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ブックマーク / www.shinkyo.com (9)

  • 新交響楽団ホームページ: 伊福部 昭:シンフォニア・タプカーラ

    今から36年前、新響が日の「改訂版」を初演したプログラム冊子に、当時65歳であった作曲家自身が次のような言葉を寄せている。 作者は、アイヌ語でシャアンルルーと呼ぶ高原の一寒村に少年期を過しました。そこには、未だ多くのアイヌの人達が住んでいて、古い行事や古謡が傳〔伝〕承されていました。 タプカーラとは、彼等の言葉で『立って踊る』と云うような意をもち、興がのると、喜びは勿論、悲しい時でも、その心情の赴くまま、即興の詩を歌い延々と踊るのでした。 それは、今なお、感動を押え得ぬ思い出なのです。 その彼等への共感と、ノスタルヂアがこの作品の動機となっています。(以下略) この一文はその後に頒布されたCDの解説や書籍など各所に引用されているので、どこかで目にした方が多いかもしれないが、作者が少年期を過ごした「シャアンルルー」という地名らしきものが何を意味するか気になっていた。ネットを探せば「十勝平野

  • シンフォニア・タプカーラ曲目解説

    第145回演奏会(94年10月)プログラムより 伊福部 昭:シンフォニア・タプカーラ(1979年改訂版) 上原 誠(打楽器) “シンフォニア・タプカーラ”あるいは“タプカーラ交響曲”は伊福部昭の作曲活動の集大成である、と私は考えている。その理由として、まずこの曲が三浦洋史(現・評論家)に捧げられていることに注目したい。1926年、札幌二中に入学した伊福部が出会った同級生・三浦は、その頃既に抜きん出た音楽通だった。サティー、ドビュッシーといった当時の日では名前すら知られていなかった音楽を次々に紹介し、西洋青楽に目覚めたばかりの伊福部に“超”カルチャー・ショックを与えただけではなく、「音楽をやる以上は作曲以外は無意味」と説いた。伊福部が後に語っている「私を作曲という地獄界に陥れたメフィストフェレス」、すなわち作曲家・伊福部昭にとってかけがえのない人に宛ててこの曲は捧げられている。 [伊福部に

    ushiwatat
    ushiwatat 2017/07/18
    |この曲はタプカーラという民族性を通して大地礼讃という共通の人間性を高らかに歌いあげたもの、すなわち伊福部の信念そのものの表れである|
  • 新交響楽団ホームページ: リムスキー=コルサコフ:スペイン奇想曲

    この曲、曲目解説などという面倒なものを読む必要のない底抜けに楽しくわかりやすい曲です。何の予備知識もなしで楽しめますので難しいことを考えずに楽しんでください。難しい顔して粗探ししながら聴いてはダメですよ(笑)。解説終わり というわけにもいかないので、“ロシア五人組”やリムスキー=コルサコフ、そしてスペイン奇想曲について簡単にご紹介します。 1.“ロシア五人組”のこと 日はいわゆる“ロシア五人組”の中で名曲を残した三人の作曲家の代表的なオーケストラ曲を揃えました。皆様は残りの二人の名前を思い出せますか?“研究家やロシア音楽愛好家以外にはあまりなじみのない二人”ですが、せっかくですからその二人のことにも触れてみます。 ロシア的な西欧音楽を書いて最初に成功した作曲家はグリンカ(1804-1857)だと言われています。その業績を発展させてロシアならではの音楽を創造し普及させようとしたのがロシア

  • 曲目解説 黛 敏郎 涅槃交響曲

    曲目解説 黛 敏郎 涅槃交響曲 松下俊行(フルート) 涅槃交響曲=「音」と「声」との間(はざま)= 「余韻(よいん)縹渺(ひょうびょう)」という言葉がある。 ある強さで鳴った音が次第に減衰しつつも、波紋を繰り広げながらいつまでも幽(かす)かに残っているさまを言う。例えば除夜の鐘を思い起こしても良い。この音の減衰と波紋とに我々が感じる何か・・・それは既に単なる物理的な振動ではあり得ない。我々をしてその心理に赴かせる根源への関心と究明にこそ『涅槃交響曲』(*1)の出発点がある。 この作品は、釈迦の涅槃への道を描くといったスペクタクルや宗教的なメッセージを含んではいない。黛敏郎がヨーロッパの音楽の閉塞感との葛藤の果てに行き着いた、東洋の音の世界との融合の創造物に他ならず、読経や梵鐘に由来する音が入っていると言っても、それはあくまで西洋の音楽の基盤と技法と文脈の中で整理され、また活用されている。所

  • 新交響楽団ホームページ: マーラー:交響曲第1番

    ■マーラーのこと グスタフ・マーラーは、1860年7月7日、ボヘミアのカリシュトという小さな村(プラハとウィーンの中間でプラハ寄り。現チェコのカリシュチェ)で、ユダヤ人商人の家に、12人兄弟(14-15人いたらしいが幼少で死亡)の2番目として生まれた。2歳の頃にはすでに数百の民謡を覚えていたなど非凡な音楽的才能を示すとともに幼少期から音楽教育を受けた。民謡を多く聴いた環境は、日の交響曲第1番だけでなく、マーラーの全曲にわたり大きな影響を及ぼしている。 1883年ドイツのカッセル王立歌劇場指揮者となって名声を高め始めた翌年、第1番の作曲に着手、1888年に完成した直後の28歳でブダペスト王立歌劇場監督、翌年自らの指揮で初演を行う。この年には両親の死など不幸にも遭う。また、ウェーバーの孫の夫人マリオン・ウェーバーと恋仲となるが、その後人間関係、自身の健康状態にも問題を抱えていく。まさにこれか

