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ブックマーク / ish.chu.jp (17)

  • 『遊牧民から見た世界史』杉山正明 モンゴル帝国と資本主義

    『遊牧民から見た世界史―民族も国境もこえて』 杉山正明 『砂の文明・石の文明・泥の文明』にも引用のある、モンゴル史の専門家杉山正明氏による名著。「定住民中心の世界史」からのパラダイムシフトを図る、という野心作です。 ただし、その「定住民中心の世界史」の最低限の知識がなければ、ズラし具合というのも愉しめません。また、ほとんどの読者にとって、中央アジアの地理自体が模糊としているはずです。それこそ「定住民中心」「西欧中心」の世界観の賜物なわけです。もうひとつ、書でも指摘されていることですが、「中央アジア」という世界は、長い間「ソ連」という枠組みの周縁として、正確な分節化を拒まれてもいました。どっぷりと洗脳につかり、かつ中国史の苦手なわたしとしては、前半は地図ページと行ったり来たりしながら、四苦八苦して進んでいました。 素人目にも間違いなくエキサイティングなのは、著者の専門でもあるモンゴル帝国に

    udy
    udy 2007/08/12
  • 『聖典「クルアーン」の思想』大川玲子

    『聖典「クルアーン」の思想――イスラームの世界観』 大川玲子 良書です。 なぜ今まで手にとっていなかったのか、不思議なくらいです。 第一章はクルアーン(コーラン)およびイスラームの概説、第二章はキリスト教・ユダヤ教の聖書とクルアーンの関係。第三章では、クルアーンのアーキタイプとして天にあると想定される「天の書」が論じられます。そして第四章が、日人とクルアーンの関係に充てられています。 特に第四章は、戦前亜細亜主義におけるイスラーム理解が論じられているほか、各種日語訳の比較・紹介等があり、大変興味深く読めました。これからクルアーンを学びたい、とりあえず日語訳を読んでみたい、という方にとって絶好のコンシェルジュとなっています。 「天の書」の想定には大きく二つの機能があり、一つは「運命」、つまり「すべては既に書かれている」ということ。もう一つは、例えばモーセがいわゆる「十戒」を一度に「下ろ

  • 待つ自由、諦める自由、丸神頼之の選択

    べにぢょの日記さん:わたしのいけないところ。 デフォルトのコマンドが ”待つ” 女である。 電話はかかってくるもの、メールは受信するもの、 出会いはやってくるもの、別れもやってくるもの。 リンゴが地面に落ちるのと同じくらい当たり前のことだと思っている。 以前これを知り合いに真顔で相談したら、 「ハイハイ自分がモテるって言いたいんでしょ」 と言われてものすごくびっくりした。 「待つ」ことが苦手なワタクシとしては、この記述を見た最初の反応は「待てるんだ、すごいなぁ」という素朴極まりないものだったのですが、よく考えてみると「待つ」のパワーは、そんな生易しいものではありません。 犬のしつけでも、最初に教えるのは「待て」です。これができないと次に進めません。すべては「待て」から始まるのです。 「待つ」ことは能動的にアクションを起こすことではありません。至って受動的です。 しかし「待つ」は単に「何もし

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    udy 2007/08/03
    「ゴドーを待ちながら」を思い出した。
  • 空気が読めない者、その罪状と判決 : ish☆サイボーグだから電気羊の夢は見ません

    今まで何度か「ブログを非-mixi的・非-お付き合いの道具的に使うこと」について書いてきました(※1)。コメント欄の敷居の高さや、ブログ全体で用意しておく殺気や「壁」についてです。 ところが、中には「壁」そのものが見えない人がいます。いわゆる「空気が読めない人」です。 防壁を突破してくる人というのは二極分化していて、片方は侠気と知性に溢れた好人物、そしてもう一方が防壁を認識する能力すらない「空気が読めない人」です。真ん中のメインストリームはバッサリ切り捨て、という問題は脇に避けておくとして(笑)、この「壁が見えない人」の威力は凄まじいです。 「壁が見えない人」も大別すると二種類いて、一つは古典的なパラノイア。 昔からリアルでも壊れている人になつかれる傾向が強いのですが、このブログのテクストが彼・彼女の宇宙に突然ヒットしてしまったらしく、「それは冥王界で言うところの下位の神ですね!」的な熱烈

