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wikipediaとダムに関するwhaleboneのブックマーク (9)

  • 八田與一 - Wikipedia

    八田 與一(はった よいち、常用漢字:八田 与一、1886年〈明治19年〉2月21日 – 1942年〈昭和17年〉5月8日)は、日の水利技術者。 生い立ち - 台湾へ[編集] 1886年(明治19年)に石川県河北郡花園村(現:金沢市今町)に生まれる。石川県尋常中学、第四高等学校(四高)を経て、1910年(明治43年)に東京帝国大学工学部土木科を卒業後[1]、台湾総督府内務局土木課の技手として就職した[2][3]。 日統治時代の台湾では、初代民政長官であった後藤新平以来、マラリアなどの伝染病予防対策が重点的に採られ、八田も当初は衛生事業に従事し、嘉義・台南・高雄など各都市の上下水道の整備を担当した。その後、発電・灌漑事業の部門に移り、1910年総督府土木部工務課で浜野弥四郎に仕えることになった[4]。台南水道の事業で実地調査を共にするうちに、八田は浜野から多くのことを学び、後述の嘉南大圳

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  • 大同電力 - Wikipedia

    大同電力株式会社(だいどうでんりょく、英文社名:Great Consolidated Electric Power Company, Limited.[注釈 1])は、大正から昭和戦前期にかけて存在した日の電力会社である。当時の大手電力会社、通称「五大電力」の一つ。 大阪送電株式会社(おおさかそうでん)の社名で1919年に設立され、1921年に木曽電気興業・日水力の2社を合併して大同電力となった。木曽川などの河川において電源開発を手がけ、同時に関西・中部・関東にまたがる広域送電網を構築。これらの地域で営業する電気事業者への電力供給を事業の中心とする、卸売り電力会社として発展した。 1939年に解散。保有していた発電所はその後の再編を経て関西電力・中部電力・北陸電力の3社に継承された。また傍系会社の系譜を引く特殊鋼メーカーの大同特殊鋼に「大同」の社名を残している。 概要[編集] 初代社長

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  • 水豊ダム - Wikipedia

    水豊ダム(スプンダム、すいほうダム)は鴨緑江にある水力発電用ダムである。右岸の中華人民共和国遼寧省寛甸満族自治県と、左岸の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)平安北道朔州郡の中朝国境を跨ぐ。日の統治時代、当時東洋一の出力70万kWで計画され、1937年(昭和12年)に着工、1941年(昭和16年)に10万kWの発電を開始した。1945年(昭和20年)終戦時の出力は60万kWだった。 概要[編集] ダムは、高さ約106メートル、幅約900メートル、総貯水容量116億立方メートル。ダム湖である水豊湖は長さ100km、面積345km2、湛水面積は琵琶湖(670.33平方キロメートル)のほぼ半分に相当する[1][2][3][4]。ダムは中朝国境にあり、発電所は北朝鮮側にある。発電機7基のうち、3基は朝鮮向けの60 Hz、3基は北京向けの50 Hz、1基は50 Hz、60 Hzどちらでも発電可能なもの

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  • 読書発電所 - Wikipedia

    1919年(大正8年)から1939年(昭和14年)にかけて存在した大同電力による木曽川水力発電事業の経緯と発電所位置図 読書発電所(よみかきはつでんしょ)は、長野県木曽郡南木曽町読書に位置する[1]関西電力株式会社の水力発電所である。 木曽川川にある発電所の一つで、読書ダムなどから取水。1923年(大正12年)に建設された地上式発電所と、1960年(昭和35年)に増設された地下式発電所(旧・読書第二発電所)からなり、合計11万9,000キロワットを発電する。 地上式発電所館を中心とした設備が国の重要文化財や近代化産業遺産に指定されている。 設備構成[編集] 地上式発電所[編集] 読書ダム (北緯35度39分32秒 東経137度37分13秒 / 北緯35.65889度 東経137.62028度)) 柿其水路橋 柿其水路橋 (上より) 読書発電所の地上式設備は1923年(大正12年)1

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    whalebone
    whalebone 2014/08/11
    『阿寺川上流では、中部電力が大規模揚水発電所・木曽中央水力発電所のダムを建設することを計画していたが、2004年(平成16年)に中止となっている』
  • ベクテル - Wikipedia

