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哲学史に関するushiwatatのブックマーク (47)

  • 【報告】「本当のコジェーヴ」―マルコ・フィローニ「日曜日の哲学」 | Blog | University of Tokyo Center for Philosophy

    アレクサンドル・コジェーヴといえば、1933年から39年までの6年間、パリの高等研究院において、後にフランス思想を代表することになる錚々たる面々――アロン、バタイユ、クロソウスキー、ラカン、メルロ=ポンティ、イポリット、ブルトン等々――が集っていた伝説的な『精神現象学』講義(出席者のひとりでコジェーヴの友人だった作家レイモン・クノーが『ヘーゲル読解講義』として編集刊行)を行ったことで知られるロシア人哲学者である。 いわゆるフランス現代思想におけるヘーゲルはコジェーヴ経由のヘーゲルだというのはよく指摘されるところだが、それだけ戦後フランス思想にとってコジェーヴが果たした役割は計り知れないものがある。たとえばコジェーヴ経由のヘーゲル思想なしのラカン思想というのは考えがたい。しかし戦後フランス思想の出発点としていささか神話的にその名が語られる一方で、『精神現象学』講義以外のコジェーヴの活動やその

    【報告】「本当のコジェーヴ」―マルコ・フィローニ「日曜日の哲学」 | Blog | University of Tokyo Center for Philosophy
  • http://www.ggccaatt.net/2013/03/19/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%AB-%E3%83%87%E3%83%A5%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3-%E5%BD%BC%E5%A5%B3%E3%81%AE%E7%8B%AC%E8%BA%AB%E8%80%85%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AB%E3%82%88%E3%81%A3%E3%81%A6%E8%A3%B8%E3%81%AB%E3%81%95

    ushiwatat
    ushiwatat 2014/11/14
    |デュシャンの80年の生涯には、他の多くの画家におけるように、進歩とか発展とかいったことが少しも認められず、彼は若年において固着した1つの悪循環にも等しいテーマから、死ぬまで逃れることができなかった|
  • 鈴村智久の研究室 哲学者ウィトゲンシュタインは実は建築家でもあったーーウィトゲンシュタイン設計の邸宅《ストンボロウ邸》における「窓」の秘密

    哲学者ウィトゲンシュタインには実は《ストンボロウ邸》という建築作品が存在する。 姉のマルガレーテ・ストンボロウ=ウィトゲンシュタイン(彼女はクリムトのモデルの一人でもある)とその夫のための邸宅であり、1926年の11月13日付けの建築プランにはウィトゲンシュタイン自身のサインがある。建築を担当した代表者はアドルフ・ロースの弟子の一人パウル・エンゲルマンだが、彼はこの建物のプラン自体はウィトゲンシュタインの発案であることを認めている。東大大学院教授の田中純氏は『建築のエロティシズム』の中で、この建築物における実に奇妙な「接続詞」に注目している。空間における「接続詞」とはすなわち、「窓・ドア」を指している。この建物自体は全体的に無装飾であり、ドアは全面ガラス張りになっている。 ウィトゲンシュタイン《ストンボロウ邸》 ウィトゲンシュタイン《ストンボロウ邸》 田中氏は前掲書の中で、リオタールがその

  • ウィトゲンシュタインは究極のミニマリストか /「ウィトゲンシュタインの建築」 - アーキペラゴを探して

    1. ウィトゲンシュタインの建築とは 90年代後半には閉店していたと思うが、西部美術館の横に「アール・ヴィヴァン」というアート系書店があり、アール・ヴィヴァン叢書というB4版の冊子を出していた。各冊子は決まったアーティストやムーブメントを特集し、16号は『ウィトゲンシュタインの建築』だった。 アール ヴィヴァン16号 特集:ウィトゲンシュタインの建築 「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」というウィトゲンシュタインの命題はあまりにも有名である。この言葉が含まれる『論理哲学論考』の草稿は、第一次世界大戦に従軍しながら書かれたと言われている。 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン - Wikipedia この冊子は、ウィトゲンシュタインが設計した実姉の家(ストロンボウ邸)について書かれた内容である。著者はバーナード・レイトナー。日語訳は建築家の磯崎新氏。表紙に書かれている説明の引用。

