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critiqueとanimeに関するtokadaのブックマーク (23)

  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    うめぇヨーグルトソースでもいかがですか。個人差にもよりますが。もしよろしければ。 お久しぶりです。 最近うんめぇ〜と思ってるヨーグルトソースがあるので、書いていこうと思います。 ヨーグルトとハーブ類をもりもり使うので、そういうのがべられない方にはうんめぇソースではないです。ごめんなさい…。もしよろしければお茶だけも…旦~ 【用意する…

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  • なぜ、アニメは感想と批評の境界があやふやなのか - まっつねのアニメとか作画とか

    前回のブクマレスを兼ねて、 ブコメの情報を取り入れてみた。 Q、なぜ、感想と批評の境界があやふやなのか A、 第一に、話題にすべき要素が多く、ただの感想に見えにくい(前回から流用) 第二に、批評のハードルが低い →なぜ批評のハードルが低いのか? ?一見、批評のためのヒントが多い(=簡単そう) ?先人が少ない(=難解な批評用語が少ない) ?原作との比較でお手軽批評(原作モノ限定) 第三に、感想に自分語りが混じって、批評っぽく見える(実際にはただの感想) ・批評と感想 批評と感想の違いは客観的か主観的かの差だと思います。 客観自体が存在するか、とかの哲学的な問いはスルーします。 つまり、批評というのは、 あるかないかも分からない、その作品の「客観的な評価=正解」 を探る作業だと思うわけです。 まあ宝探しみたいなものですね。 zsphereさんの言うように、そんな宝はないのかもしれない。 「漱石

    なぜ、アニメは感想と批評の境界があやふやなのか - まっつねのアニメとか作画とか
  • 『けいおん!』第6話における澪のパンツ表現に関する所感――「パンツ表現論4」への助走として - 反=アニメ批評

    反=アニメ批評, 2009年春期アニメいよいよ放送された『けいおん!』第6話。 この第6話文化祭のエピソードは、原作では「澪のパンチラシーン」が描かれた回であり、 かつ、『けいおん!』の監督である山田尚子さんもどこぞのインタヴューにおいて、 「(文化祭の澪のアレ)大事に描こうと思ってます。ファンの人にガッカリされないように」 と語っていたことからも、パンツ描写が禁止されているだろうTBSでの放送で、京アニはいったいどんなパンツ表現を見せてくれるものなのかと、パンツ論壇人たちの間では高い期待と関心が寄せられていました。 では早速、当の第6話「文化祭」では、どのようなパンツ表現が用いられていたかを振り返ってみましょう。 文化祭での演奏終了後のステージ上、満足気に袖へと引き上げようとする澪が、不覚にも自らのベースのシールドに足を取られては派手に倒れこんでしまったわけですが、その後、彼女がおもむろ

  • http://img.f.hatena.ne.jp/images/fotolife/m/matakimika/20090416/20090416233851.png

  • 5ちゃんねる error 1503

    LoadAverage = 19.83 (16.00以上は人大杉) 人大杉 このスレを見る方法http://www2.5ch.net/live.html read.cgi ver 05.05 2023/04/05 Walang Kapalit ★ FOX ★

  • アニメの物質性 - 仮想算術の世界

    『けいおん!』に近場の風景がぽんぽん出てくることに我慢できなくなって、「聖地巡礼」を敢行してしまいました。実際『けいおん!』の舞台は半分くらい僕の生活圏とかぶっていて、たとえば第1話で律たち3人がだべっていたマクドナルドは、たまにそこで原稿書いたりゲラ直したりする行きつけの店だったりするし、オープニングで階段だけ出てくる京都造形芸術大学はいまの家から自転車で3分くらいのところだったりするし、第2話に出てくる楽器屋(10GIA)は京都三条のJEUGIAがモデルで、高校時代からよくCDを買いに行っていた馴染み深い店でもあるし…というわけで、あんまり冷静に見ることができないんですけど(笑)。まぁ、これまで出てきた(あるいは、これから出てきそうな)風景を類推しながらデジカメでぱしゃぱしゃやってると、なんというか、純粋に楽しいですよね。これは病みつきになりそうです。 そういう個人的な盛り上がりは抜

