ブックマーク / d.hatena.ne.jp/aureliano (27)

  • インテリアに圧倒的に一人勝ちし快適な住空間を手に入れるための7つステップ

    都会に暮らしているとそれはもう部屋が狭いケースは圧倒的に多い。その上、やらなければいけない仕事、読まなければならない、見なければいけない映画べなければいけないべ物の集積などで、部屋の中には物が溢れ出してくる。それはもう、あっという間に溢れ出してくる。結果、ただでさえ狭い部屋が以前にも増して狭くなり、とてもではないが気持ち良い部屋とは言えなくなる。快適空間からはほど遠くなる。家に帰りたくなくなる。ましてや友だちを呼ぶなどとはもってのほかだ。 そういう状況を何とか打破したい。1日のうち実に約50%の12時間を過ごすと言われ、その結果人生において欠かすことのできない「自分の部屋」というものを、何とか快適にして、人生そのものも快適にしたい。そういう人たちにおくる、インテリアに圧倒的に一人勝ちして、快適な住空間を手に入れ、人生までをも快適にしてしまおうという7つのステップが、以下に紹介するT

    tsumoyun
    tsumoyun 2009/12/05
    「何も置かない」というインテリアを部屋のそこかしこに置けばいいだけ。無料。これまじおすすめ。
  • クリエイターが「構成」を学ぶために読むべき10冊の小説(後編) - ハックルベリーに会いに行く

    前回の記事クリエイターが「構成」を学ぶために読むべき10冊の小説(前編) クリエイターが「構成」を学ぶために読むべき10冊の小説(「その5」から「その10」) その6「積重」小説――取り分け「『長編小説』とは何か?」ということを定義付けしようとしたならば、その答の一つに必ず「小さなエピソードの積み重ね」というのがあると思う。ピラミッドが一つ一つの石の積み重ねでできているのと同じように、小説も小さなエピソードの積み重ねでできているのである。その「積重」という構造がこれ以上なくよく分かる小説が、この「百年の孤独」だ。この小説は、無数の小さなエピソードが積み重なってできている。大部の物語の初めから終わりまで、徹頭徹尾小さなエピソードを積み重ねるというスタイルで一貫している。そして、そのエピソードのどれもが秀逸なのだ。面白いのである。小さなエピソードの一つ一つが、どれもちょっとした短編小説が書けそ

  • クリエイターが「構成」を学ぶために読むべき10冊の小説(前編) - ハックルベリーに会いに行く

    はじめにぼくは当にエンターテインメントが好きで、小説はもちろん大好きなのだが、それ以外にも劇、映画、アニメ、マンガ、音楽ゲームと、ありとあらゆるものが好きである。それで以前「なぜこうも横断的に何でもかんでも好きなのか?」と考えたことがあったのだが、その時にはたと思いついたのは、「自分は『構成』というのが何より好きなのではないか?」ということであった。 ぼくは「構成」が好きだった。それも構成の妙というやつが好きだ。どんなジャンルのエンターテインメントにしろ、見事に構成してあるものを見ると当に感心する。例えばぼくは、建築を見てもまずその構成に感心する。大学の頃、学校の課外授業で京都に行き、フランク・ロイド・ライトが建築した「旧山村邸」を見学させてもらったことがあった。この時、ぼくは何よりその空間構成の見事さに、心から感動したのだった。 大きな地図で見るこれはライトの建築の特徴でもあるのだ

  • 自己実現をはかれる人の7 つのチェックポイント - ハックルベリーに会いに行く

    ついひと月ほど前、転職活動をする中でさまざまなところを訪問し、さまざまな人たちとお話をさせて頂く機会があった。その中で特に印象に残ったのは、とあるベンチャーキャピタル(VC)にお勤めの方のお話しだった。名前を仮にAさんとしておく。Aさんは、職業柄さまざまなベンチャー企業の人たちとお会いする。特に社長と会う。その上で、彼らの会社が今後成長していくかどうかを見極めていくのだけれど、その際の評価基準となるのは、一も二もなく「社長そのもの」なのだということだった。こう言ってしまっては何だが、事業内容や設立趣意などはあんまり見ないのだそうである。感覚でいうと八割から九割が社長で判断するらしい。Aさんが言うには、社長は会社の顔であると同時に、会社の性格でもあるという。社長の性格が、会社の性格にもそのまま反映されるからなのだそうだ。大企業ではそういうことはないのだが、中小企業、特に新興のベンチャーにおい

