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ブックマーク / www.a-inquiry.com (5)

  • ロマン・ロラン『恋は決闘です。もし右をみたり左をみたりしたら敗北です。』

    考察 『愛』は与えるもの。『恋』は奪うもの。そう考えると『恋が決闘』というのは、合点がいく話である。決闘というのは、往々にして『報酬』がつきものだ。屋久島に棲むヤクザルは、メスの奪い合いで血だらけになるまで争い合う。人間とて同じだ。パートナーを掴み取る為に決闘をするのは、動物の性である。また、ある種『恋』とは、ロマンチックなものでもある。従って、相手も相手で、 (当に自分に相応しいか。この人が運命の人でいいのか。)ということを自問したいのだ。その時に、この決闘というのは有効打である。脇目を振らずに求めてくれるか、そういうことを、恋愛において、考えたいのである。 以前、とある気になる女性がいて、その人に興味を持った。そういうことは10年ほどなかった。だが、この女性というのも特殊で、実は顔を見たことがないのだ。声しか聴いたことがない。オンラインゲームで知り合った女性なのだが、そもそも私は、オ

    ロマン・ロラン『恋は決闘です。もし右をみたり左をみたりしたら敗北です。』
  • ニーチェ『君は奴隷か?それなら君は友とはなれない。君は暴君か?それなら君は、友を持てない。』

    つまり人間は、『自ら奴隷になり下がる』人と、『自らの意志で人生を生き貫く』人とに分かれる。『最初からそうなっている』のではない。自らの意志で、それを選んでいるのだ。アリストテレスはこう続ける。 自分にあるのは、『他人の理性を理解できる程度の理性』でしかない、と。そうやって自分の意志を卑下し、人生の舵を握ることを放棄している者は、『自ら奴隷になりさがる』行為を取っているに等しいのだ。そんな人間は、その時点で『そうではないと心に決める人間』とは友にはなれない。何なら彼の、『奴隷になりさがる』だろう。言う事を聞くだけの奴隷だ。これは友ではない。 『暴君』とて同じことだ。カギは『対等な人間関係』にある。『奴隷と奴隷』も『暴君と暴君』も、そもそも『人とて数えない』ことを考えると、そこにあるのは『友人関係』ではない。 『友人関係』とは、人間と人間の間にある高潔な絆のことだ。傷をなめ合うのでもない。裏切

    ニーチェ『君は奴隷か?それなら君は友とはなれない。君は暴君か?それなら君は、友を持てない。』
  • パブロ・ピカソ『芸術とはわれわれに真理を悟らせてくれる嘘である。』

    考察 まず、『芸術は嘘である』というところを見る。それがわかった後、『しかし、結果的にそれで真理を悟ることが出来る』ことが浮き彫りになる。だとすると、考えられるのは、『背理法』だ。 背理法というのは、命題Aが真でないと仮定し、そこから導かれる結論に矛盾が生じることを示して命題Aが真であることを証明する方法。あるいは、『Bが真実である』という風に、仮説を立ててみる。すると、どう考えてもそれが、つじつまが合わない。従ってそれは、『嘘』だということになる。(やっぱりAが正しいのか)ということになるわけだ。『Aが真ではない』ということも、『Bが真である』ということも、両方『嘘』だ。真実は、『Aが真である』という事実のみ。 つまり、まず芸術という嘘をついて、それが真実の実態であるかのように振る舞う。しかし、それがどう考えてもつじつまが合わない。だとすると、やはりこの世に真実や真理は存在するのだ、とい

    パブロ・ピカソ『芸術とはわれわれに真理を悟らせてくれる嘘である。』
  • 芥川龍之介『運命は偶然よりも必然である。運命は性格の中にあるという言葉は決して等閑に生まれたものではない。』

    芥川龍之介『運命は偶然よりも必然である。運命は性格の中にあるという言葉は決して等閑に生まれたものではない。』
    takahiro_kihara
    takahiro_kihara 2018/06/14
    歴史は偶然か必然か?
  • ニーチェ『事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。』

    考察 そしてその『解釈』とは、『人間が勝手にした解釈』だ。例えば、ガリレオとコペルニクスが『地動説』を説くまでは、キリスト教で信じられていた『天動説』が常識だった。 [画像] しかし真実は、『地動説』に近かったわけで、 [画像] 更には、地球も太陽も、宇宙の真ん中ではなかった。しかし、この時代の人間は、『天動説を信じていた(間違った事実を、真実だと勘違いしていた)』。『人間が勝手にした解釈』の正確性がわかっただろう。 ブルーノという修道僧は、このコペルニクスが提唱した地動説を熱烈に支持し、自分が正しいと信じる世界の考え方を広めようといたるところで講演をしたが、これは当時の法王の天動説的常識や、聖書の教えに著しくそむくものだと考えられたので、1600年2月17日、ローマのカムポ・ディ・フィオリという広場で、火あぶりにされてしまった。間違った解釈をした者が、正しい解釈をした者の命を奪ったのだ。

    ニーチェ『事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。』
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