『方丈記』(現代語表記:ほうじょうき、歴史的仮名遣:はうぢやうき)は、賀茂県主氏出身の鴨長明による鎌倉時代の随筆[1]。日本中世文学の代表的な随筆とされ、『徒然草』兼好法師、『枕草子』清少納言とならぶ「古典日本三大随筆」に数えられる。 概要[編集] 方丈庵(復元) 下鴨神社(京都市左京区)境内の河合神社に展示。 晩年に長明は、京の郊外・日野(日野岳とも表記、京都市伏見区日野山)に一丈四方(方丈)の小庵をむすび隠棲した。庵に住みつつ当時の世間を観察し書き記した記録であることから、自ら「方丈記」と名づけた。 末尾に「于時建暦ノフタトセ、ヤヨヒノツコモリコロ、桑門ノ蓮胤、トヤマノイホリニシテ、コレヲシルス」(大福光寺本)とあることから、1212年(建暦2年)3月末日に記されたとされる。現存する最古の写本は、大福光寺(京都府京丹波町)が所蔵する大福光寺本である。これを自筆本とする見解[2]、誤字・
FC2ブログへようこそ! 古本好きの古本虫があちこち出かけ古本屋ルポをしたり新本含めて古本などの読後感を綴ったり…。硬い真面目な本も柔らかいフフフのエロス本も読みこなすジキルとハイド的読書論を綴ります。 真鍋良一氏の『ドイツ語と共に五十年 巣鴨獄中新聞編集長の手記』 (吾妻書房)を読んだ。本は1977年の刊行で、著者は1907年生まれ。京都大学文学部卒業。戦後は東海大学教授などとなり、ドイツ語教師として何冊かの本も出している。戦前にドイツに留学もしており、その時知り合った外交官・牛場信彦氏に誘われ、戦時中は外務省で翻訳などの仕事にも従事していたとのこと。中国で領事もやっている。あのヒットラーユーゲントが来日した時は、三カ月にわたって通訳も務めている。出羽の海部屋を彼らが訪れ「ハッケヨイヤを訳せと言われて、さすがの真鍋通訳もお手あげ」といった新聞報道もあったという。 また外務省時代にヒットラ
※この記事は銃・病原菌・鉄の概要を書いたものですので、詳しいことは実際に本を買って読んでいただけると良いかと思います。名著ですので、人生で一度読んでおくことをお勧めします。 文庫 銃・病原菌・鉄 (上) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫) 作者:ジャレド・ダイアモンド草思社Amazon文庫 銃・病原菌・鉄 (下) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫) 作者:ジャレド・ダイアモンド草思社Amazon はじめに なんで、スペイン人のピサロは圧倒的に少ない人数でインカ帝国を征服できたんだろう。 それはスペイン人が、銃と鉄、そして何よりアメリカ大陸にはない病原菌とそれに対する耐性を持っていたからですよ。 じゃあ、なんで、スペイン人はそれを持っていたの?銃と、鉄を発明できたの?病気に対する耐性を持っていたの? ヨーロッパ人はインカ帝国の人より、人種的に勤勉だったり病気に強か
昔は新米より古米の方が高かったし、 戦国時代の人は整然と歩けなかった!? 高野秀行×清水克行『世界の辺境とハードボイルド室町時代』トークイベント 情報 #新刊インタビュー#『世界の辺境とハードボイルド室町時代 現代ソマリランドと室町日本は驚くほど似ていた! ――この驚きの事実をノンフィクション作家・高野秀行と歴史家・清水克行が語り合った『世界の辺境とハードボイルド室町時代』が注目を集めている。どのように室町時代とソマリアは出会ったのか、そして米、納豆、河童の話まで。縦横無尽のトークイベントの模様をお伝えする。9月25日、東京堂書店神田神保町店で行われた『世界の辺境とハードボイルド室町時代』トークイベントより抄録。(構成/山本菜々子) 清水 本日は二人の対談集『世界の辺境とハードボイルド室町時代』の刊行記念イベントです。まずはあの本がどういう経緯でできたのか話をしなくてはいけませんね。 高野
白洲次郎の評価が急上昇したのはごく近年のことで、20年まえにはさほど知名度のある人物ではありませんでした。 白洲次郎の再評価は、その妻・白洲正子のおかげです。 白洲正子はすぐれた随筆家でした。青山二郎、小林秀雄らと交流して筆力を養い、そのたしかな審美眼を通して日本の古美術や能についての随筆を多く残しました。また骨董のコレクターとしても知られていました。女性を中心に多くのファンをもつ随筆家でした。 正子は樺山資紀(伯爵、海軍大将)の孫で学習院に入学、渡米してミッション系の学校で学んだという華麗な出自ですが、そういう育ちであればこその審美眼であったかもしれません。 とびきりのお嬢様育ちだった正子の結婚相手が白洲次郎でした。次郎もまた貿易商として巨万の富を築いた白洲文平の息子として生まれ育ち、ケンブリッジ大学を卒業したとびきりのお坊ちゃんでした。 次郎と正子は結婚祝いにもらったランチア・ラムダで