  • アニオタ OFF - また君か。@d.hatena

    先日、全国に遍在するアニオタたちのごく一部が結集する…つまりわりとローカルな…アニオタ OFF 会が行われていて、おれはそのような会合に参加できるほどアニメ功を積んでいないわけだけど、一応見学にでも来てみればと誘われて、行きたいなあと思っていたのに、風邪をひいてしまったので、せっかくの日曜日に布団かぶってゴロゴロしていて、残念だった。そういうわけで、再びアニメに詳しい界隈のひとたちが集まる会をやるという今回のお誘いには乗らないわけにはいかないのだった。 とりあえず集合地は池袋で、会場とかは人数もそんな多くないので適当に、予算は絞って、というかんじだったので、「孤独のグルメ」で有名な駅ビル屋上の軽コーナーに行って昼から夕方までひまをつぶし、そこから先日別の OFF 会(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20090218#p2)でも利用した喫茶店に移動して、さ

    アニオタ OFF - また君か。@d.hatena
  • 『けいおん!』はなぜただの「美少女萌えアニメ」とは違うのか――女の子的想像力に関して - 反=アニメ批評

    ※現在あいにく、反=アニメ批評を展開するだけの余裕がないため、しばらくの間は、新作アニメの簡単なレヴューで済まさせていただきます。※ということで、2009年春期新作アニメレヴューその1。 今回とりあげさせていただくのは、今期アニメの中で最大の話題作でありヒット作であろう京都アニメーション制作作品『けいおん!』です。 といってももちろん、この『けいおん!』については、おそらく既に、無数のブログにおいて数多くの指摘がなされていることでしょうから、いまさら、京アニが同じく萌え4コマを原作としたアニメ『らき☆すた』との設定における類似性であるとか、部活作りという展開が『ハルヒ』第1話と、またガールズバンドというモチーフが『ハルヒ』の「ライブ・アライブ」と被っていること、さらにいえば、高い作画レベルで描かれた、どこかふとましくデザインされた女の子たちによるバンド演奏シーンが『まなびストレート』を思わ

  • 今月の原稿、現在の状況 - 生活の柄/C h a r a c t e r i n t h e E x p a n d e d F i e l d

    お久しぶりです。もはや折り返していますが、今月の活動です↓---『パンドラ3』(「パンドラ Vol.2 SIDE-B」からのリニューアル号です。20日発売)にアニメの論考を寄稿しました。「キャラクターだけの世界 -美少女アニメとしての新房+シャフト作品-」---告知は以上です。 今期は『けいおん!』が人気ということですが、ぼくとしては『けいおん!』を「京アニの気」とか言うのはまだ早いと思ってます。『けいおん!』は普通に考えれば、『ひだまりスケッチ』のリアルぷに絵版なわけで、「ゆい」=「ゆの」だと考えられるわけです。たとえば『ひだまりスケッチ』であれば「ゆの」のイタさを利用して、イタさの数だけ表現形式を使い分けるような技法を繰り出し、むりやり位相を作っていたわけですが(そしてそれに応じて周りのキャラも動く)、現段階の『けいおん!』ではそのような積極的な演出はみられません。もちろん、だからダ

