シロアリ被害、腐食進む 門司港駅全面修復へ 築100年 倒壊危機 2010年3月6日 06:24 カテゴリー:文化 九州 > 福岡 大規模修復が検討されているJR門司港駅の駅舎。正面の2階部分の床が一時、傾いた=5日、北九州市門司区 北九州市の門司港レトロ地区にあり、鉄道駅舎として初めて国重要文化財に指定されたJR門司港駅(木造2階建て)が築造から約1世紀たち、シロアリ被害や老朽化で倒壊の危機にあることが5日分かった。国、福岡県、市とJR九州は「このままでは駅舎として使用できなくなる」とみて、協力して2011年度にも大規模修復に入る方向で検討している。 駅は1914年に建てられ、42年の関門トンネル(鉄道)開通まで、船で本州から九州に渡ってきた人や貨物の玄関口だった。ネオルネサンス様式の建築で、外観は「門」をイメージしたデザイン。文化庁は「木造駅舎の中でも規模が大きく、九州の起点駅として
勝山市などが保存に向けて協議を進めていた、国内最古級の電気機関車「テキ6形6号」(えちぜん鉄道保有)が、同市遅羽町比島のえちぜん鉄道勝山駅で保存、展示されることが決まった。同市が県と進めている同駅周辺の整備事業の一環で、大正時代に建てられた駅舎も改修して残すことに。市は「多くの鉄道ファンにも足を運んでもらえるきっかけになれば」としている。 この電気機関車は1920年製で、「テキ6」の愛称で呼ばれる。昨年、同市内で開かれた催しで展示するために同駅に運ばれた後、2番線で保管されたままになっていた。 同市都市政策課によると、市は同鉄道からテキ6を譲り受け、同駅に隣接する形で建設する展示施設で保存。テキ6は現在も動くことから、施設には線路を敷設して、約10メートルの区間を運転できるようにする。 また、14年に建てられた木造平屋の駅舎(約350平方メートル)は、耐震補強を施し、吹き抜けにするなどの改
でっぷりと貫禄(かんろく)ある体形で、大入道のような頭に豊かなヒゲをたくわえた戦国武将、武田信玄の肖像画…。長く教科書に載り、多くの銅像などのモデルとなった絵が「別人ではないか」との疑問が近年、研究者から相次いでいる。別人説をとる研究者は、従来のイメージとは違う肖像画を「本物の信玄像」と主張。地元・山梨も巻き込んだ真贋(しんがん)論争が起きている。 信玄の肖像画は多いが、ほとんどは江戸期以降に想像で描かれたものだ。希少な生前の肖像とされながら、別人との疑いが出ているのは、武田家ゆかりの寺、高野山成慶院(和歌山県)が所蔵する長谷川信春(等伯)筆の「武田信玄像」(重文)だ。 中世絵画に詳しく、『武田信玄像の謎』などの著書で別人説を主張する藤本正行・国学院大講師(61)によると、成慶院所蔵の肖像は(1)39歳で出家した信玄の晩年の姿とされるのに髷(まげ)がある(2)太刀と腰刀に描かれている家紋が
滋賀県高島市の天神畑遺跡から出土した薄い木板の写経(室町時代後期)に、「見せ消ち」と呼ばれる誤字訂正の跡が見つかり、県文化財保護協会が19日、発表した。 見せ消ちは写経で文字を訂正する際、誤字を消さず、そばに符号などを記す手法で、飛鳥時代に定着したとされる。木板は法華経などを写しており、「他」の文字を書くところに「佛(仏)」と間違えて書いたため、左側に誤りを示す片仮名の「ヒ」に似た印を入れ、右側に「他」と訂正していた。 21日午前9時〜午後5時、滋賀県安土町の県立安土城考古博物館で公開。 宇都宮啓吾・大阪大谷大教授(書誌学)の話「誤字を削れないほど板が薄いため、見せ消ちで訂正したのだろう。僧侶が慎重に写経し、丁寧に訂正している姿がうかがえる」
三重県無形民俗文化財に指定されている多度大社(桑名市)などの「上げ馬神事」が、動物虐待との声を受け揺れている。県教委は「伝統だとは思うが、現代風に改める必要があるのでは」と指摘。15日に開かれる県文化財保護審議会にこれまでの経緯などを報告した上で、9月に指定の当否を判断することになった。 上げ馬神事は、地元7地区の青年会などでつくる「御厨(みくりや)」と呼ばれる組織により大社に奉納され、高さ約2メートルの土壁を駆け上がった馬の数で豊作凶作を占う。馬を興奮させるため竹やはんてんでたたいたり、ササの葉で急所を刺激することもあるという。 1996年以降、複数の動物愛護団体が「動物虐待に当たる」と主張し、指定取り消しを要望。県は、御厨との協議や馬の習性を学ぶシンポジウムを通じ、「不適切な扱い」の改善を求めてきた。しかし県によると、昨年もたたくなどの例があったという。 県内の動物愛護団体代表の