『ネアンデルタール人は私たちと交配した』は、人類のルーツをめぐる最大のミステリーを古代ゲノム解読で突き止めた、スヴァンテ・ペーボ博士による回想記である。 本書の読みどころは、科学的な実験によって明かされる様々な事実の面白さのみならず、それを導き出すまでの長きに渡るプロセスも、余すところなく描いている点だ。「科学の営み」における光と影、その両面を知り尽くした分子古生物学者・更科 功博士の巻末解説を特別に掲載いたします。(HONZ編集部) 私たち現生人類、すなわちホモ・サピエンスは、二番目に脳が大きいヒト族である。そのホモ・サピエンスのひとりが、地球の歴史上、一番脳が大きいヒト族であったネアンデルタール人に興味を持った。彼はまったく新しい方法を使って、これまでまったくわからなかったネアンデルタール人の行動を明らかにした。それは、私たちホモ・サピエンスとネアンデルタール人の性交渉である。ホモ・サ
『徹底検証 日清・日露戦争』 半藤・秦・松本他 『韓国併合への道 完全版』 呉 善花 『第一次世界大戦はなぜ始まったのか』 別宮暖朗 『韓国人の歴史観』 黒田勝弘 『昭和陸海軍の失敗』 半藤・秦・平間・保阪他 『対談 昭和史発掘』 松本清張 『昭和史の論点』 坂本多加雄・秦 郁彦・半藤一利・保阪正康 『高橋是清と井上準之助』 鈴木 隆 『誰か「戦前」を知らないか』 山本夏彦 『昭和の名将と愚将』 半藤一利・保阪正康 『元老 西園寺公望』 伊藤之雄 『永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」』 早坂 隆 『「南京事件」の探究』 北村 稔 『松井石根と南京事件の真実』 早坂 隆 『あの戦争になぜ負けたのか』 半藤・保阪他 『零戦と戦艦大和』 半藤・秦他 『ハル・ノートを書いた男』 須藤眞志 『帝国海軍の勝利と滅亡』 別宮暖朗 『指揮官の決断』 早坂 隆 『十七歳の硫黄島』 秋草鶴次 『特攻とは何か』 森
台湾の国家図書館に保存されている"入唐求法巡禮行記"の1ページ 『入唐求法巡礼行記』(にっとうぐほうじゅんれいこうき、旧字体:入唐求法巡禮行記)とは、9世紀の日本人僧で、最後の遣唐使(承和)における入唐請益僧である円仁の旅行記である。 その記述内容は、円仁がちょうど遭遇してしまった、武宗による会昌の廃仏の状況を記録した同時代史料として注目される。また、正史には見られない、9世紀の中国の社会・風習についての記述も多く、晩唐の歴史研究をする上での貴重な史料として高く評価される。円仁は最澄に師事した天台僧で、のちに山門派の祖となる。 838年(承和5年)、博多津を出港した場面から始まり、揚州へ向かい、847年に帰国するまでを記述する。日記式の文体で書かれる。
ニューヨーク市ブルックリン区で貿易商の家庭で生まれた[6][7]。9歳のとき父と共にヨーロッパを旅行し、このことがきっかけでフランス語など外国語の習得に強い興味を抱くようになる[6][8]。しかし、世界恐慌の最中に妹が死亡し、15歳のときに両親が離婚[9]。以後母とともに生活を営むことになり、経済的困難に遭遇したが、飛び級を繰り返していたキーンはニューヨーク州最優秀生徒としてコロンビア大学のピュリッツァー奨学金を得ることに成功し、1938年(昭和13年)に16歳で同大学文学部に入学した[6][10][11]。 同校でマーク・ヴァン・ドーレンやライオネル・トリリングの薫陶を受け、フランス語や古代ギリシア語を習得[6][7][11][12]。同じ頃、ヴァン・ドーレンの講義で中華民国人学生李と親しくなり、そのことがきっかけで中国語、特に漢字の学習に惹かれるに至る[7][11][13]。 1940
1966年(昭和41年)11月から1968年(昭和43年)5月まで『毎日新聞』に連載され、1968年10月に新潮社で刊行。 それまでほとんど無名に近かった幕末から戊辰戦争時の越後長岡藩家老・河井継之助の名を、一躍世間に広めることとなった歴史小説である。近代的合理主義を持ち、時代を見据える先見性と実行性を有しながらも、「藩」や「武士」という束縛から自己を解放するまでには至らず、最後には武士として、長岡藩の家臣として、新政府軍に対抗する道を選んだ英雄の悲劇を描く。 『峠』の連載に先立って1964年(昭和39年)1月には「別冊文藝春秋」に河井を主人公にした短編小説「英雄児」を発表している。また、同時期の類似テーマを扱った作品として、同年翌2月には「小説新潮」に大村益次郎を主人公にした短編「鬼謀の人」が発表されており、後に長編小説『花神』として連載されている。 1977年の大河ドラマ『花神』の原作
マリウス・バーサス・ジャンセン[1](Marius Berthus Jansen, 1922年4月11日 - 2000年12月10日)は、オランダ生まれのアメリカ合衆国の日本研究者。プリンストン大学名誉教授。日本近代化論の代表的研究者[2]。 オランダユトレヒト近郊のフロイテンに生まれる[2]。2歳の時、米国ロードアイランド州に移住、農園で家の手伝いをしながら進学した[2]。長兄はMITを出てエンジニアとなり、次兄はプリンストン大学を卒業し、牧師となった[2]。 第二次世界大戦中の1940年秋、プリンストン大学入学。ドイツの宗教改革を研究し、卒業論文「進歩の起源と理念について」で最優秀学生となった[2]。1941年の日本による真珠湾攻撃を受けてアメリカ陸軍の大学生向け志願兵制度に応募し、1943年4月にプリンストン大学を繰り上げ卒業し、軍籍に入った[2]。アメリカ陸軍は日本の敗戦を予見し、
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く