    ウィトゲンシュタインは究極のミニマリストか /「ウィトゲンシュタインの建築」 - アーキペラゴを探して
  • 電撃かたつむり通信(仮) ノイラートの船

    ……科学のある部分だけを取り出してみれば、たしかにそれはオートノマスな発展をとげているようにみえる。そのようにせまく区切ったときに現われる自律的発展は、近代科学に来そなわった性格ともいえる。しかし、そういう個々の部分をはなれて、科学の全体を歴史的にみるなら、科学の全体として向かう方向、その前線の配置は、どうみても社会的条件によって規定されているのである。支配的な社会的要求、インセンティヴがどこにあるかによって、科学のさまざまな分野に向かう人、物、金の動きは強く影響される。 (廣重徹『科学の社会史』) 伊東乾の「常識の源流探訪」-「日にノーベル賞が来た理由 幻の物理学賞と坂田昌一・戸塚洋二の死」日経ビジネスオンライン 2008/10/10はちすのみ 2008/10/11「留学生との会話、日に来たノーベル賞、そして最近頭の中にあること」 今年のノーベル物理学賞・化学賞における日人受賞ラ

  • ■ - 作品メモランダム

    月曜日は東京工芸大学で「ゲーム学I」(厚木キャンパス)と「シリアスゲーム論」(中野キャンパス)の講義。鞄に清水真木『感情とは何か――プラトンからアーレントまで』(ちくま新書1076、2014/06、ISBN:4480067817)を放り込んで出かける。電車やらバスに乗るあいだ、むさぼり読むという感じで読み進んだ。乗り物が目的地に着いたとき、「もうちょっとこのまま読み続けるために乗り続けたい(どこへ到着するのでもよいから)」などと感じるのがその指標でもある。 目下、当方が「感情」や「情緒」に関心を懐いているということもあるけれど、それを差し引いても「感情とは何か」という問題を、さらに創造的な問いへと練り上げてゆく手際に教えられるところが多かった。「感情の質は、私と世界の関係をめぐる真理(=真相)の表現である点にある」(同書21ページ)というのが、同書の根底にある見立てであり、この観点から

    ■ - 作品メモランダム
  • 思考こそが世界を救う 『ハンナ・アーレント』 - HONZ

    まず、ここ数年の間に読んだなかで、いちばん感銘をうけたといっておこう。憲法改正に、在日差別に、いろいろなバッシングに、新しい視点を与えてくれた。人間の『複数性』が重要であると。そして、『思考欠如』は罪悪であると。 ハンナ・アーレント。どれくらいの知名度なのだろう。恥ずかしながら、昨年、この名を冠した映画を見るまで、その業績はおろか名前すら知らなかった。タイムラインで何人もが絶賛している映画を観に行った。しばらく席をたてないくらい息がつまるような内容であった。 ナチス親衛隊の一員として数百万人のユダヤ人を収容所に送ったアイヒマン。1960年に亡命先のアルゼンチンにおいてイスラエルの諜報機関モサドによって拘束、エルサレムに送還され、裁判をうける。アーレントはその裁判を傍聴し、ニューヨーカーにレポートを書く。しかし、その内容ゆえに、ユダヤ人の友人すべてを失う。 これが映画のあらすじだ。自分自身

    思考こそが世界を救う 『ハンナ・アーレント』 - HONZ
  • なぜ何もないのではなく、何かがあるのか - Wikipedia

    「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」(なぜなにもないのではなく、なにかがあるのか、英: Why is there something rather than nothing?)[注釈 1]は、哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ。神学や宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される。なぜ「無」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題。別の形として、 「なぜ宇宙(または世界)があるのか?(Why is there a universe(world)?)」 「なぜ無ではないのか?(Why not nothing?)」 「なぜそもそも何かが存在するのか?(Why there is anything at all?)」 などと問われる場合もある[注釈 2]。 物事の根拠を「なぜ」と繰り返し問い続けることでやがて現れる問いであることから「究極のなぜの問

    なぜ何もないのではなく、何かがあるのか - Wikipedia
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  • [書評]中世哲学への招待 「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために(八木雄二): 極東ブログ

    ごく個人的な興味だが、デカルトの「方法序説」を読みながら、原点になったスコラ哲学をもう少し理解しておきたい気分がしてきたので、なにか入門書のようなものはないかと「中世哲学への招待(八木雄二)」(参照)を読んでみた。スコラ哲学の基的な考え方とバリエーションを簡素にまとめた書籍を期待していたので、その点では求めていたものとは違う印象もあったが、これはこれで興味深いだった。著者は自身のグリーンボランティアの体験談を含め、一般向けにゆったりと雑感を込めて書を書いている。エッセイ的に読みやすいと言えば読みやすい。が、どちらかというと思想史というより世界史に関心ある人向けではないかとも思った。 「中世哲学への招待」と銘打ってはいるものの、実際にはヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(Johannes Duns Scotus)の紹介書と言ってよい。その名前だが、書ではドゥンスは家系名かとの推測余地も残

