もちろん、反規制派の中にも、奥村弁護士などを含めて自ら児童ポルノによる人権侵害の救済について議論していこうとする人びとがいるし、そうすべきであると思う。 ただ、一部かもしれないけど、従軍慰安婦と規制派を絡めて「プロ市民」罵倒に走ったり、あるいはレイシズムやミソジニー丸出しの反規制論をとなえている人びとは、確かに今回の警察権力の強化と性道徳的締め付けに走った改正案は何とかなるかもしれないけど、もっとソフィスティケートされた「リベラルな」規制論が出てきたときに、今は味方になってくれている市民派の議員さんたちがどう考えるか*1、「戦略的に」考えたことはあるの?と思う。

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  • 「ホロコースト産業」の何が問題か - 過ぎ去ろうとしない過去

    「ホロコースト産業」については以下のリンクに要約がある。 http://hexagon.inri.client.jp/floorA6F_hb/a6fhb811.html http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/20061004NGFinkelstein.htm また、今回この文章を書くにあたって以下のなどを参照した。 「シリーズ・ドイツ現代史」は値段・分量ともに手ごろで、また質の高い議論がなされていると思うので、機会があったらぜひ参照してほしい。 さて、題の批判にはいるが、このの問題をここの資料まで検証して指摘していくのはキリがないし、質的だとは思えない。よって、いくつか確実に問題点を指摘できることをいくつか取り上げた。したがって、取り上げていない論点に関してぼくが承服しているというわけではない。 ■ユダヤ人請求会議は、

    「ホロコースト産業」の何が問題か - 過ぎ去ろうとしない過去
  • 「歴史=物語」の倫理学―《痕跡》と《出来事=他者》のあいだにある「主体」について― - 過ぎ去ろうとしない過去

    歴史」をとりあえず「記述された歴史」という狭義の意味で定義してみよう。次に、この「記述された歴史」が、実際に起きた出来事としての歴史と等しいものかどうか検討してみよう。たとえば史料において、われわれは戦国時代の日には織田信長という人がいたことを知る。しかし、もちろん同時代には彼以外にも何千万ものの無名の人々がいたのであって、しかし彼らについては、われわれはおそらく永遠に知ることができない。また、「言語論的転回」*1を経た今日では実際に起きた桶狭間の合戦と史料に記述された桶狭間の合戦の間には、どんなに信頼できる史料だろうとなお、埋めることのできない差異があることは常識である。 以上のことから、「歴史」は「物語」*2であるという言説が産まれる。それはある種の人々、たとえば「新しい教科書をつくる会」のような人々にとっては都合の良いナショナル・ヒストリーを構成するための言い訳であり、このような

    「歴史=物語」の倫理学―《痕跡》と《出来事=他者》のあいだにある「主体」について― - 過ぎ去ろうとしない過去
  • 語りえないものを語るということ(予定) - 過ぎ去ろうとしない過去

    ■アーレントとデリダ http://www.fragment-group.com/kiotanaka/criticism/52.html さて、ジャック・デリダは、フロイトの上記の議論を参照しつつ、無意識の層に刻み込まれた消えない記憶の束、これを《痕跡》と呼びさらに複雑な考察を加えた。歴史の起源を、なんらかの具体的な出来事ではなく、この《痕跡》にあるとしたのだ。彼のこの徹底した歴史主義批判が示唆しているのは、歴史がいくら起源を事実に求めたところで、歴史が見出すのは、決まって身体の内側、おそらくは精神とでも呼ばれるべき場所に刻まれた《痕跡》であるということだ。歴史がさかのぼることができるのは、内側の《痕跡》までなのであって、けっして、傷そのもの、あるいは身体の外部で、もっと正確を期せば身体と外気が接触するそのちょうど間のところで繰り広げられた《出来事=他者》そのものにたどり着くことはできない

    語りえないものを語るということ(予定) - 過ぎ去ろうとしない過去
  • 「〜だけ」は政治的意図を排除しない - 過ぎ去ろうとしない過去

    「ただ歩いていただけ」と言う言葉から、こいつらは政治的意図を隠そうとしている!ギマンだ!って思っちゃうのは、自称一般人な自称中立がよく「〜だけ」論法を自分には政治的意図が無いよという言い訳に使っているからな気がした。「自分は単に事実が知りたかっただけです」「自分は単に平穏な生活を乱されたくないだけです」とか。 「ただ歩いているだけ」はギマンか?「ただ歩いているだけ」=「政治的意図はない」と言う結びつけが勝手な連想。「政治的意図がある」とはっきり言わないことは非難される筋合いは無い。 ひとつめ、「デモ」だろうが「ただ歩いていただけ」だろうが、その二つはそも未分化であって、それによって政治的意図の真剣さを判断しようとするのが間違い。それは前回書いた。 http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20081027/p1 ふたつめ、この社会においては、「政治的意図があった」は常に非

