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中世と城に関するusataroのブックマーク (18)

  • 韓国に加藤清正の像を建てる…苦しむ姿を演出 (中央日報日本語版) - Yahoo!ニュース

    韓国蔚山(ウルサン)広域市中区(チュング)役所が慶長の役当時、倭軍が建てた城「鶴城(ハクソン)公園」に朝鮮を蹂躪した武将「加藤清正」の像を建てることにして問題となっている。 蔚山市中区役所が日観光客の誘致などのために鶴城公園に10億ウォン(約1億508万円)の予算を投じて慶長の役当時の姿を再現する工事を行っている。特に、鶴城公園入口に当時朝鮮軍の都元帥・権慄(クォン・ユル)、明国将軍の楊鎬とともに武将・加藤清正の銅像を建てる。1.7メートルの加藤清正像は現在、考証を経て製作中だ。 蔚山市中区鶴城洞に位置した鶴城公園は「倭城」と呼ばれている。当初は新羅の戒辺城(貿易港)だったが、1597年の慶長の役当時、倭軍が朝鮮と明国連合軍である朝明連合軍に対抗するために新しく建てた。当時の日の武将は加藤清正だった。彼は倭軍を率いてここで背水の陣をひき、朝明連合軍と激しい戦闘を行って守城に成功し、数多

    韓国に加藤清正の像を建てる…苦しむ姿を演出 (中央日報日本語版) - Yahoo!ニュース
    usataro
    usataro 2017/12/23
    蔚山城に立てられる清正像なんて全然見たくはないけど、きちんと発掘した成果に基づく博物館や史跡公園なら行ってみたい。
  • 400年以上前に廃城となった関東有数の山城の遺跡:太田金山城跡を散策する

    百名城スタンプを始めてから、自分の「城」の好みというものを強く意識するようになってきました。改めて意識していろいろな城跡を見て回るようになると、単に「百名城」と言っても、実に様々なタイプの城跡があるものだと実感します。 そんなことを思うようになってから、関東近郊で最も気になり始めた城跡が群馬県は太田市にある金山城です。ここは関東地方では有数の規模を誇る山城跡で、鎌倉時代に新田義貞がその礎を築いたたと言われていますが、戦国時代の乱世で何度もの実戦を経て、最後は北条氏の滅亡とともに廃城となって以来、実に400年以上忘れ去られ放置されていた、まさに遺跡でもあります。格的な発掘が始まったのは平成に入ってからなのです。 それにしても山城ってなんか惹かれるものがありますよね。平地に大都市を形成する中心として、巨大な縄張りと大天守を持つ戦国末期の平城も良いですが、やはり純粋に戦のための機能を追求し、城

    400年以上前に廃城となった関東有数の山城の遺跡:太田金山城跡を散策する
    usataro
    usataro 2017/11/11
    写真がいいなあ。空堀の写真は難しいのに、うまく高低差が現れるように撮れている。
  • <多賀城内館館跡>空撮で室町後期屋敷跡発見 | 河北新報オンラインニュース

    多賀城市南宮の内館館跡(うちだてたてあと)で、室町時代後期の堀に囲まれた屋敷跡が見つかった。発見の契機となったのが航空写真の分析で見つかった農地のクロップ(農作物)マーク。埋没している遺構の影響で農作物の成育に違いが出ており、その場所を調べるとマーク通りに堀の跡が見つかった。市教委は4日午後1時半から現地説明会を開く。  クロップマークは、JR東北線陸前山王駅から北西約1.5キロの水田で確認された。航空写真では、幅2~3メートルの二重の堀に囲まれた隣接する2区画の形がうっすらと浮き上がって見えた。  堀の内側にあった井戸跡などからは、漆器のわん、すり鉢型の土器、木製のげた、ひしゃくなどの生活用品が出土。柱を立てた穴も数カ所確認され、有力者の屋敷跡と推定された。  多賀城市西部は、鎌倉時代の陸奥国府留守所(るすどころ)の長官の子孫で、代々この地を治めた「留守氏」の屋敷跡がある。内館館跡は、室

