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福島県に関するyamaigaのブックマーク (39)

  • 【山さ行がねが】廃線レポート 木戸川森林鉄道 (乙次郎~木戸川第1発電所)

    【周辺図(マピオン)】 木戸川森林鉄道は、福島県の南東部、阿武隈山地から太平洋に注ぐ一級河川木戸川に沿って存在した、前橋営林局富岡営林署所管の森林鉄道(2級線)である。 常磐線の木戸駅を起点に伸びていた軌道は、最盛期には約21kmの長さを誇り、福島県浜通り地方を代表する林鉄のひとつであった。 この路線については、廃線跡探索の有名書である宮脇俊三氏の『鉄道廃線跡を歩く』シリーズ第一作目に取り上げられ、平成7(1995)年頃の廃線跡の状況が大まかに紹介されている。 また路線の歴史については、関東森林管理局内のコンテンツ「福島の森林鉄道WEB史料室」に解説がある。 それによると、木戸川森林鉄道のルーツは、大正3(1914)年に民間の丸三製材所が木戸駅から約5km離れた女平まで開設した「木戸川軌道」にある。 当時は木戸川上流の川内方面で伐採した原木を、川流しによって女平まで運び、そこから軌道で木

  • 【山さ行がねが】ミニレポート第165回 国道49号旧道 旧旧藤橋

    【所在地(マピオン)】 国道49号を会津若松から西へ向かうと、会津平野を離れる直前に、只見(ただみ)川の太い流れを一度横断する。 その先は、新潟平野に出るまで続く広大な山岳地帯であり、旅人は渡河の前にある七折(ななおり)峠と渡河後に現れる藤(ふじ)峠とを自然に見較べ、山国へ踏み込んだ実感を得るのである。 この渡河地点の東を坂(会津坂下町)、西を藤(柳津町)といい、明治初期の三島通庸県令時代、「会津三方道路」建設の一環として初めて架橋され、藤橋と呼ばれるようになった。 以来ずっと、会津と新潟を結ぶ第一路線である越後街道(会津街道)は、この地を通い続けている。 「柳津町史」によると、橋は水量豊富な只見川を渡る都合上、かつて頻繁に流出・架け替えを繰りかえしており、現在架かっている藤大橋(昭和58年完成)は、少なくとも9代目の橋であるという。(初代橋は現在の橋の旧旧旧旧旧旧旧旧橋ということに

    yamaiga
    yamaiga 2011/09/02
    <ミニレポ-165>130年間で8度架け替えられた橋
  • 【山さ行がねが】ミニレポート第164回 会津坂下の桜橋

    【所在地(マピオン)】 会津坂下(あいづばんげ)町の洲走(すばしり)地区にに洲走温泉と言うのがありまして、その近くに山肌にに突っ込むかのような橋があります。この橋は、新道の計画で建設された物らしいのですが、新道は別なルートを通りこの橋はまったく役に立たなくなっております。比較的良い橋です。税金の無駄遣いにも思います(^^;) probowlerさま(正式なHNがございましたらご連絡ください)による提供情報 上記の情報をもとに現地へ行ってみたところ、期待に恥じぬ、寂しい景色がが待っていた。 ↓↓↓ 2008/6/1 19:19 《現在地》 ぐにゃ~~ ってカンジだ。 情報提供者によると、この道は建設の途中でコストが掛かる山越えを断念し、川沿いへルートを変更したとのこと。 それが地図には描かれていない、右へ折れている線形らしい。 そして、計画変更前に建設されていた末端部は、未成道のまま放置さ

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    yamaiga 2011/09/02
    <ミニレポ-164>子どもたちの思い出とともにねむる橋。
  • 【山さ行がねが】ミニレポート第159回 国道252号旧道 持寄地区

