中学生の頃より、先輩の今西錦司と山歩きに没頭。京都帝大時代は山岳部に入部し、今西錦司、森下正明、梅棹忠夫、吉良竜夫らと共に探検隊を結成しカロリン諸島や大興安嶺山脈を探検。大阪市立大学の助教授時代からはネパールを研究フィールドとするようになった。 生態学的な人文地理学を研究し、今西の生態学の人類方面の拡張を成し遂げた。 豊富な野外調査の経験を基に、情報整理と発想のための手法としてKJ法を開発。ブレインストーミング後の整理法として、野外科学のみならず企業などでも広く応用され、その著書である『発想法』(正・続、各・中公新書刊)と、『知の探検学』(講談社現代新書刊)は大きな評判を呼んだ。 1953年(昭和28年)にマナスル登山隊へ参加。有名シャンソン歌手イベット・ジローの名をもじって、「チベット二郎」の異名を持つほどの、チベット文化の理解者である。 1958年、西北ネパール学術探検隊長[2]。19