  • テレビの世界にもROIの波は押し寄せている - ハックルベリーに会いに行く

    テレビ仕事をしている友人Mから聞いた話。 この2月まで、TBSで「悪魔の契約にサイン」というゴールデン枠のレギュラー番組があったのだそうだが、これが記録的な大敗に終わったらしい。視聴率はほとんど一桁で、たった9回の放送であえなく終了となった。最終回の視聴率は5.1%だった。これだけならたまにあることなのだが(「巨泉の使えない英語」というのがよく例として語られる)、この番組の特筆すべきところは、放送開始直前まで(あるいは始まってからも?)スポンサーが全くつかなったことだそうだ。理由はタイトルにあるらしい。Mが言うには「今時『悪魔の契約にサイン』という不吉なタイトルの番組にお金を出すようなおめでたいスポンサーはいないですよ」ということだった。そして「それに番組が始まるまで気づかなかったTBSテレビの編成は、テレビのある種の終末的状況を象徴するトンデモ事例として、後々まで語り継がれるのでしょう

  • 命の軽重について - ハックルベリーに会いに行く

    命には軽重がある。これはきっと多くの人が分かっていることだろう。分かっていながら、言葉に出して言ってしまうと身も蓋もなくなるので、あえて口に出さないのだろう。しかしぼくはそれを口に出してしまう。むしろ、今こそそれを口に出して認めることが必要だとも思ったりする。そういうことを分かってない人も多いと思うからだ。これは良くないことだと思う。命に軽重があるというのは、みんなむしろもっと積極的に進んで認めるようになった方が、色々なことが上手く行くようになると思うし、つまらないことであれこれ悩むことも少なくなると思う。 先日、「赤ひげ」という映画を見た。ぼくは昔この映画を見たと思うのだが、あまり印象に残っていなかった。どういう映画だったっけかと、思い出そうとしてもなかなか思い出せなかった。そこへ先日、NHKのBSで黒澤明の没後10年ということで特集が組まれていて、この映画の放映もしていた。それで、久し

  • これからの競争化社会をどう生きるか - ハックルベリーに会いに行く

    先日弟夫婦と弟の友人と一緒に4人でご飯をべたのだが、そこで「営業」についての話になった。営業の現場に行くと、「それで御社の『売り』は一言で言うと何ですか?」と聞かれることが多い。そこでぼくが「一言で説明するのはなかなか難しいよね。それができれば最高だけど、みんなそれができないから苦労してるんじゃないかな」と言うと、弟の友人がこんなことを言った。「そんなの簡単ですよ。ぼくならこう言います。『弊社の売りは「ぼく自身」です』って。それ以外にありません」 それを聞いてなるほどと思った。彼はとある会社で凄腕の営業マンとして働いていて、給料もそれに見合ってとても高いらしいのだけれど、彼の営業スタイルはまさに自分を売り込むことにあるということだった。「最後は人間だ」と彼は言った。客は商品を見て買うのではなく、最後は人間を見て買うのだと。だから、もちろん商品抜きにしては語れないけれども、最後は自分がどれ

  • S先生はNに謝れと言った - ハックルベリーに会いに行く

    Nという少年がいた。彼には際立った特徴があった。それは感受性が豊かということだった。特に彼は絵が抜群に上手くて、ちょっとクレヨンを振るえばそれでもう大人たちはこぞって誉めてくれた。凄いとか抜群だとか褒めそやした。彼はそれがイヤだったわけではない。ただそれほど誇りにも思わなかった。彼にはそういうところがあった。どこか傲慢だったのかも知れない。他人の評価というものにほとんど興味がなかったのだ。 Nは小学校に上がった。そこで忘れ得ない先生との出会いを果たす。その先生の名前はS。もう五十代後半のベテランの女性教師だった。後数年で定年を控えていた。そうして、同僚からも保護者たちからも信頼の厚い、また非常な尊敬を集める人物であり教師であった。 NとS先生とのあいだには忘れ得ぬ思い出がある。一つは国語の授業の時のことだ。その頃、国語の授業では朗読が行われていた。クラスの端から順にみんなの前で国語の教科書