佐和山城大手門跡から佐和山を望む。関ケ原の合戦後、城は徹底的に破壊されたという=滋賀県彦根市、日比野写す彦根城=滋賀県彦根市、日比野写す 「三成に過ぎたるもの」とたたえられた佐和山城(滋賀県彦根市)は、関ケ原の合戦で石田三成が敗れた後、徳川方に壊され、石垣は後に築城された彦根城に転用されたと言われてきた。しかし昨年度、専門家が彦根城の石垣を調べたところ、佐和山の石はほとんど使われていないことがわかった。彦根市教委が近く報告書をまとめ、公表する。 佐和山城は東国と京を結ぶ要衝にある山城で、豊臣秀吉が三成に与えた。関ケ原の合戦の2日後、城は徳川方に包囲され落城。後に「城割り」と呼ばれる徹底的な破壊が行われたとされる。 合戦の4年後、佐和山から約2キロ西で彦根城の築城が始まる。徳川家康が大坂城に残る豊臣秀頼ににらみを利かせようと諸大名に突貫工事で造らせた「天下普請の城」で、天守は大津城、櫓
県立対馬歴史民俗資料館(対馬市厳原町、阿比留徳生館長)が所蔵している銅製の印章2個が、朝鮮国王から対馬藩主に発給され、対馬藩と朝鮮国との外交文書などに押された「図書(としょ)」であることが分かった。 図書は江戸時代、朝鮮国王が、朝鮮との外交や貿易を担っていた対馬藩に出したもの。同藩は朝鮮国との外交文書や渡航証明書に用い、藩主が死亡したら返還し、新しい藩主に発給されるというしきたりだったとされる。 印面は、2個とも1辺が6・7センチの正方形で、高さは約7・8センチ。取っ手が付いたピラミッド形。13代藩主・宗義章(よしあや)(在位1839〜42年)と14代藩主・宗義和(よしより)(同42〜62年)の名前が彫られている。 この印章は、同資料館収蔵庫で保管されていたが、詳しい調査は行われていなかった。県教委が今年度から3年計画で藩政史料「宗家文書」のうち、未整理だった絵図類や器具類を調べており、慶
経済産業省の「近代化産業遺産群」の認定を受けている旧豊後森機関区の扇型機関庫(玖珠町森)の保存に向け、地元住民らが15日、現地で老朽化の状況を確かめた。10月をめどに調査報告書を作成し、所有者の玖珠町に保存を要望する。 調査したのは、地元住民らでつくる豊後森機関庫保存委員会(河野博文会長)や県玖珠土木事務所、県建築士会玖珠支部など。 機関庫は現在のJR久大線が全線開通した1934年に造られた。幅100メートル、高さ8メートル、奥行き22メートル。久大線のほぼ中間点に位置し、機関車12両を収納できた。燃料や水を補給する拠点だったが、列車のディーゼル化に伴い70年に閉鎖された。 町が2005年、JR九州から土地とともに購入。活用方法を検討中だが、外壁や柱の劣化が進んでいる。 この日は約50人が参加し、柱のコンクリートのひび割れなどを目視で確認したり、クレーン車に乗って外壁や屋根を金属製の棒でた
上毛町教委は15日、同町安雲地区にある古墳〜江戸時代の複合遺跡「安雲山田遺跡」で、豊前国領主・宇都宮一族の南北朝時代(1336〜92年)の居館を強固に防護していたとみられる土塁や堀、板塀などの遺構が出土したと発表した。現在の豊築地域では、南朝方と北朝方が激しい勢力争いを繰り広げており、町教委は「当時の緊張状態を裏付ける貴重な発見」としている。 町教委によると、東九州自動車道建設工事に伴って6月から、遺跡の一部約2300平方メートルを発掘調査し、全長約100メートルのL字形の土塁を確認。青磁器片など一帯の出土品から南北朝時代に造られたことが分かった。このうち約40メートルを詳しく調べたところ、土塁(幅2・7メートル、高さ0・3メートル)の外側に沿って堀(幅2・5メートル、深さ1メートル)が設けられていた。 周囲の地形などから、当時の土塁は高さ1メートルほどで、居館を80〜100メートル四方に
