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ブックマーク / blog.goo.ne.jp/madographos (14)

  • 個に応じた指導とは? - 学校教育を考える

    混迷する教育現場で, 日々奮闘していらっしゃる 真面目な先生方への 応援の意味を込めて書いています。 ずいぶん前から,個に応じた指導ということが言われ,いまでも言われているようである。学校は,もともと一斉指導に便利な構造になっているから,個に応じた指導をすることは結構難しい。子供一人ひとりに応じた指導をどうすればできるかと考えて,いろいろと少人数クラスを作ってみたり,グループ学習をさせてみたりしているようであるが,効果のほどはいかがだろうか? 個に応じた指導をするのであれば,家庭教師がいちばんよいのである。子供の数だけ教員がいれば,個に応じた指導は確実にできる。行政サイドでは,その人的コストをかけるつもりはもともとないのだから,個に応じた指導というのも,畢竟,掛け声だけ,形だけの話になりがちなのである。そもそも,一人の担任が20人なり30人なり40人なりの子供を相手にしていたのでは,個に応

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    witt 2014/10/08
  • アクティブラーニングと講義 - 学校教育を考える

    混迷する教育現場で, 日々奮闘していらっしゃる 真面目な先生方への 応援の意味を込めて書いています。 アクティブラーニングが大流行である。アクティブラーニングはさまざまな学習方法を包含した概念であり,それを定義する際に,もっともその性格を鮮明にする文言として,授業者が「一方的に」知識を伝達する講義形式「ではない」ということが示される。そして,この講義形式は,「受動的」なものとして退けられる。このアクティブラーニングには価値判断が含まれており,アクティブラーニングが望ましい学習方法であり,従来の講義形式はアクティブラーニングよりも価値が低いという含意がある。 これは,アクティブラーニングを実践したことのある経験のある授業者であれば容易に分かることであるが,実は知識習得という面では,アクティブラーニングは効率的ではない。だから,アクティブラーニングだけでは十分な学修効果をあげることができないこ

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    witt 2014/10/04
  • 受け身の学び - 学校教育を考える

    守・破・離 (タナトス) 2014-01-30 22:11:02 武道、茶道など、まずは先人から伝わる地味で単調な練習に身を捧げ、決められた型を黙って「守る」ところから修行が始まります。ここでは、もっと面白くとかもっと楽しくとか言わずに、与えられた型をひたすら繰り返し、身につけることが要求されます。およそ受動的といってよいでしょう。 その型を身につけた後、深く研究して、自分に合った型を創ることにより、既存の型を「破る」のです。 最終的には先人の型を破り、自分自身が造り出した型の上に立脚し、自分自身と技についてよく理解し、型から自由になり、型から「離れ」て自在になることができるというわけです。 短い人生において、ほとんどは「守」の修行に費やされて、「破」や「離」は望むべくもないのかもしれません。 しかしながら、型を十分に習得しない段階で、能動性を求めて何の意味があるのでしょう? 「授業の主体

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    witt 2014/01/26
  • 中庸ということ - 学校教育を考える

    考え方を広げる中庸の言葉 (tsuguo-kodera) 2013-09-14 16:12:20 中庸とは、私のようないい加減な奴でなく、日語なら、良い加減かも。今日の記事、管理人様の記事が好きだった理由が分かった気がしました。 何事もほどほどの加減が大事だと何時も、子供にも社員にも、先生方にも言ってきました。でも、学校教育では上手く説得できませんでした。いい加減にしろとはどういうことだ、いい加減野郎、と言われていたようです。 大学入学試験でも100点は不要なケースがほとんどでは。東大なら全科目80点でまず合格でしょう。 ある科目の百点をとるための労力は無限大。80点ならほどほどの努力です。8科目や9科目あってもできるかも。 でも、このような説明は、生徒はノーベル賞を狙えるように徹底的に一科目でも伸ばすように勉強し、大学ですべき。スポーツもしかりです。野球が出来れば全てよし、と言うような

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    witt 2013/09/20
  • 聖職論の陥穽と社会の闇 - 学校教育を考える

    混迷する教育現場で, 日々奮闘していらっしゃる 真面目な先生方への 応援の意味を込めて書いています。 「駆け込み退職」を批判する文脈で、「聖職」という言葉が用いられていることに危惧をおぼえる。 来、聖職とは、宗教的な意味合いをもった言葉であり、キリスト教における司祭や牧師や宣教師といった人々などをそのように呼んだのである。教職を聖職といったのは、西欧中世以降もともと聖職にある者が教育に携わったからと言われている。それを我が国で明治以降、天皇中心の国づくりを担う者であるという理由で、聖職という言葉を教師に対して用いるようになったのである。それが、現人神たる天皇の赤子である臣民を育成するという崇高な使命を帯びているという意味を付与されるようになっていったのである。つまり、聖職という言葉は、教育そのものの重要性を言った言葉でもなく、教師の生徒に対する責任を言ったものでもないのである。戦後、戦前