    【周辺地図(マピオン)】 今回行ってみたのは、福島県の会津地方の中西部に位置する柳津(やないづ)町にある短い廃道。 新潟県柏崎市と福島県会津若松市を結ぶ国道252号の旧道であり、昭和52年までは使われていたようだ。 右の地図を見て欲しい。 中央の川べりに描かれている一のトンネルが、昭和52年に竣功した持寄(もちより)トンネルである。 地図にカーソルを合わせると昭和33年頃の地形図に切り替わるが、当時はトンネルの無いルートだったことが分かるだろう。 また現在はトンネルの前後に、かなり長いスノーシェッドないし洞門も描かれているが、これも当時は存在しなかったようだ。 ということで、只見川の川べりにあるこの数百メートルの旧道を紹介しよう。 まずは、東側から。 2009/6/28 9:17 地形図で“屋根付き”で描かれていた部分には、雪国特有の道路構造物「スノーシェルター」があった。 スノーシェル

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    yamaiga 2011/09/02
    <ミニレポ-159>深緑の只見川に臨む旧国道の跡
  • 【山さ行がねが】道路レポート 福島県道53号会津高田柳津線 赤留不通区

    福島県道53号「会津高田柳津線」は、会津盆地の西南端に位置する歴史ある商都高田と、奥会津の玄関口に位置する寺と温泉のまち柳津を結ぶ、全長20kmの主要地方道である。 起点と終点付近以外は会津山地の山中を通る山岳路線であり、赤留(あかる)峠と市野峠という2つの峠が控えている。 また、柳津と高田を結ぶ交通量自体あまり多くないことから、比較的閑散路線といえる。 とはいえ現役の県道であり、この程度の縮尺の地図では特に“異変”に気づくと言うこともない。 というか、ドライバー的には全くそれで問題がない。 あなたが普通に道路標識に従って車を走らせていれば、ちゃんとこの県道は高田から柳津、或いはその逆へ移動させてくれる。 問題ない。 だが、縮尺の大きな道路地図(左画像は「スーパーマップルデジタル11」)で、この赤留峠と市野峠の間に挟まっている谷…二岐(ふたまた)地区を見てみると、小さな“異変”に気

  • 【山さ行がねが】ミニレポート第146回 片門ダム 堤上路

    【現在地(別ウィンドウ)】 今回紹介するのは、表題の通りの道である。 ダム堤体の上を車で通れるところは結構あるが、それらの多くは地図上でもそれと分かるように道が描かれていたりする。 だが、福島県の片門(かたかど)ダムにあるそれは、ほとんど…というか、全くと言っていいほど地元以外では知られていない。 右の地図を見てもお分かりの通り、堤上の道は繋がっていないように描かれているからだ。 また、近くには別に主要な道があって、敢えてこのダムを渡る理由も乏しいからだ。 これだけを聞いて、この場所に興味が湧いたという人は多分少ないだろう。 だが、この場所には独特の良さというか、知るものを一人ほくそ笑ませるような効果がある。 そしてもしあなたが変な道を愛するならば、或いは車でそう言うところを通りたいと願うならば、無視できない存在になるだろう。 事実、私もここを訪れたあと、自分の車で渡ってみたいという衝動

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    yamaiga 2010/06/09
    <ミニレポ-146>ジモピーだけが知っている? ダム堤上の隠れ道
  • 【山さ行がねが】ミニレポート 第120回 福島県道391号広野小高線

    「日の廃道」編集部も、東日大震災の被災地復興を応援しています。 東日大震災の被災地となってしまった地域のレポートを1冊にまとめた、「震災復興支援特別号」(\400)を販売中です。 誌の売り上げは、全額被災地支援の募金にあてさせていただきます。(「日の廃道」編集部) 壮大にくだらないミニレポ!! <導入> また新しき道の獣が、この山行がを舞台に、その鎌首を擡げようとしている。 その名は、 福島県一般県道391号 広野小高線 おそらく、様々な道路サイトを足繁く通ってきた御仁でも、この名を聞いてピンと来る人はない。 そう。 ヤツは限りなくマイナー。 そして、狡猾。 ヤツは、一度捕らえたと思っても、決してその全貌を曝すことはない。 何度でもその尾をちぎり、捕らえんとする我々から逃げおおせる。 そして、気付いたときにはもう、ヤツは居ない。 ハッキリ言おう。 この道は、カーナビ如きでは攻略で