  • なぜアニメは成熟した喪失感を描くのに適しているのか 映画「スカイクロラ」 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    映画「スカイクロラ」 遅まきながら、映画「スカイクロラ」(ASIN:B001NAW2MK) http://sky.crawlers.jp/tsushin/をDVD鑑賞。小説など事前の知識なく見たら、噂と違って?かなり楽しめました。平和を維持するために続けられる戦争。そしてその戦争のために生きるパイロットたち。大人になることがなく、戦死しても再生される。すなわち戦争劇のために永遠にいきることを強いられる。 "彼ら"の不思議はなぜ働きつづけるのか。ある意味で彼らは充足しているのでしょう。大人にならないこと、空を飛び戦うこと、また生き返ること、そして自分達の社会的な役割を。そこには、生きることの喪失感の第一段階である苦悩し自分探しをする青春ドラマではなく、もっとさめたアイロニカルなドラマがある。それはどこにも行き場かないことを受け入れるところからはじまる。 生きることの喪失感を描かせたら、現代で

    なぜアニメは成熟した喪失感を描くのに適しているのか 映画「スカイクロラ」 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • 汐は救われているのか - hazumaのブログ

    こんばんは。筒井先生に「東くんは肥えてから良くなった」と言われ、調子づいている東浩紀です。 さてさて、原稿がいっこうに進まないので、現実逃避のエントリを上げることにしました。 http://d.hatena.ne.jp/syusei-sakagami/20090316/1237211444 ここで坂上くんは、CLANNAD AFTER STORYの最終話は「駄作」だと言っています(以下ネタバレ含むので注意)。その理由はリンク先には書かれていませんが、ぼくは彼に直接ゼロアカ懇親会で聞いたので知っています。要は、ゲームでは汐バッドエンドのあと、いろいろプレイヤーが努力してようやくトゥルーエンドに辿り着くのに、アニメでは一足飛びにトゥルーエンドに行ってしまっているからダメだ、主人公はもっと努力しなければ幸せになれないはずだ、あれでは御都合主義だというのが彼の主張です。それはまた、坂上くんがFat

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  • 「ぼく」が「ぼくら」へとつながる意義――「とらドラ!」に見る後期近代と、そこにおける生の存在論的根拠―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    とらドラにオラクル不在問題(俺命名)について少し書くことにする。 この問題は「週末に「とらドラ!」の原作読んだけどよ」という増田のエントリの中で取り上げられ、それに対し有村悠氏が「『とらドラ!』について少し考えてみた」というエントリーにおいて、大体の要点を抑えたアンサーをしているのだが、これについてもう少し深く掘り下げたり我田引水してみたい。具体的には、オラクルが「物語中で」「登場人物によって」希求されているにも関わらず「不在であること」の意味――「『みんなが物事を自分ひとりで解決していかねばならない』という困難の存在」の理由と意味を、もう少し深く考えてみようと思う。 この問題に対して、増田は共同体の崩壊に、有村氏はより限定的に家族共同体の崩壊にその理由を見出したのだが、これは「再帰的近代化」における「ゲマインシャフトのゲゼルシャフト化」によるものだといえる。社会システムの発展と高度経済成

    「ぼく」が「ぼくら」へとつながる意義――「とらドラ!」に見る後期近代と、そこにおける生の存在論的根拠―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
  • Thirのノート

    thir ノート:覚え書き。断片的かつあまりまとまりのない文章を記録/公開しています。詳しい方針は自己紹介にて。

  • http://yaplog.jp/sennheiser/archive/18

  • http://yaplog.jp/sennheiser/archive/17

  • アニメに批評が根付かない理由を8個挙げてみる - あしもとに水色宇宙

    「hirokiazuma.com」 東浩紀さんと山寛監督が対談したという記事を読んで、ヤマカンってアニメの批評についてめちゃくちゃ意欲があるんだなと再認識した。「ヌーヴェルヴァーグだ」とか、「アニメ批評家は存在しない」とか批評について並々ならぬ強い意志を感じるんだけど、「アニメ批評だ」って声高に言ってる人って多分ヤマカン一人だけなんじゃないかな。「ヤマカンの後に続こう」なんて人は、誰もいやしないように思えるし。それで、なんでアニメに批評が根付かないのか考えてみた。 アニメについて膨大な知識を持っていて尚且つ批評する力がある人がいないから 多分、こういう人ってほんとに一握りの人物しかいないと思う。批評できる力があっても、アニメに対してそんなに詳しくないとか。アニメについての知識は豊富なんだけど、批評する力がないとか。両方持ち合わせている人物が極端に少ないように思える。だから、アニメ制作のプ