国の文化審議会が15日に文部科学相に答申した国指定史跡に、県内からは、山鹿市菊鹿町の「隈部氏館跡」と天草市倉岳町の「棚底城跡」が選ばれた。県内の史跡選定は36件となり、館跡は初めてという。 隈部氏館跡は、1587年に起きた「肥後の国衆一揆」の主導者、隈部氏の居城。少なくとも16世紀前半には築城されていたとされる。旧菊鹿町教委の発掘調査(1974〜76年)で館の礎石や庭園遺構が出土。地元住民が管理し、同町も一部を公園化するなど、官民あげて国の指定を得られるよう運動していた。 城の歴史が記された書物が複数現存しており、城歴が分かる全国でも数少ない中世の城跡である点が評価されたという。中嶋憲正・山鹿市長は「豊臣政権に対する反骨精神、地域を守る精神を受け継いでいきたい。地域振興のエネルギーにしていく」と話した。 棚底城跡は戦国時代の山城で、岩盤を掘り込んで築かれていたのが特徴。尾根沿いに約340メ
内堀に面した本丸南の石垣。解体修復の結果、破線より下部が築城当初のもので、中央のくぼんだ位置の平面では櫓台跡が確認された 大分県中津市の中津城で行われている本丸石垣の修復・復元工事に伴う調査で、黒田如水(孝高(よしたか))が天正16年(1588年)に手がけた築城当初の石垣が広範囲に現存していることがわかった。史料の検討によっても、これまでなかったとされた天守の存在が判明するなど、九州最古の近世城郭の実態が次第に明らかになってきた。 現存する近世城郭の多くは関ヶ原の戦い(1600年)以降に拡張されたか新たに築かれたものだ。豊臣政権期に築城された中津城も、関ヶ原後に城主となった細川氏が大規模な改修を行っている。こうしたことから「中津城には黒田期のものは残っていないと思われていた」(高崎章子・中津市教委文化振興課主査)。 ところが2001年、埋まっていた本丸南の堀を掘削したところ、高さが最高で7
築後約300年以上とされる関市板取の国登録文化財「長屋清左衛門住宅」=写真=が倒壊の危険性の高いことが、市教育委員会の調査でわかった。専門家からは重要文化財に匹敵する貴重な建物と指摘されており、所有者は保存のため、無償提供を提案しているが、市教委は修理費が1億円を超えると見込まれることから、市文化財の指定に難色を示している。 長屋家は、豊臣秀吉の命を受けて飛騨地方を統一した戦国武将・金森長近(1524〜1608年)一族の子孫。高山藩2代目藩主となる可重(ありしげ)の父・長屋景重の姉妹が祖先で、代々庄屋を務めていた。 住宅は、江戸初期の寛文4年(1664年)に完成したと伝えられる。このうち木造平屋建ての主屋(約280平方メートル)は、武家にしか許されなかった「広間六間取り」が採用されるなど、江戸中期以前にしか見られない伝統的な構造という。市教委と市文化財審議委員が一昨年10月に行った調査でも
松阪市殿町にある国重要文化財「御城番屋敷」西棟の修復保存工事が完了した。同屋敷は、紀州藩が幕末期に建て、所有・管理する同藩士の子孫でつくる合資会社「苗秀(びょうしゅう)社」が、一昨年7月から約1億3520万円を投じて工事していた。 御城番屋敷は、紀州藩が1863年(文久3年)、松阪城を警護する藩士のために建てた木造平屋建ての住居。約5メートルの石畳の通路を挟んで東西に各1棟あり、現在も子孫ら17世帯が暮らしているが、2004年12月に国重文に指定された。東西棟とも主屋と土蔵、前庭などからなり、建物は長さ約90メートルの東棟に10戸、約84メートルの西棟に9戸が連なる。 しかし、築後140年余で、梁や柱はシロアリによる被害などが進み、瓦屋根もひずんで波打つなどしたため、06年5月、市文化財保護審議会の委員や苗秀社のメンバー、文化庁、県文化財保護室、市教委の職員ら12人からなる修理保存活用計画
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