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    yamaiga 2010/06/08
    <ミニレポ-120>壮大にくだらないミニレポ!
  • 【山さ行がねが】ミニレポート 第115回 旧 会青橋

    主要地方道に指定されている福島県道21号(喜多方会津坂下線)は、その名の通り喜多方市と会津坂下(あいづばんげ)町を結ぶ、全長21km余りの幹線道路である。 会津盆地を南北に縦断する国道121号と東西に走る49号を短絡する性格も持ち、朝夕の通行量はかなり多い。 会津地方の生活と深く結びついてきた「命の川」阿賀川を跨ぐのは、その道中の中間地点から少し南下したあたりだ。 川はちょうど喜多方市と会津坂下町の境界線ともなっている。 そこには、真新しい橋と、役割を終えた橋とが並んで架かっている光景を見る。 南へ向かうため車を走らせる私が、夕暮れ時の会青(かいせい)橋に差し掛かる。 架かっているのは真新しい橋だった。 そのとき右側に、いかにもといった風体のコンクリート橋が並んで架かっているのを見た。 ちょうど橋の前後も真新しいバイパス道になっていたので、旧橋の存在が疑われたところだった。 はじめ寄り道す

    yamaiga
    yamaiga 2010/06/08
    <ミニレポ-115>十六連の廃橋
  • 【山さ行がねが】ミニレポート 第114回 城下小高線

    福島県は面積も広いが、県道の数も多い。 小中規模の市町村が多いという政治的な事情にもよるのだろう。 それは、州最大の面積を持つ岩手県に較べても、格段に多い。 そのなかには、かつてこのミニレポでも紹介した岩手県一関市の「山目停車場線」の全長49.5mに匹敵する激短路線もある。 今回紹介する福島県一般県道259号「城下小高線」は、全長が343mあり、驚くほどの短さとは言えない。 しかし、地図上における描かれ方や、現地での佇まいは、山目停車場線に劣らず不可思議である。 まずは小高町…昨年から南相馬市小高区となった、その中心部の地図をご覧頂こう。 上の地図を見ても、何がどう珍しいのか分からない人が殆どだと思う。 かく言う私も、自分で書き足した上地図を見て、なんだか自信が無くなってきたというのが音だ…。 地図上でこの道が “変わっている” と思える点、すなわち、わざわざ現地調査に私を赴かせた理

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    yamaiga 2010/06/08
    <ミニレポ-114>存在感の無さ過ぎる県道
  • 【山さ行がねが】ミニレポート 第99回 信夫山 羽黒神社旧参道

    どうやら、日一急な車道というのは、勾配30%くらいあるらしい。(参考:「霧に走る」) 全国数箇所に、「30%」を示した勾配標識が立てられているようだが、現地点で東日での発見例はないようだ。 このような常識を越えた急坂は、単に地形が急であるということだけでなく、その勾配を緩和する蛇行を道が描けないような、なんらかの土地的な制約もあると考えられ、未開発エリアの多い東北地方では、発見例がないのも無理はないのかもしれない。 もっとも、ここで言う車道とは、作業用ブルがはいるような造林道路などは除く。 ふつうに一般車が通っている道に限定しての話だ。 だが、東北在住急坂マニアのみなさんに朗報である。 なんと、福島市の市街地ど真ん中に聳える霊峰であり、市民憩いの公園である信夫山(標高268m)に、残念ながら標識こそ無いが、どう考えても、今まで遭遇したレベルを遙かに超越した一の、坂に遭遇したのである。

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    yamaiga 2010/06/07
    <ミニレポ-99>日本最急勾配車道?!
  • 【山さ行がねが】ミニレポート 第97回 国道115号旧道 旧欅橋