    <多賀城内館館跡>空撮で室町後期屋敷跡発見 | 河北新報オンラインニュース
    usataro
    usataro 2016/06/04
    こんな方法で遺構地を特定できるのかあ。興味深い。
  • デーリー東北:北奥羽ニュース:野田・新館遺跡から建物や堀の跡見つかる(2012/12/06 16:01)

  • 一乗谷朝倉氏遺跡の全体像解明へ 県、基本計画を40年ぶり改定  社会 福井のニュース :福井新聞

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    usataro 2012/04/18
    「遅れている山地部に加え、初めて特別史跡指定地周辺部や県内の関連遺跡にまで調査範囲を拡大。全国で唯一残る戦国城下町跡である一乗谷の全体像を明らかに」
  • この春行きたい!東京の滅亡城跡めぐり

    待ちに待った春が到来! この4月から、大きな希望で胸をいっぱいに膨らませ、あこがれの東京で新生活を始める人も多いことだろう。 そんな皆さんに贈りたい。かつてこの地で覇を競い、繁栄を願いながら志半ばに散って行った多くの人々の夢の跡を。

    usataro
    usataro 2012/03/29
    城跡めぐりの記録は、微妙な起伏などの痕跡を写真に収めるのが難しいんだけれど、さすがにうまいこと表現してるなあ。/南関東だと『関東の名城を歩く』がオススメhttp://bit.ly/o2C7Ex
  • 志布志城跡に朝鮮古銭 / 西日本新聞

    志布志城跡に朝鮮古銭 2011年11月18日 00:43 カテゴリー:九州 > 鹿児島 志布志城跡から出土した「朝鮮通宝」。4文字が上、下、右、左の順番に並んでいる 鹿児島県志布志市志布志町帖(ちょう)の国指定史跡「志布志城跡」で、15世紀の朝鮮半島を支配した李王朝の銅銭「朝鮮通宝」1枚が出土した。過去に琉球王国の銅銭も出土しており、市教委は「アジアに開かれた港町として発展した志布志の歴史を反映する史料」と評価している。 志布志城跡は、志布志湾に注ぐ前川の河口付近にあり、シラス台地の高低差を生かして空堀を巡らせるなどした四つの山城で構成している。14世紀には既に城があったとされ、戦国時代には肝付氏や島津氏が支配した。 朝鮮通宝は李氏朝鮮時代に鋳造され、直径2・4センチ、厚さ1・5ミリ、重さ4グラム。市教委は2006年から4城の中心の「内城(うちじょう)」を発掘し、今年10月17日、敷地

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    usataro 2011/11/21
    「「志布志城跡」で」「朝鮮通宝」1枚が出土」「2006年から」「「内城」を発掘」「敷地北側で朝鮮通宝を見つけた。現場は盛り土された平地」
  • 北陸初、清水町に中世の木造五重塔跡 【2001年10月26日】 10年前のきょう 福井のニュース :福井新聞

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    usataro 2011/11/19
    「清水町」「片山」「真言宗寺院・片山真光寺跡から五重塔跡」「建立時期は鎌倉時代」「南北朝から室町時代に焼失」「同寺は朝倉家家臣、富田長繁の重臣で増井甚内助が守っていた」
  • 国史跡新たに2件 : 大阪 : 地域 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

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    usataro 2011/11/19
    「国史跡に」「烏帽子形城跡」(河内長野市喜多町)」「鳥坂寺跡(柏原市高井田)」「烏帽子形城は」「畠山氏が治め」「応仁の乱前後から激しい戦い」「1584年には豊臣秀吉も」
  • 里見氏の城跡、国史跡指定へ、稲村城跡と岡本城跡+(2/2ページ) - MSN産経ニュース

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    usataro 2011/11/19
    「房総半島南部の中世山城、稲村城跡(千葉県館山市稲)と岡本城跡(同県南房総市富浦町)が18日、国の文化審議会の答申を経て、新たな国史跡に指定されることが決定」
  • 唐津城跡:城内から最古の石垣 謎解明へ、築城以前の状態示す遺構 /佐賀 - 毎日jp(毎日新聞)