    「〜だけ」は政治的意図を排除しない - 過ぎ去ろうとしない過去
  • 「デモ」と「ただ歩くこと」 - 過ぎ去ろうとしない過去

    http://www.sanctuarybooks.jp/sugoi/blog/index.php?e=202 イベントが「デモ」だったか「ただ歩くこと」だったかを区別することにあまり意味はありません。 「デモ」とはすなわち「ただ歩くこと」でありうるし、「ただ歩くこと」から「デモ」は発生しえます。まさにその未分化であるところが、「デモ」という政治運動において決定的に重要だと思います。 そもそも届出のデモは「デモ」ではないと言う人もいるけど、そも人が企画したデモの尻馬に乗るだけでデモを企画したことは無いぼくがそれを言うのはおこがましいわけですが、届出のデモも立派な「デモ」だと思います。でもそれはデモが「ただ歩くこと」では無くなったことを意味しないし、もちろん逆に無届だからといってそれはデモではなくても「デモ」でないとは限らない。 「デモ」とはつまり、そこに異議が存在するということを示すことだ

    「デモ」と「ただ歩くこと」 - 過ぎ去ろうとしない過去
  • バカリベラリズム - 過ぎ去ろうとしない過去

    ITだか何かで一山あてたりまたは一山あてる幻想に取り付かれたネオリベかぶれに反知性主義や全体のために誰かが犠牲になければならない教(カルト)などが加わっていい感じに発酵した無教養マッチョ思想をバカリベラリズムと呼ぶことにした。 具体的にははてブのタグなどで使う。

    バカリベラリズム - 過ぎ去ろうとしない過去
  • ベーシック・インカムという脅迫 - 過ぎ去ろうとしない過去

    「魚を取ってやるのではなく魚の取り方を教えるのだ」は最近みんなが大好きなたとえですが、実際に先進国が途上国に対してしたことは異なっていて、つまり「魚を直接取るよりも釣りざおをつくって魚と交換してもらえばよいじゃない」と吹き込んだのです。かくして魚が取れなくなって釣り人が魚を売らなくなったとき、可哀想な釣りざお職人は飢え死にしたのでした。 さて、問題はベーシック・インカムです。 http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50907051.html ぼくはこんな醜悪な記事を書く人に尻尾を振る人々が全く理解できないのですが、ともあれこれはある種の主張ではあるし、ベーシック・インカムという言葉に踊らされてうっかり賛同したくなる気持ちもわからないではありません。 ポイントは、またしても「選択の自由」です。 ベーシック・インカムが始まれば、当然それで飲んで打っ

    ベーシック・インカムという脅迫 - 過ぎ去ろうとしない過去
  • 「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書を読む2 - 過ぎ去ろうとしない過去

    前回は作る会教科書の序文における、歴史学的手法に対する誤解を招くような表現について指摘しました。さて、なぜそのようなことが書かれてしまったのでしょうか。 続きを読んでいきます。 しかしそうなると、人によって、民族によって、時代によって、考え方や感じ方がそれぞれまったく異なっているので、これが事実だと簡単に一つの事実をくっきりえがき出すことは難しいということに気がつくであろう。 前回、われわれはこの文章の筆者は「事実=実際にあった出来事」と「価値=過去の人がどう考えていたか」をくっきり分けようと考えていることを発見しましたが、この文章ではその「事実」と「価値」の関係性について触れているようです。「事実」には、「いったいかくかくの事件はなぜおこったか、誰が死亡したためにどういう影響が生じたか」ということが含まれているが、それは「価値」に依存する。換言すれば、「価値」の数だけ「事実」が存在すると

    「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書を読む2 - 過ぎ去ろうとしない過去
  • 過ぎ去ろうとしない過去 - 諸外国の教育基本法

    教育法改正の動きが盛り上がっているようですが、 「各国における『教育法』に相当する法律について」 http://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/data/004/index.htm どう見ても自民党がやりたがっていた改革案に一番近いのは中国のです。当にありがとうございました。*1 http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20041013のときも思ったけれど、「諸外国では愛国教育は当たり前」だとか、「国旗国歌は当たり前」といった「神話」はどこから生まれるんだろう。 ちなみに、http://www.kyouikukaikaku.net/tokumoku.htmlのバイエルン州憲法の部分が バイエルン祖国及びドイツ国民への愛 となっているわけですが、原文*2ではbayerischen Heimat。Heimatの原義は「故郷」。ドイツ語で「祖

    過ぎ去ろうとしない過去 - 諸外国の教育基本法
    t-hirosaka
    t-hirosaka 2006/04/22
    「諸外国では愛国教育は当たり前」だとか、「国旗国歌は当たり前」といった「神話」はどこから生まれるんだろう。
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