  • 「コンピューターと自分は一体」:実験で検証 | WIRED VISION

    前の記事 無料配信で書籍の売り上げが増加:41冊の調査結果 「コンピューターと自分は一体」:実験で検証 2010年3月11日 サイエンス・テクノロジー コメント: トラックバック (0) フィードサイエンス・テクノロジー Brandon Keim (左)マルティン・ハイデッガー、(右)身体が道具を用いている際の全体的な相互作用の様子を図にしたもの。(A)は正常に機能する道具、(B)は機能しない道具を用いている場合。 Image credit: (左)WikiMedia Commons、(右)PLoS ONE。サイトトップの画像はwikimedia 一見単純な実験によって、偉大な哲学者の概念が検証された。その実験は、コンピューターのマウスを用いて、マウスが一時的に正しく機能しなくなるようにすることで、それを操作する人がどのような反応を示すかを調べるというものだ。 実験の結果、被験者の注意力に

    ushiwatat
    ushiwatat 2010/03/11
    いやそれって「検証」なの、とか、プロパーの人はどう考えているのか興味深い記事。
  • Perseus Digital Library

    Welcome to Perseus 4.0, also known as the Perseus Hopper. Read more on the Perseus version history. New to Perseus? Click here for a short tutorial. Perseus News and Updates Please visit the Perseus Updates blog for news on project activities, research, and initiatives. We invite you to contact us via email to the Perseus webmaster if you have any comments, questions, or concerns. January 16, 2024

  • 「我思う故に我有り」は微妙に誤訳なんじゃないか: 極東ブログ

    このエントリを書こうか書くまいかためらっているうるに、なんとなく書かなくなりそうな感じがして、それはそれでいいかなと思うものの、まあ少し気楽に書いてみるかな。おそくらほとんどの人にとってそれほど関心のないことだろうし、そういう話題を扱うのがこのブログだしな、と。さて、結論からいうと、「我思う故に我有り」は誤訳だとは断言しづらい。また、「思う」じゃなくて「考える」だとかそいうレベルの話でもない。 このことが気掛かりになっていたのは、先日の「極東ブログ: ウォーレン・バフェットのありがたいご託宣」(参照)で取り上げたコラムの標題"Buy American. I Am."をどう訳すかということだった。コメント欄でいろいろご示唆をいただいたけど、正直なところあまりピンと来なかった。来ない理由は、なんとなくこの英語の意味を、ちょっと変な言い方だけど、自分の英語処理脳でなんとなくわかっている部分があり

    ushiwatat
    ushiwatat 2008/11/04
    「考えるのをやめさえしたら」というすぐ後の仮定まで取り上げればもっと分かりやすくなるかと思うんだが……。 / how_say氏のコメントの読みが一番しっくりくる。 / にしても、この読みの広がりが古典の強みか。
  • 院生の穴蔵 ソクラテスとともに

    ushiwatat
    ushiwatat 2008/07/13
    岩田靖夫『いま哲学とはなにか』『ソクラテス』など。
  • 白黒つけたら、あなた考えないでしょ?~『ニーチェ──ツァラトゥストラの謎』 村井則夫著(評:山本貴光):日経ビジネスオンライン

    〈だれでも読めるが、だれにも読めない書物〉 これから読もうというの扉に、こんな言葉を見つけたら、あなたはどうするか。 のっけから禅問答? 普通に考えたら、は読めるか読めないかではないか。知らない外国語で書かれたや、なじみのない領域の専門書は読めない。でも、それらを除けば、小説でも随筆でも論文でも、私たちは自在に読むことができるのではなかろうか。などと気にしつつ、さらにページを繰ってみる。 〈ツァラトゥストラは、三十歳になったとき、そのふるさとを去り、ふるさとの湖を捨てて、山奥にはいった。そこでみずからの知恵を愛し、孤独を楽しんで、十年ののちも倦むことを知らなかった〉 小説のような書きだしで、ツァラトゥストラなる登場人物の行状が書かれている。なにもわからないことなどない。「だれにも読めない」は、コケオドシか。 10年間、山奥で孤独な思索を楽しんだツァラトゥストラは、そろそろ山を降りてみ

    白黒つけたら、あなた考えないでしょ?~『ニーチェ──ツァラトゥストラの謎』 村井則夫著(評:山本貴光):日経ビジネスオンライン
  • iPodには何曲貯めるべき? :村上敬亮 情報産業の未来図