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    witt 2013/01/26
  • 教員の資質能力向上策の提案 - 学校教育を考える

    我執を打ちのめすシステム (Shohei) 2012-02-12 21:27:41 大変興味深く読みました。そして、解の難解なことに気づきましたね。政治改革がどうたら、ということととても類似しているとも思いました。採用時に不適切な教員を見つけることは難しい。しかし、ことばとして「不適切な教員」という言葉があるだけでなく、事実、そういう教員が存在する。しかし、それをどうやって見つけ出すのか?ご指摘のように、大学や大学院、教育委員会がその任でないとして、その全寮制の施設でいったい誰が基礎訓練をするに値する訓練者を選定するのか?そのまた選定で、適切でない人間を排除することが・・・。という論理がまわるとしたら、この国には、適切な人間を選定するシステムが作動しないようになっているのか、いえ、仮にじゃあ、他の国で作動しているとしたら、作動しているということをどうやって論証し、それをこの国に導入するのか

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    witt 2011/11/07
  • 学校教育に成功なし - 学校教育を考える

    同感です! (MD) 2010-10-03 21:10:15 僕は今名古屋市立の高校に通っている三年生です。 友達が教師たちから受けた人権侵害とも言える発言、行為などに対して学校側と戦っています。 あなたのような教師がいてくれたらと心底思います。 子供のくせにこんなこと言うのはなんですが、これからも教育に向き合って現場で頑張っていただきたいです。 返信する 目クラ蛇に怖じず (tsuguo-kodera) 2015-11-23 14:37:36 確率的に成功しやすい学校教育も、生徒さんに願望の達成をもたらしやすい教員もいるのでは。逆の学校も教員も多いのかもしれませんが。 成功体験を成功と感じずにどのように教師は教える手法や経験の進化改善を果たすのか、私には考えが及びません。 逆に、それだからか、まるで失敗しない前提のようにも思えます。でも管理人様の他の記事からは、到底そのようなはずはないと

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    witt 2010/10/02
  • 舞台裏は隠しましょう - 学校教育を考える

    評価との関連 (ほり) 2010-06-14 23:36:05 こんにちは。 賛同します。 私は、授業などを子供に評価させるのは、舞台裏に関与させることになると思うので、賢いやり方だと思えないのです。 返信する Unknown (madographos) 2010-06-14 23:42:06 >ほり様。コメントありがとうございます。おっしゃるとおりです。賢明な教師ならば,多様な方法で生徒からのフィードバックを得ることが出来ているので,とりたてて授業評価などを必要としないでしょうし,それよりも,生徒による授業評価が,生徒自身に与えるマイナスの影響には十分慎重であるべきだと思っています。 返信する Unknown (一教員) 2010-06-15 20:51:47 小・中では「わかる授業」「楽しい授業」が求められるのには、反対の「わからない授業」「楽しくない授業」が存在するからではないでしょ

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    witt 2010/06/15
  • 教育愛の欺瞞 - 学校教育を考える

    Unknown (主婦) 2010-06-04 05:50:40 「教師が愛情をもって 根気よく子どもに接すれば, 必ず子どもにその愛情が届き, 子どもは教師の愛情に応え, よりよく成長する」 必ずその愛情が届くとも、よりよく成長するとも保障はないが、少なくとも、愛情がない教師に学ぶより,愛情がある教師に学ぶ方が、子どもは幸せであり、少しでも、愛情が届く&成長する可能性が高くなるだろう。 返信する Unknown (madographos) 2010-06-04 07:03:40 >主婦さま。コメントありがとうございます。その場合の,教師がもつべき愛情とはどのような愛情になるでしょうか? 愛情豊かで技術的に未熟な教師と愛情に乏しく技術的に卓越した教師では,どちらが子どもを成長させ得るか,というような極端な対比をした場合,どのように考えられるでしょうか? 「教育愛」に対して,問題提起したいの

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    witt 2010/06/05
  • 学校は古い組織である - 学校教育を考える