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    udy 2007/07/23
    カッコいいなあ>空気の読めない者よ、汝は無罪だ。よって、死刑に処す。それから後ろにいる「空気の読める」ヤツら、お前らは有罪だ!!
  • 「わたしのことどう思う?」という問いは何を隠すのか

    「わたしのことどう思う?」。 この問いを受けた男性諸氏はさぞかし煩わしいことでしょうが、もちろん、男女を問わずこの問いは発せられます。つまり、「他人にとってわたしは何なのか」系の質問です。 こうした質問が大変魅力的なのは、心理テストに夢中になる人々からもわかります。また「外国人から見た日」といった語らいが衆目を惹くのも、同じ魅惑によるものです。 「わたしのことどう思う?」の問い-答えの反復は、大変楽しいです。特に「外国人から見た日」系には、わたしもかなり惹かれます。 しかし、この問いは決して<わたし>のことを明らかにしませんし、それゆえにこそ独特の快楽をもたらします。そしてこの気持ち良さは、「寛容さと共存の何が問題なのか」で触れた「寛容」の気持ち良さと欺瞞につながっています。 「わたしのことどう思う?」の気持ちよさは、ナルシシズムに由来します。 ただし、ここで言うナルシシズムとは、問い

  • ブートキャンプのちょっと格闘技な使い方

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    udy 2007/07/13
    足は親指、手は小指
  • 革命家は制止を振り切ってゴミを拾え

    しあわせのかたちさんに個人主義者は「公園のゴミ」を拾えるか?というエントリがあります。「公園に落ちているゴミを拾うか否か」を素材に、「個人主義」の立場とそこで見落とされている視点を整理したものです。 「公園をキレイにしたい人もいれば汚くても構わないという人もいる。キレイにしたい人が多数派なら、議会等で決めて清掃員を雇えばよい」という「個人主義者」の論理には「人が社会を作る以前に社会が人を作るという視点」、つまり広義の教育的見方が欠落している、という論旨です。 「見落とされている」視点にツッコむ、というテクストですが、そこでさらに見落とされている重要なポイントをツッコませて頂きます。 といっても、別段反論でもなければ、個人主義を巡る議論を発展させるものでもありません。 テクストの題とは全然関係ない、細部への混ぜっ返し、「ゴミを拾う」こと自体の意味についてです。 このテクストでは、「ゴミを拾

  • 「めちゃモテ」と世界最強

    内田樹さんの「めちゃモテ日」というエントリが、ちょっと前に注目を浴びていました。 弱者が生き残る道はあまり多くない。論理的に導かれる回答は二つしかない。 一、「強い個人の庇護下にはいる」。 いわゆる「玉の輿狙い」戦略だが、「乗ったつもりの玉の輿」の意外な信頼性の低さに人々は気づき始めている。JJが退けられ、CanCamが選ばれたのは、「玉の輿」戦略のリスクの高さがしだいに知られてきたからであろう。 二、「周囲のみんなからちょっとずつ愛される」 結果的に選ばれたのが、このCanCam的「めちゃモテ」戦略である。みんなに愛される、ラブリーな女の子になること。若い人々はさしあたりもっとも有利なオプションとしてこの方向を採択した。 なるほど、合理的です。 大変納得できました。だからわたしは友達がいないんですね。友達いなくて当に良かったです。 この議論でストンと抜け落ちているように見えるのは、「

  • 外山陣営はすべてがトロすぎる

    昨日になって、外山恒一さん拘留に対する「外山陣営」の公式見解がようやく発表されました。 遅い! あまりにも遅すぎる! 牛歩戦術ですかっ! 何度も書いていますが、わたしは外山さんおよびその界隈の一部の人に一定のシンパシーを抱いていますが、思想的にすれ違う部分も多く、何より高円寺やそのカルチャーが嫌いです。それでもコミットしようとするのは、一つは外山さんがファシストを名乗っていること、もう一つは「高円寺的なるもの」が紛れもなくわたし自身の中にあり、愛憎入り混じった複合観念を抱いているからでしょう。まるで接点がないなら、わざわざ中野の次の駅を敢えて罵ることもないはずです(実際、普通の人はしない)。 そんなわけで、どこか放っておけない東京の外山陣営(九州の人のことは知らない)なのですが、今回の反応のトロさ、そして「声明」の内容にはほとほと呆れました。 考えてみてください。今回の件で一番得しているの

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    udy 2007/06/19
    勢いのあるいい文章だなーw
  • スラヴォイ・ジジェク『人権と国家』、寛容と自由