    ◇豊臣政権の朝鮮出兵への考察にも 唐津市教委は25日、唐津城跡の文化財調査で、中段広場の天守台下から、築城以前のものとみられる石垣が見つかったと発表した。築城以前の状態を示す遺構が発見されたのは初めて。近くでは、文禄・慶長の役(1592~1598年)のため名護屋城に布陣した豊臣秀吉が家臣らにしか使用を許さなかった金箔(きんぱく)瓦の破片4点が出土しており、市教委は櫓(やぐら)や御殿など、秀吉が関係する重要建築物があった可能性があるとみている。 市教委によると、石垣は地下1・5メートルで8月下旬に見つかった。残っていたのは高さ3・5メートル、延長5・7メートルで、50センチ~1メートルの石20個を確認した。 これまでに見つかった最古の石垣は唐津城築城(1602年)時期のものだったが、今回の石垣は1591年の名護屋城築城から唐津城築城までの間に造られたとみられる。 文禄・慶長の役では、周辺

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    usataro 2011/10/26
    「本丸文化財調査」「中段広場の天守台下から、築城以前のものとみられる石垣」「近くでは」「金箔瓦の破片4点」「櫓や御殿など、秀吉が関係する重要建築物があった可能性」
  • 伊賀の中世城館跡展:土豪衆に思いはせ /三重 - 毎日jp(毎日新聞)

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    usataro 2011/10/07
    「企画展「伊賀の中世城館跡」が伊賀市の柘植歴史民俗資料館で開催」
  • 戦国時代の小田原城の遺構から弓など出土、上杉謙信や武田信玄の小田原攻めの弓か/神奈川 (カナロコ) - Yahoo!ニュース

    戦国時代の小田原城の遺構から弓など出土、上杉謙信や武田信玄の小田原攻めの弓か/神奈川 カナロコ 2月15日(火)15時0分配信 小田原市教育委員会が実施した小田原城周辺の発掘調査で、漆塗りの弓や鉛製鉄砲玉などが見つかった。16世紀、上杉謙信や武田信玄が小田原攻めに使った武具の可能性がある。劣化しやすい木製の弓が戦国時代の遺構から発見されるのは「全国初ではないか」(文化財課)という。 発見された弓は「重藤弓(しげとうゆみ)」といわれている様式で木と竹を組み合わせた弓胎弓(ひごゆみ)。従来のものより飛距離や威力があるのが特徴で、中世以降増えた。 市教委が昨年1〜3月、同市栄町で行った調査で出土した。現場は小田原城三の丸北側にあった「幸田口門」の遺構。堀のあった場所に粘土質に埋まった状態で見つかった。 弓は長さ約1メートル。上下部分は破損しているが、弓柄と思われる部分は確認できる。このほか

    usataro
    usataro 2011/02/16
    「小田原城周辺の発掘調査で、漆塗りの弓や鉛製鉄砲玉」「発見された弓は「重藤弓」」「木と竹を組み合わせた弓胎弓」「小田原城三の丸北側」「「幸田口門」の遺構」「上杉・武田の小田原来攻の「攻め口」」
  • 女性のための近江戦国山城マップ/滋賀県

    滋賀県教育委員会では、5月よりボランティアスタッフを募集し、企画・制作を行ってまいりましたが、このたび「女性のための近江戦国山城マップ」が完成しました。 大河ドラマをはじめとして近江の戦国時代に注目が集まっている昨今、このマップ作成によって、近江戦国時代の山城の魅力をより身近なものとし、全国に広く発信していきたいと考えています。 ◆マップは以下からダウンロードしていただけます。すべてA4版です。 安土城(表面)(PDF:183KB) 安土城(裏面)(PDF:190KB) 佐和山城(表面)(PDF:235KB) 佐和山城(裏面)(PDF:198KB) 小谷城(表面)(PDF:212KB) 小谷城(裏面)(PDF:228KB)