    今回は、「iPodに何曲貯めるべきか?」、ということをネタにエントリを作ってみたいと思います。 これまでのエントリでは、どちらかというと、iPodについて、携帯デバイス、音楽、通信といった異分野融合の観点を前に出してきたのですが、実は、もう一つ、従来の携帯音楽端末とiPodをわける大事なポイントがあるのではないかと思っています。それが、この、ユーザがiPodに入れる楽曲の数の問題です。 情報は、ある閾値を超えて大量に保存すると、次元の違う別の効用を示す。そんな話をしてみたいと思います。 1.iPodに何曲貯めるか (1) CDの背表紙の向こうにあった曲が飛び出してくる iPodユーザは、自分のiPodに平均何曲程度の音楽データを入れているのか。ちょっと興味がありませんか?今iPodのお持ちの皆さんは、だいたい何曲程度入れていらっしゃるのでしょうか。僕は、かなり多くの方が、1000曲以上、入

    iPodには何曲貯めるべき? :村上敬亮 情報産業の未来図
    ushiwatat
    ushiwatat 2008/06/02
    日本のメーカーが得意とする「事前設計主義的なアプローチ」と、iPodの面白さやAmazonのレコメンデーションの背後にある|非常に経路依存性が強い性格|とについて。途中に田辺元が顔を出す。
  • プラトン『メノン』 - logical cypher scape2

    「大学で哲学やってます」とかいうくせに、実はプラトンとか一冊もまともに読んだことがなかった。だからこそ、さっきの文には「一応……」という但し書きがついてまわる。 いや、プラトンに限らず、哲学やるなら読んでおけよ、みたいなを結構読んでいない。 しかし、ソクラテスやプラトン(あるいはカントやデカルト)について全く知らないかといえば、決してそういうわけではない。それでもやはり、原著(日語訳であるとしても)を読まないと、知っているとなかなか言い難いのも確かである。 ところで、自然科学とかでは、必ずしも原著を読まなきゃ知ることができないということはないんじゃなかろうか。 分析哲学と大陸哲学との違いを最も簡単に表現するなら、前者は命題を商うが、後者は固有名詞を商うということになろう。 ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』*1 ここでは大陸哲学の特徴とされているけれど、これは結構人文学の特徴なのでは

    プラトン『メノン』 - logical cypher scape2
  • 西洋思想史に関する雑多な覚書 - 虚舟庵雑録

    館のエントリのためにルソーとか、ロックとか、ミルを読み直しているのだが、たまたま見かけたエントリにあった、『思想地図』で交わされたというルソー解釈などに少々首を傾げる部分があったので、それについてと、西洋思想史について若干の覚書を残しておく。 ●またルソーか。 B・ラッセルは『西洋哲学史』において「ルソーは狂乱していたが影響力をもち、ヒュームは正気であったが信奉者をもたなかった」と例の皮肉っぽい口調で述べているが、どうやら極東においては、引用者は多いが、誤読する人が多いようである。何時ぞやの宮台真司氏ほど酷くはないが、たとえば、『萌え理論Blog』というブログの『思想地図』の第一巻の書評エントリにおいて、 東浩紀氏が、ルソーの「一般意志」論を提出して、後半の第二部が始まる。ホッブズの場合、自然状態の混沌に秩序をもたらす主権者は「王」で明快だが、ルソーの主権者は「一般意志」と、具体的な人物

    西洋思想史に関する雑多な覚書 - 虚舟庵雑録
  • 同時性の想像 - Living, Loving, Thinking, Again

    小泉義之さん、blogを中止してしまうのか。その最後のエントリーから、 時間との関連で言えば、おそらく現在主義者・現前主義者とでも分類されるであろうが、現在・今の〈同時性〉が気にかかった。今ここで、パソコンを操作している。と同時に、隣の部屋では家人が何かをしている。と同時に、向こうの道路を車が通り過ぎていく。ここには、情報の速度、感覚の範囲、想像の広がる「速度」が入り込んでいる。と「同時」に、距離が入り込んでいる。そして、と同時に、遠くでは、誰かが生まれ誰かが死んでいく。その知らせは遅れて届くにしても(「後で」というより「遅れて」である。このひと事だけで、〈逆向き因果〉論は物足りないことが明らかである)、きっと何かが遠くで同時に起こっている。しかも、こんな同時性が、ギクシャクと音を立てるでもなく、変わってゆく。あるいは、移ってゆく。それとともに(?)、この私も移ってゆく。ところが、「持続」

    同時性の想像 - Living, Loving, Thinking, Again
    ushiwatat
    ushiwatat 2008/04/06
    |今同時に見知らぬ誰かが私と関わりのあることを行っているということを想像すること(できること)こそが社会なるものが主観的リアリティとして存立する基礎なのではないか|
  • 慶應義塾大学メディアセンター

    ushiwatat
    ushiwatat 2008/03/22
    同図書館所蔵のディドロ、ダランベール編『百科全書』について。初版本。