  • 新交響楽団ホームページ: マーラー:交響曲第6番

    ■ハンマーを巡って 『悲劇的』が演奏されるとなると、そこには必ずそのオーケストラ独自のハンマーが登場する事になる。楽員そして聴衆の感嘆・呆然・失笑が渾然一体となった束の間の賞賛を浴びては忘れ去られるこの「楽器」は、言うなれば死と再生を繰返しながら、着実に巨大化の道を歩んできた。 確かに最終楽章の大音響の中でこのハンマーの効果を引き出す事は難しい。そこで音量を補強する手段としてハンマーの質量増大が図られる。これは人類の限りない欲望の肥大と同様に、不可逆的な道筋となって久しい。前回よりサイズを小さくしましょうという声は、世界中の核兵器を廃絶しましょうというに等しく、誰もその実現を信じていない。どこのオーケストラがどんなハンマーを使い、いかなる末路を辿 たどったかも耳に入る。かくしてハンマーの大型化は更に加速され、それはひとたび振り下ろされるや、人間の運命の変転よろしく奏者のコントロールを離れて

    新交響楽団ホームページ: マーラー:交響曲第6番
  • 三善 晃「交響三章」― 日本人としてのロマン主義の探求

    三善 晃「交響三章」― 日人としてのロマン主義の探求 現代日を代表する作曲家の一人である三善 晃氏。その氏の若き日の名作「交響三章」で、新交響楽団創立50周年シリーズの幕が開きます。 今回は三善 晃氏を囲んで、桐朋学園大学時代に氏の下で学ばれた今回の演奏会の指揮者・小松一彦氏を迎え、「交響三章」の生まれた背景、そしてその魅力の質について存分に語っていただきました。 ■東京大学からパリ音楽院へ 作曲家への道のり ---小松先生は、三善先生との出会いはいつ頃だったのでしょうか。 小松 三善先生と私とのお付き合いは、桐朋学園大学で教えていただいた頃から始まります。先生の作品はその後の1972年、私が桐朋を卒業してすぐに振らせて頂きました。邦楽(尺八、2箏、十七絃箏)と弦楽四重奏のためのオクテット「トルスIV」でしたね。まだ駆け出しの私が素晴らしい曲を指揮させていただいて、当に光栄でした。

    ushiwatat
    ushiwatat 2015/06/11
    |ベートーヴェンはドイツ語で書いている、例えばそれがピアノ・ソナタであれドイツ語で音楽を書いています。またドビュッシーはフランス語で書いている。同じ意味で私自身も日本語で書いています。日本語の持ってい
  • 新交響楽団ホームページ: ブラームス:交響曲第4番 〈古典的様式にみえる近代性〉

    ヨハネス・ブラームス(1833年ハンブルク生まれ、 1897年ヴィーンにて64歳で没)は、まぎれもなく19 世紀後半ドイツ・ロマン派音楽芸術における巨人で あり、その音楽は西洋音楽史上特異な位置を占めている。ブラームスと同時代に生きた指揮者ハンス・ フォン・ビューローが言いだしたドイツ「3大B」 (バッハ、ベートーヴェン、ブラームス)とよばれる概念の固定化に代表されているように、ブラームスの出現は、ドイツ音楽の系譜に繋がるベートーヴェン以降の最大の後継者という固定観念と繋がり、交響曲のジャンルにおいても、古典音楽を綿密に研 究した成果で得た技法と同時代の近代的な要素を取 り入れつつ、絶対音楽的立場から重厚で構成的な音楽の創造において、管弦楽に対する技巧の成熟と発展を示している。 ・交響曲の特性 ベートーヴェンによって前人未到の領域まで完成された交響曲というジャンルにおいて、ブラームスは、交

  • 新交響楽団ホームページ: バルトーク:管弦楽のための協奏曲

    「……バルトークその人こそ、他に例のないほどの警戒心と感受性とをもって世界の一切の動きを見張り、絶えず変化し、形づくられていく宇宙の声と、苦闘し続ける人類の声とに、自らのうちにあって形を与えていく人である」(ベンツェ・サボルチ)」 アメリカ移住 バルトークが前年の母の死を機に、ディッタ夫人とともに着の身着のままの状態で渡米したのは、1940年10月30日のことであった。 この頃、彼以外にもナチスから身を守るためにアメリカ移住した音楽家に、ヒンデミット、ストラヴィンスキー、シェーンベルク、ミヨーなどがいた。このため当時のアメリカ音楽界の活況は大変なものであった。これらの音楽家たちはいずれもそれぞれの才能にふさわしい地位を得て、安住することができた。 ところが、ことバルトークに関してはこの移住は苛酷なものであったと言わざるを得なかった。なぜなら、彼だけは一向に安定した職を得ることができなかっ

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