    『人権と国家―世界の質をめぐる考祭』 スラヴォイ・ジジェク 岡崎玲子 ジジェクの試論二篇とロング・インタビュー。二目の試論「人権の概念とその変遷」は必読。短いからサクサク読めます(笑)。 インタビューについては色々批判もあるようですし、実際、日語がヘン、ジジェクの言葉を受け止められていない箇所が多々見られる、などの難はあるのですが、岡崎氏の若さと根性、兎にも角にもジジェクのを新書で出した、という功績を考えればお釣りが来るでしょう。 注目すべき点は多すぎるのですが、まずは「寛容さと共存の何が問題なのか」で話題にしたばかりの「寛容」と自由について。 例えば、「共同体により思想や宗教が強制されることは暴力であるが、信仰自体は自由である」といった論があります。わたしたちが暮らしている世界は、建前としてはこうした西洋的多元主義を是とするもので、少なくとも「思想・信条に対する寛容さ」を示すこと

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    udy 2007/06/04
    究極的には自由なんて存在しない件について
  • ファンタジーとファシズム

    応用編の第一点として、ファンタジー・物語とファシズムについて考えます。基編(独断)よりはほんのちょっとだけファシズムっぽくなります。 前フリがやたら長いので、面倒な方はここらへんから始めて、気になったら前半に目を通してみてやってください。 『ムッソリーニ―一イタリア人の物語』 のエントリでも書きましたが、ファシズムと物語は大きく関係しています。「二大要点」から一歩前進して、月並みに「イズムとしてのファシズム」を考えるなら、その属性の筆頭にこれを挙げる必要があります。 物語性が核となる思想はファシズムだけではありませんが、ファシズムは物語を示すこと自体、キャッチーなファンタジーに人を巻き込むこと自体が大きな役割です。何せ「イズム」なき「イズム」ですから、語られる内容より、「語りとして成り立っていること」「語りが面白いこと」の相対的比重が高いのです。 物語とは、始まりと終わりのあるものです。

  • 『ムッソリーニ―一イタリア人の物語』 ロマノ・ヴルピッタ

    『ムッソリーニ―一イタリア人の物語』 ロマノ・ヴルピッタ 外山恒一さん(※1)もファシズムは誤解されているで書かれていますが、「ファシズム」という語のイメージは第二次大戦戦勝国による誘導で大きく歪められています。ほとんどの場合、「ファシズム」と言えば単に「悪い」ということで、多くの人が蔑称としてしか用いません。 かなりの期間、連合国側がファシストに対し融和的な政策を取ってきたこと、ファシズムが大衆的支持を得ていたこと、多くの非道と共にいくつかの素晴らしい政治目標を達成していること、これらは高校の教科書でも取り上げられることです。単に頭のおかしい独裁者が好き放題やっただけなら、ムッソリーニが二十年にもわたり政権を維持できたわけがありません。 とはいえ、具体的なムッソリーニの思想や政策となると、恥ずかしながらまるで無知です。。 知悉し尽さなければ批判も許されない、とは思いませんが、ある程度の基

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    udy 2007/04/27
    ”ファシズム・ストーリーが面白いのは、正にそれが「物語」だからです。「物語」を人びとが求めた時、ファッショ的なるものはどんな国民をも熱狂させることでしょう”
  • あなたは誰かの運命の人

    少し前に「あなたは誰かの運命の人」という広告コピーを電車の中で見かけました。 こんな広告です。 って、思い切り広告バナーですが、商売しようというわけではありません。実際にこういう写真の結婚関連の広告だったのです。もちろん、ここから結婚相談を申し込んで頂ければわたしは大変嬉しいですが。 正確には、画面手前に女性が向き合っていると思われる男性の肩が写り込んだ、映画の構図で言うところの「肩ナメ」ショットでした。 よくある広告かもしれませんが、この「あなたは誰かの運命の人」というコピーと写真が気になっています。 まず、「誰かの運命の人」。 上手いです。 「あなたの運命の人と出会えます」ではなく「あなたは誰かの運命の人なのです」と態を入れ替えることで、運命というものの性質を見事に表現しています。 「あなたは誰かの運命の人」というのは、「あなたは<既に>誰かの運命の人」ということです。運命とは「既に決

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    udy 2007/01/11
    面白い考察
  • 日本のムスリム社会、日本人ムスリム