  • コミュニケーション能力という幻想 - ハックルベリーに会いに行く

    増田にこんな記事があった。新卒時の面接でさえなかなか通らない位コミュニケーション能力に欠けている。(中略)コミュニケーション能力がない人間は職もないとじわじわ選択を迫るのならいっそのこと殺してほしい。30歳で死のうと思っている ここで増田は「コミュニケーション能力」などと言っているが、しかしそれは幻想だ。コミュニケーションは「能力」ではない。「意志」である。アメリカという国そのものの礎を築いたベンジャミン・フランクリンは、自分のつたない話し方が長年のコンプレックスだったらしいが、長じるに連れ、「むしろつなたない話し方の方が多くの人が丁寧に聞いてくれることに気付いた」と言っている。そこから、人前で話すのが億劫ではなくなったそうだ。 「コミュニケーション能力が低い」などというのは言い訳に過ぎない。要は「コミュニケーションしたくない」というだけなのだ。する意志がないだけなのである。それを能力など

  • ぼくも始終ネガティブコメントをもらっているよ、という話 - ハックルベリーに会いに行く

    トラックバックを頂いた記事の中に、興味深い一節がありました。 かんなぎ騒動で思い出したけど、池田理代子も「漫画を描くのを止めろ」という脅迫の手紙を受け取ったことがあるよ、と言う話(1979年、講談社Be-Loveより) - 情報中毒者、あるいは活字中毒 なんでも、池田理代子さんは昔のマニア――いわゆるオタク受けがすごく悪かったそうなんですが、かくいうぼくも、じつはオタクと呼ばれる連中には相当ブログの受けがよくないのです。なにしろ、彼らはまず大衆受けするという、そのことだけで、ブログ価値が低いと決めつけてしまうのですから……。たぶん彼らにはなにかしらチンケなエリート意識みたいなものがあって、“大衆”というものを軽蔑しているようなところがあるのでしょう。彼らに共通してるのは、例外なく、自分の感覚や美意識をぜったいだと思いこんで、そこから一歩も出ようとしない点です。好みや主観だけが、ものごとの価

  • なぜ女の子は「何食べる?」と聞くと「何でも良い」と言うくせに、いざ具体的に提案すると「それはイヤだ」と言うのか - ハックルベリーに会いに行く

    プレゼンテーションをしていて時々気付くのは、相手がプレゼンの内容にはあんまり注目してなかったりすることだ。むしろ、プレゼンするぼく自身を見ていたりする。そもそも、相手に対して何かをプレゼンする時には、向こうが思いつかないようなアイデアをこちらがプレゼンするわけだ。向こうは、ぼくが思いつくようなアイデアを思いつけないから、ぼくにアイデア出しを頼むわけである。但し、クライアントは向こうだから、最終的に選ぶのは向こうなのだけれども、内容が専門的だったりすると、相手にはもう、それが良いか悪いか分からなかったりする。彼らには、それが判断できなかったりするのだ。そうした時に、相手はどうするかというと、そのプレゼンする人を見るのである。内容ではなく、そのプレゼンの仕方を見るのだ。彼の熱意であったりとか、ちょっとした仕草とか、眼差しとか、声のトーンとか、汗の書き方とか、そういうところを見るのである。そして

  • プレゼンテーションを成功させるための9つのステップ - ハックルベリーに会いに行く

    はじめに前回、プレゼンテーションについての記事を書いたら大きな反響を頂いたので、今回も引き続きプレゼンテーションについて書いてみたい。 ぼくはアイデアを出すことを仕事としているので、思えばこれまでの人生はプレゼンテーションの連続だった。そこで人をいかに説得するか、説得しないまでも自分のアイデアをいかに採用してもらうかということで、鎬を削ってきた。また、ぼく自身がプレゼンテーションをしてきただけではなく、さまざまな人のプレゼンテーションというものも見てきた。中にはものすごい名人芸というか、凄腕のプレゼンテーションマエストロも何人か見てきたし、彼らの目を見張るような鮮やかな手練れというのも幾度か目の当たりにしてきた。そうした中で、いつの間にかぼくのプレゼンテーションに対しての一つの法則というか、スクリプトというのができあがった。すぐれたプレゼンテーションにはある一定の法則というか流れのようなも