    アニメに批評が根付かない理由を8個挙げてみる - あしもとに水色宇宙
  • ハッキングされる美術批評 ──黒瀬陽平さんロングインタビュー - 荻上式BLOG

    2008年5月某日、渋谷にて美術家・黒瀬陽平さん(id:kaichoo)のインタビューを行いました。黒瀬さんといえば、ミニコミ『RH』の編集委員であり、『思想地図』に掲載された公募論文「キャラクターが、見ている ―アニメ表現論序説」などでも注目を集めている、「新進気鋭」という言葉がストレートに当てはまるような批評家です(黒瀬さんは1983年生まれ)。インタビューでは、『思想地図』論文の背景にある、黒瀬さんの問題意識や生い立ち、手法への意識などを中心にお話を伺いました。 『思想地図』論文を読んですぐに話を伺いにいったのですが、公開が少し遅れてしまいました。すみません。それでもなお、鮮度たっぷりなインタビューを、どうぞ一気にご覧くださいませ!(「インタビュアーのくせに喋りすぎ問題」は、今回は平気なはず!) ■プロローグ:『思想地図』論文への問い 渋谷のカフェにて 荻上:今回は、黒瀬さんが、その

    ハッキングされる美術批評 ──黒瀬陽平さんロングインタビュー - 荻上式BLOG
  • 『思想地図』「キャラクターが、見ている。――アニメ表現論序説」 - 萌え理論ブログ

    概要 NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日 おそらく私たちは、萌えアニメを中心とするキャラクターアニメのなかで、キャラクターと逆遠近法的な関係を結んでいる。 美術家・黒瀬陽平氏が寄せた、『思想地図vol.1』の公募論文「キャラクターが、見ている。――アニメ表現論序説」について考察する。 黒瀬氏は、日アニメに関する言説が、物語論に偏在しており、表現論が不在だと主張する。そこで表現論によって、ポスト・エヴァの萌えアニメの系譜を捉え直そうと試みる。 そして、カメラアイが構成する「遠近法的空間」と、キャラクターが構成する「データベース的空間」という図式を提示する。 アニメの視聴者は、キャラクターと「逆遠近法的」関係を結ぶのだという。それは、アニメのキャラクターに「目を合わせる」ことができず、一方的に見られている、ということだ。 少し疑問を提起したい。 疑問1・遠近法を使うとデータ

    『思想地図』「キャラクターが、見ている。――アニメ表現論序説」 - 萌え理論ブログ
  • 『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その1)――オタクと非オタクとの間 - metamorphosis

    以前、このブログで、アニメ『まなびストレート』を取り上げて共通前提の崩壊について語ったことがあったが(共通前提の崩壊、学園ものの危機――『まなびストレート』を中心に)、もちろん、共通前提の崩壊という現象は、『まなび』という作品だけに見られるものではなく、最近のあらゆるサブカルチャー作品にその片鱗を見出すことができる。小さな物語を扱っている作品には、共通前提の崩壊を、少なくとも潜在的な形で、見出すことができると言える。まさに、その点で、逆説的なことながら、われわれの共通感覚を過度に強調しているような作品は、その背後にある共通前提の崩壊を暗黙のうちに示していると言えるだろう。 その点で、例えば、『らき☆すた』のような作品は、われわれの共通了解というものが、いったい、どのような領域で、どのようなレベルにおいて確認することができるのか(あるいは、確認することができないのか)ということを検証している

    『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その1)――オタクと非オタクとの間 - metamorphosis
  • 『思想地図』創刊! そして増刷!! - 生活の柄/C h a r a c t e r i n t h e E x p a n d e d F i e l d