    『日のムスリム社会』 桜井啓子 日のイスラーム関係研究者でも、日におけるムスリムの実態について知悉している方というのは、ほとんどいらっしゃらないのではないでしょうか。「日のムスリム社会」というポイントはかなり鋭いところに目の付けています。おそらく国のイスラーム史研究やムスリム社会研究以上に困難で、かつ評価されにくそうな仕事に心血を注がれている著者に、まず敬意を表したいです。 日のムスリムと言っても、宗派的な相違もあれば、国籍的には様々です。主たる出身国にはパキスタン、バングラデシュ、インドネシア、イランがありますが、このうちイラン出身のムスリムだけちょっと毛色が違う、というのが新鮮な発見でした。 シーア派とスンニ派という違いもありますが、そもそもイランは戦争による疲弊があったにせよ、基的には豊かな産油国です。そこからやむを得ず出稼ぎに来ていた方たちは、教育水準も高めで、帰国し

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    udy 2006/12/21
    人は誰しも自分のテリトリーの内側に異物を入れたくないとするならば、大きな物語と同一化したがる人よりも、個人主義者の方が寛容に見えるよね。「寛容なこと」と「寛容に見えること」ってなんか違うんだっけ??
  • ish☆走れ雑学女ブログ 聖書、たとえ話、パラボレー

    『『新約聖書』の「たとえ」を解く』 加藤隆 「新約聖書の『たとえ』を解く」。「聖書」で「たとえ話」と、極私的に非常にグッとくる素材。書店で見かけて迷わず手に取ってしまいました。 期待しすぎたせいか、全体の読後感としては「まぁまぁ」なのですが、非常に刺激を受けたポイントがありました。 パラボレーという概念です。 「『新約聖書』の「たとえ」を解く」では、たとえ話が「パラボレーであるたとえ話」と「それ以外」に分類されています。 パラボレーとは、時間的な流れがあり、一見したところ語られている文脈と無関係に見える「たとえ話」です。つまり物語形式のたとえ話のことで、「誰も二人の主人に仕えることはできない」等の(ストーリー性のない)隠喩はパラボレーから除外されます。 パラボレーの中にはしばしば何らかの「異常性」が含まれます。聖書の「種まきのたとえ」には、収穫が「三十倍、六十倍、百倍になる」という下りがあ

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    udy 2006/11/27
    パラボレーという概念について。面白い
  • ソフトウエア開発の「更地主義」と憲法九条 - ish☆走れ雑学女ブログ

    少し前にITproでソフトウエア開発者の危うい「更地主義」という記事がありました。 (...)「もしアプリケーションを最初から書き直せば,アプリケーションの既存問題のほとんどを解決できる。現状のコードを更新して問題を解決するよりも,一から書き直す方が労力は少なくてすむ」こういった認識は,当だろうか? (...) 何が言いたいかというと,アプリケーション開発者の多くが「最初から書き直す」ことを一番良いと信じていることを問題視しているのだ。最初からやり直せればもっとうまくできるだろうという考えが間違いであることは再三証明されてきた。間違わないでもらいたいが,ビジネスの状況や技術的な理由によって,アプリケーションを捨ててしまわなければならないこともある。しかし,その方がいいと思ったからといって,(既存の機能を書き換えるのではなく)アプリケーションを最初から書き直すのは,十中八九間違っている。

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    udy 2006/11/13
    サイレントマジョリティ的現状維持派護憲のススメ。意外にネット上では貴重と思われるのでブクマ
  • 追い抜いちゃった人たち、愛=暴力、資本

    続けざまに言及してしまって大変恐縮なのですが、先日リンクするだけしていたしあわせのかたちさんの追い抜いちゃった人たちというエントリについて、メモしておきます。 あらゆる労働は<わたし>という主体には、「見合わない」というかたちで認識される。(...) 「三次元異性との恋愛は、こちらが支払う努力に対して対価が見合わない」ということと、「いまの労働は、私の支払う(支払った)努力に対して対価が見合わない」ということは、同じである。どちらも「社会的行動は等価交換されるべきだ」という個人主義、近代主義、資主義上の奇習を、普遍的で当然の前提だと脳内に組み込まれているのだ。(...) 一般的に二次元萌えの非モテニートは、個人主義や近代主義や資主義に「追いつけない人」という理解をされている。しかし私は(内田樹と同じく)そうは思わない。彼らは個人主義、近代主義、資主義を「追い抜いてしまった人」なのだ

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    udy 2006/11/07
    これは面白い!
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