  • 思わず身体を動かして演じてみたくなるような日本語たち - ハックルベリーに会いに行く

    ふと思い立ったので、ぼくが影響を受けた文章というものについて書いてみたい。ぼくは小さな頃から自分の中に「それは美しいか否か?」というのが大きな価値基準としてあったので、文章もどこか美しいか否かで判断してきたところがあるように思う。 井伏鱒二ぼくがほとんど最初にとして意識して読んだのが「ドリトル先生」だから、最初に意識して読んだ「日語の文章」となると井伏鱒二のものということになる。だから、ここからの影響は免れないのだけれども、今にして思えば、井伏鱒二の翻訳文章は少し硬いと言うか、意訳が少なく文章の構造も英語のそれをそのまま写し取ったものが多かったように思う。しかしそれが良かった。井伏鱒二の几帳面な翻訳は、ぼくに几帳面であることとか真面目であることの美しさを教えてくれた。そうして、英語の持つ独特の構造と言うか、そこに潜むレトリックなどにも、井伏鱒二のおかげで早いうちから親しむことができた。

  • 自分の会社の自慢話をできるか? - ハックルベリーに会いに行く

    先日、機会があってC社という電子機器メーカーの社員の方とお話しさせて頂いたのだが、これがなかなか得難い体験だった。そこで、その方から会社の自慢話を聞かせてもらったのだ。そうして、それが良かった。それは聞いていて気持ちの良い自慢話だったのだ。ぼくはそれに、大いに感銘を受けた。 思えば、自分の会社をへりくだって紹介する人は多いけど、自慢できる人――それも気持ち良くできる人というのは、案外少ないのではないのだろうか。だから、そういう自慢話を聞かせてもらったことがまず新鮮だったのだが、その内容もまた良かった。彼はまず、社長の自慢をしたのである。なんでもC社の社長さんは、もうすぐ80歳という高齢にも関わらず、いまだに現役バリバリで、第一線で働いておられるのだそうだ。特に、C社が開発する新商品に関しては、今でも逐一目を通し、審査に当たられているそうである。C社は大きなメーカーだから、新発売される商品の

  • 目標を作り、与えられる人間こそ本当のマネジャーだ - ハックルベリーに会いに行く

    これまで生きてきて思うのは、「目標を作る」というのはそんなに簡単なことではないということだ。むしろ難しい。みんな目標を作れなくて苦労しているんだ。目標が上手く作れなくて、日々の生活が生き生きとしたものになっていないということはままある。 この目標というのは、誰にでも作れるものではない。それは努力とかとも無関係のような気がする。努力したからといって目標を作るのが上手くなるとも限らない。第一、そんな方法は誰も教えてくれない。目標は、やはり作ることの上手い人と下手な人がいるのだ。そして目標を作るのが上手い人というのは、これはもう圧倒的に上手い。彼は自分の目標を作るだけではなく、他人の目標までをも作ることができる。彼はビジョナリーなのだ。彼は他人のビジョンまで見通すことができる。そして他人の目標を作ることができる。他人の目標を作って、それを与えることができるのだ。 目標を作り、与えられる人間こそマ

  • 0024「教えることを教える」 - ハックルベリーに会いに行く

    アイデア1000ノック教えることというのはとても勉強になる。ぼくは教育者ではないが、それでも仕事で何かを教えてたことはある。その時に気づいたのは、誰かに何かを教えようとする時、それは自分にとっても大いに勉強になるということだ。自分にとっても気付きとなる。 例えば子供を見ていると、「こうすればもっと良くなるのになあ」と思うことがある。そうして、それを伝えようとする。その時に、「あ、良いってこういうことだったんだ」と、自分自身気付かされるのだ。「面白いってこういうことなんだ」「良くなるってこういうことなんだ」というのが、教えようとした時に初めて気付かされる。 人を教育するというのは、その人自身にとっても教育になるのだ。だから、例えば高校の部活動などには、誰かに教えることをカリキュラムとして盛り込むと良いのではないか。例えば野球部だったら、近くの中学校や小学校に赴き、年下の子供たちに野球を指導