    この項目「ベクテル」は途中まで翻訳されたものです。(原文:en:Bechtel 2011-04-07T07:45:08) 翻訳作業に協力して下さる方を求めています。ノートページや履歴、翻訳のガイドラインも参照してください。要約欄への翻訳情報の記入をお忘れなく。(2010年4月) ベクテル (Bechtel Corporation ; Bechtel Group)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコに拠を置き、総合建設業を営む多国籍企業。石油コンビナート、発電所、ダム、空港、港湾などの建設を請け負う世界最大級の建設会社。 創業者一族[編集] 非上場の同族会社であるので、しばしば関係者に関心が持たれる[1]。 創業者ウォーレン・ベクテル(en:Warren A. Bechtel、1872年9月12日 – 1933年8月28日)は、オクラホマ州で牧場経営に失敗した後、1898年、

  • 下筌ダム - Wikipedia

    下筌ダム(しもうけダム)は、大分県日田市と熊県阿蘇郡小国町にまたがる、一級河川・筑後川水系津江川に建設されたダムである。 国土交通省九州地方整備局が管理をする国土交通省直轄ダムで、高さ98.0メートルのアーチ式コンクリートダムである。1953年(昭和28年)6月の昭和28年西日水害による被害を受け、筑後川水系治水基計画の一環として下流にある松原ダム(筑後川)と同時に建設された特定多目的ダムであり、筑後川の治水と日田市への利水、水力発電を目的としている。また、菊池川水系とトンネルによって貯水を融通している。 ダム建設に伴って繰り広げられた日最大級のダム反対運動・「蜂の巣城紛争」の舞台としても知られている。ダムによって形成された人造湖は、蜂の巣城紛争にちなんで蜂の巣湖(はちのすこ)と命名された。なお、ダムの堤上には主要地方道の天瀬阿蘇線が通っている。 沿革[編集] 下筌発電所。ダム左岸

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  • バイオントダム - Wikipedia

    イオントダム(ヴァイオントダム、イタリア語: Diga del Vajont)は、イタリア北東部を流れるピアーヴェ川支川のバイオント川に建設されたダム。1960年に竣工したが、1963年10月9日に犠牲者2000名以上を出す地すべり・溢水災害を引き起こし、放棄された。 概要[編集] ロンガローネから見たバイオントダムの堤体 バイオント川 (it:Vajont (torrente)) は、イタリア北東部のヴェネト州を流れるピアーヴェ川の支川である。バイオントダムは、バイオント川が東のバイオント谷からピアーヴェ川に合流する手前に通る、狭隘で深い渓谷に建設された。1960年の竣工当時、262mの堤高は世界一であった。 ダムは、エルト・エ・カッソ村(フリウーリ=ヴェネツィア・ジュリア州ポルデノーネ県)の西端にあたる。ダムの真西、峡谷の出口にあたるピアーヴェ川右岸には、ロンガローネ村(ヴェネト州ベ

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  • 鉱滓ダム - Wikipedia

    岐阜県飛騨市、神岡鉱山にある鉱滓ダム(神岡鉱業所・和佐保堆積場)[1] 栃木県日光市、足尾銅山にある鉱滓ダム(古河機械金属・簀子橋堆積場)[2] 簀子橋堆積場近影(2017年12月撮影) 兵庫県朝来市、明延鉱山神子畑選鉱場の間歩谷ダム 鉱滓ダム(こうさいダム、英語: tailings dam)とは、鉱山の選鉱・製錬工程で発生するスラグ(鉱滓)を水分と固形分とに分離し、その固形分を堆積させる施設である。鉱滓堆積場とも呼ばれる。 位置付け[編集] 「ダム」という名があるように、広義のダムには含まれるものの、水を貯え、それを利用することを目的としていない。このため日では、通常は河川法の定める狭義のダムには含めない。立地はもっぱら鉱山近くの谷が利用され、構造は砂防堰堤に似ているものや、アースダムに準じて捨石(ズリ)で築くものがある。後者の場合、支柱や基礎を設けていない場合が多く、またダムがスラグ

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  • 日本のダムの歴史 - Wikipedia

    のダムの歴史(にほんのダムのれきし)では、日におけるダムの歴史を時代ごとに詳述する。日のダム事業史は616年頃に建設された狭山池[1] より始まり、時代の変遷と共にダム建設の目的・技術・意義そしてダムを取り巻く様々な環境も変わっていく。 凡例[編集] 記事では、1964年(昭和39年)改訂の河川法・1976年(昭和51年)施行の河川管理施設等構造令に準拠して高さ15メートル以上のものを「ダム」と表記し、それ未満の高さを有する河川構造物については基的に「堰堤(えんてい)」・「堰」と表記する。また記事中における人物の肩書き、地域・自治体・組織・施設名は当時の名称を用い、「現在」という表記は2021年(令和3年)を基準とする。 古代から中世[編集] 日におけるダム建設が何時頃から開始されたのかは、明確な資料がないために不明である。具体的に灌漑用のため池に関する記述が登場するのは『古

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