  • 『室町時代の石垣見つかる 近世城郭技術のルーツ 滋賀・米原 - MSN産経ニュース』へのコメント

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    『室町時代の石垣見つかる 近世城郭技術のルーツ 滋賀・米原 - MSN産経ニュース』へのコメント
    usataro
    usataro 2010/11/20
    城郭史的見地を強調した方が受けがいいのかもしれないけど、遺跡の正当な評価をゆがめないかちょっと心配だ。
  • 「三成に過ぎたるもの」佐和山城内堀は大型 : 文化 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    豊臣秀吉の重臣・石田三成(1560〜1600)の居城があった滋賀県彦根市の佐和山城遺跡から、内堀の東端の遺構が見つかり、県文化財保護協会が18日、発表した。 内堀は幅約22メートルと推定され、戦国時代の城としては大型といい、協会は「『三成に過ぎたるもの』と評された城の一端が明らかになった」としている。 内堀西端に築かれたと伝わる土塁の東側約550平方メートルを発掘し、確認した。 織田信長の居城・安土城(安土町)の内堀の幅は10〜30メートルで、協会は「ほぼ同規模の城構えだった」とみる。内堀東側の城下町の区域では、金属精錬時に送風する16世紀後半の「鞴(ふいご)」や、溶けた金属を取り出す容器「取(と)り瓶(べ)」を発見。一帯で職人が武器などの鉄製品を生産していたことがうかがえるという。 城下町を区画した溝(幅約2、3メートル)もあり、墓石を転用して暗渠(あんきょ)を造っていたことも判明した。

    usataro
    usataro 2010/03/20
    「佐和山城遺跡から、内堀の東端の遺構が見つかり」
  • 南北朝激戦地の居館、土塁・堀・板塀で強固に防護 : 歴史と文化財 : ニュース特集 : 九州発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    上毛町教委は15日、同町安雲地区にある古墳〜江戸時代の複合遺跡「安雲山田遺跡」で、豊前国領主・宇都宮一族の南北朝時代(1336〜92年)の居館を強固に防護していたとみられる土塁や堀、板塀などの遺構が出土したと発表した。現在の豊築地域では、南朝方と北朝方が激しい勢力争いを繰り広げており、町教委は「当時の緊張状態を裏付ける貴重な発見」としている。 町教委によると、東九州自動車道建設工事に伴って6月から、遺跡の一部約2300平方メートルを発掘調査し、全長約100メートルのL字形の土塁を確認。青磁器片など一帯の出土品から南北朝時代に造られたことが分かった。このうち約40メートルを詳しく調べたところ、土塁(幅2・7メートル、高さ0・3メートル)の外側に沿って堀(幅2・5メートル、深さ1メートル)が設けられていた。 周囲の地形などから、当時の土塁は高さ1メートルほどで、居館を80〜100メートル四方に

    usataro
    usataro 2010/02/10
    「上毛町教委は」「「安雲山田遺跡」で、豊前国領主・宇都宮一族の南北朝時代の居館を強固に防護していたとみられる土塁や堀、板塀などの遺構が出土したと発表」中世後期の宇都宮の居館跡もあったよな。
  • 山鹿・隈部氏館跡、天草・棚底城跡 国史跡指定へ : 歴史と文化財 : ニュース特集 : 九州発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    国の文化審議会が15日に文部科学相に答申した国指定史跡に、県内からは、山鹿市菊鹿町の「隈部氏館跡」と天草市倉岳町の「棚底城跡」が選ばれた。県内の史跡選定は36件となり、館跡は初めてという。 隈部氏館跡は、1587年に起きた「肥後の国衆一揆」の主導者、隈部氏の居城。少なくとも16世紀前半には築城されていたとされる。旧菊鹿町教委の発掘調査(1974〜76年)で館の礎石や庭園遺構が出土。地元住民が管理し、同町も一部を公園化するなど、官民あげて国の指定を得られるよう運動していた。 城の歴史が記された書物が複数現存しており、城歴が分かる全国でも数少ない中世の城跡である点が評価されたという。中嶋憲正・山鹿市長は「豊臣政権に対する反骨精神、地域を守る精神を受け継いでいきたい。地域振興のエネルギーにしていく」と話した。 棚底城跡は戦国時代の山城で、岩盤を掘り込んで築かれていたのが特徴。尾根沿いに約340メ

    usataro
    usataro 2010/02/10
    「隈部氏館跡は」「少なくとも16世紀前半には築城」「館の礎石や庭園遺構が出土」「城の歴史が記された書物が複数現存」「棚底城跡は戦国時代の山城で、岩盤を掘り込んで築かれていた」「約2000点の陶磁器」
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