  • カエサルが好きだった友人Rくんのこと - ハックルベリーに会いに行く

    ぼくには高校時代にRという同級生がいた。親友というわけでもなかったが、時々話をするような間柄だった。当時は友だちとは思っていなかったけれど、今なら友人と言っても良いかも知れない。とにかく、そう親しいわけではないけれど、話せば楽しくお喋りできる、そんな間柄だった。Rはちょっと変わった人間だった。ちょっと、と言うか、かなりの天然ボケで突っ込まれキャラだった。なんと言うか落ち着きがなく、いつもちょっとオドオドとしていて、せっかちで、早とちりだった。会話をしていると、いつも相手の語尾にかぶせるような相槌の打ち方をした。あるいは、相手の話を遮って自分の話を始めることもしばしばだった。だから、会話はけっして上手かったわけではない。むしろ下手な方だった。そのため、親しく話すという人もそう多くなかった。 けれども、ぼくとは話が合った。と言うのは、ぼくは会話をしながらいつも色々考えてしまうくせがあって、ペラ

  • いつか生け贄にされてしまう人 - ハックルベリーに会いに行く

    時々生け贄にされるために生まれてきたかのような人を見る。そういう人を見るといつも思い出すのは、昔ジャイアンツにいた野村貴仁だ。野村貴仁は、ジャイアンツにいた1999年に、ヤクルトのロベルト・ペタジーニから、それをきっかけに結果的に優勝を逃すことになるあまりにも印象的なサヨナラホームランを打たれている。この時、ヤクルトの監督だった若松勉は、ペタジーニのホームランの見事さに感激して、このような言葉を残している。「あいつはホームランを打つために生まれてきた男だ!」しかしぼくは、この言葉の裏に潜む皮肉について苦笑せざるを得なかった。もしペタジーニが「ホームランを打つために生まれてきた男」であるというなら、打たれた野村はさしずめ「ホームランを打たれるために生まれてきた男」ではないか。そして実際、野村というピッチャーにはそうした悲劇的(喜劇的)な側面がいつもつきまとっていた(数年後、覚醒剤を使用したか

    tsumoyun
    tsumoyun 2008/11/02
    『「正しい議論」をしてこういう結論になったのだから』ということで、結論を受け入れていると、単に賢い連中の食い物にされるばかりだ、ということが多いです。』
  • クレタ人には生きにくいはてな村 - ハックルベリーに会いに行く

    クレタ人「クレタ人は嘘つきだ」村民「いいえ、自分で自分を嘘つきだと認められる人は当は正直な人です。嘘つきではありません」クレタ人「……」 クレタ人「クレタ人は嘘つきだ」村民「じゃあおまえの言うことは嘘なのだな? 認めるのだな?」クレタ人「……」 クレタ人「クレタ人は嘘つきだ」村民「おおい、みんな! こいつは嘘つきだから信用ならねえぞ!」クレタ人「……」 クレタ人「クレタ人は嘘つきだ」村民「あーあ、嘘をつくにしてももう少しうまくつけばfromdusktildawnになれたのに」クレタ人「……」 クレタ人「クレタ人は嘘つきだ」村民「そうやって論点をぼかしているのですね、わかります」クレタ「……」 クレタ人「クレタ人は嘘つきだ」村民「それが気かネタか分からないけれど、気だったら痛いし、ネタだとしても面白くない」クレタ人「……」 クレタ人「クレタ人は嘘つきだ」村民「そんなのはクレタ人の世界で

    tsumoyun
    tsumoyun 2008/10/19
    はてな村の反応
  • 「それとはなしに表現」されたマンガの一コマたち - ハックルベリーに会いに行く

    いまスタニスラフスキーの評伝である「スタニスラフスキー入門(ジーン・ベネディティ著・松永実子訳)」を読んでいるのだけれど、これが面白い。芸術についての興味深い言葉がいくつも出てくる。その中に、こういう言葉があった。もし演劇がゴーゴリのいう「観客を教育するという義務を果たす説教壇」なら,俳優は直接的に説教をしてはならない。観客に考える内容を伝えるのは俳優の機能ではない。戯曲のメッセージは,それとはなしに表現されなければならない。(p.28-29) また、演劇の自然な表現を指す「ナチュラリズム」を、こんなふうに批判している。ナチュラリズムは観客の主要な楽しみと大切な満足感を騙し取る。つまり,俳優と演出家とデザイナーがその技術で暗示したものを、俳優とともに観客が想像力で完璧なものにする楽しみを奪いとるのだ。(p.27)これは演劇について述べられた言葉なのだが、それだけに当てはまるものではない。

    tsumoyun
    tsumoyun 2008/10/10
    脳内補完に勝るものはない。あらゆるものをそぎ落とした先に、モチーフが残る。