    はじめまして (kenovs) 2009-11-04 00:14:06 はじめまして。 教育問題に興味があり、将来(教職も含め)公務員になるか民間企業に就職するか迷っているゆとり世代の大学一年生です。つい最近このブログを見つけ、勉強させていただいてます。 前半の話はあまり理解できませんでしたが、屁理屈でもとりあえず筋さえ通っていれば許されるという風潮はおかしいとしかいいようがないと思います。 ところで教育の質を高めるにはとにかく教員の地位(給与の面も含めて)を引き上げるために国庫負担を増やすしかないと思っているのですが、これについて何かご意見をいただけないでしょうか。 長文失礼しました。 Unknown (madographos) 2009-11-04 20:54:47 >kenovsさま。コメントありがとうございます。「教員の地位(給与の面も含めて)を引き上げるために国庫負担を増やす」と

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    witt 2009/11/07
  • 教員養成6年制は愚策である - 学校教育を考える

    混迷する教育現場で, 日々奮闘していらっしゃる 真面目な先生方への 応援の意味を込めて書いています。 教員免許更新制を廃止して,教員養成を大学院2年間を含め6年制に移行しようという教員の指導力向上政策について考えてみたい。 教員免許更新制の功罪は,正式には1年しかやっていないのであるから評価不能なはずである。それはさておき,教員養成6年制に関しては,現場感覚でいけば疑問を感じざるを得ない。現場で見ていると,短大卒業,大学卒業,大学院修士課程修了,大学院博士課程修了などさまざまな学歴の先生がいるが,学歴差によって,教員の資質や指導力に際立った違いがあるかというと,ほとんど差がないか,逆に,大学院修了の方がよろしくない場合さえある。 要するに,大学や大学院には,そもそも教員の資質を向上させる機能は乏しいのである。だからこそ,東京都をはじめとする教育委員会が,自前で教員養成にのりだしているのであ

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    witt 2009/10/30
  • 教育実習生に - 学校教育を考える

    日常的な授業態度ではないですか? (理想は常識人) 2009-06-14 17:39:27 子どもの姿は、そのまま授業をしている教師への評価でもあります。 参観している教師たちは、居眠りしている子を起こしましたか?放置しましたか? 隣の子としゃべっている子が、何を話しているか聞きましたか?授業への疑問なら、授業者に聞くように促しましたか?ただの雑談なら、授業者の話を聞くように指示しましたか? 内職している子に、注意をしましたか?内職していても、問題のない授業ではありませんでしたか? ノートをとっていない子が、なぜノートをとっていないか確かめましたか?ノートをとっている子どもが、適切なことを書いているかどうか、確かめましたか。ノートを書くことについての指示は適切でしたか?ノートをとるのが必要な内容でしたか?そもそもなぜノートをとるのか、何をノートするのか、教育実習期間に入る前の指導は徹底でき

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    witt 2009/06/14
  • 優れた授業より普段の授業 - 学校教育を考える

    おそらく (S.O.S) 2007-11-01 12:33:20 はじめまして、S.O.Sと申します。 興味深く拝見させていただいています。 優れた授業ばかりが紹介されて、普段の授業に関する研究がないということですが、少し私の考えを。 ものにもよると思いますが、紹介されている授業というのは、普段の授業で優れた授業をされているから紹介されているのだと思います。 私が実際に見学に行った中学校の英語の授業(今年から関西大学に移られた田尻悟郎先生)は、普段の授業がすばらしかったです。英語の授業のなかで生活指導(人間教育というのでしょうか)もしっかりされていて、「これが来の教育なんだな」と思いました。 具体的にどんな授業のことをおっしゃっているのか分かりませんが、私が思うに、普段の授業と各方面で紹介されている優れた授業というのは、立場は同じではないかということです。 そして、授業のテクニックや制度

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    witt 2007/11/03
  • 学校教育を考える - 信頼関係ということ

    混迷する教育現場で, 日々奮闘していらっしゃる 真面目な先生方への 応援の意味を込めて書いています。 教師と生徒のあいだの信頼関係ということについて, 考えてみたい。 よく生徒は中学生ぐらいになると, 「先生は,私のことを信用していないんですか?」などと 言うことがある。 この言葉は,教師に生徒が投げつける言葉としては, かなりとげのある言葉である。 なぜなら, 教師は生徒を信頼すべきものだと 教師自身が考えているであろうことを想定して 自己防衛的に言っていることが多いからである。 こんなときは, 「あなたが,私(教師)のことを信用しているのと同じぐらい, 私はあなたを信用していますよ。」 と答えてやるのもひとつの方法であろう。 来,教師と生徒との間の信頼関係というものは, 対等の人間関係におけるものではないので, 双方向的なものとしては成立しないからである。 生徒が教師を信頼するとか信

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