    福島県福島市から、ほぼ真東へ阿武隈高地を横断して、太平洋岸の相馬を目指す一の道がある。 この道は江戸時代には相馬の古名から「中村街道」などと呼ばれ、それは内陸と沿岸とを結ぶ塩の道であり、五十集の道であった。 【広域地図(外部リンク)】 この道が近代交通の恩恵に浴したのは比較的早く、関連する市町村の記録にあたってみると、明治10年代から馬車道への改良が始まっていたようだ。そして、明治26年までには一通りの改良が終わったらしく、福島から中村までの全線が揃って県道「中村街道」に昇格している。そして時代が下ると、やがてこれは国道115号となる。 現在の相馬市域の西端に近い玉野地区の街道が、旧来の卒塔婆(そとば)峠から、玉野川の河谷に面した元ルートに切り替わったのも、おそらくその当時であったろう。 左に紹介した明治41年当時の地形図では、既に現道に近いルートが「県道」の太さで描かれているのが分かる

    yamaiga
    yamaiga 2010/06/07
    <ミニレポ-97>けやき橋の旧橋は現存するのか
  • 【山さ行がねが】ミニレポート

    二ッ小屋隧道は明治14年に開通した、万世大路に三つあった隧道の一つである。 このうち、最も米沢側の苅安隧道は昭和改築時に開削され、峠の栗子隧道は国道として昭和41年まで改築使用されたが、旧化して程なく大落盤により閉塞し現在に至る。 万世大路時代の隧道で、唯一通り抜けが可能なのが、この二ッ小屋隧道である。 その延長は、387m。 当初は素堀りであったが、昭和9~11年の大改築工事を経て、車道規格の隧道となっている。 廃止されて40年近くを経ているが、現役末期には内壁の覆工や路面舗装などの2次改修も施されたようで、内部だけを見れば、現代的なトンネルの様相を呈している。 その剥離崩落等の綻びは、年代相応と言えるが。 この二ッ小屋隧道が掘られた場所は、福島市街から小川に沿って奥羽山脈の一座である葡萄沢山を目指してきた万世大路が、この稜線はひとつの隧道では潜りきれるものでないと見るや、おもむろに北西

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    yamaiga 2010/06/07
    <ミニレポ-73>万世大路 もう一つの工事用道路
  • 【山さ行がねが】ミニレポート

    2003.5撮影 福島県福島市 栗子山 道路レポートに掲載した一枚の写真。 この写真が、今なお未解明な部分を数多く残す、万世大路最後の謎の始まりであった。 現地は、海抜850mを越える、万世大路のハイライト栗子隧道福島側坑門直前。 棄てられて30年以上を経た廃道の脇、もはやそこへ近付く方法すら分からないような谷間に、明らかに橋台と分かる一対の石組みの構造物があった。 道路レポートで記したとおり、私はこれを、明治にはじめて万世大路が拓かれた当時の痕跡と考えた。 余りにも風化が進んでおり、非常に古い時代の物と思えたからだ。 しかしレポート公開直後、当サイト掲示板に別の可能性が提示された。 サイト『山形の廃道』の作者にして、廃道界の権威 fuku氏 によるその書き込みの、稿に関する部分をそのまま以下に転載した。 それは、驚くべき内容であった。 さて、詳細不明の橋台ですが、人道橋と云うよりもしか

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    yamaiga 2010/06/06
    <ミニレポ-30>十七重のヘアピンで峰越を…
  • 【山さ行がねが】橋梁レポート 西会津上野尻の大廃橋

    この探索劇は、次のメールから始まった。 差出人は、498氏。 (略)阿賀川をまたぐ白い道が上野尻ダム(柴崎橋)です。ダムといっても、大きい堰という感じです。 そこより南、写真では目立ちませんが航空写真で黒っぽく写っているトラス橋があり、廃橋です。西側の橋げたが落ちています。 トラスの大きさからすると、ちょうど森林鉄道サイズに見えなくもないですが、その生い立ちはまったく不明です。 前述の知人によれば「線路ではなかった」。 私はこの廃橋がずっと気になっているのですが、インターネットで探しても全然ヒットしません。 まるで存在自体が認められていないか、箝口令がしかれているのではないかと思うほど、実に見事にスルーされています。 もし、ここに述べられているような橋が実在するとしたら、これは是非確認する必要がある。 トラス橋は非常に高価で、また耐用年数も大きな事から、そうおおく廃橋として現存する物はない

    yamaiga
    yamaiga 2010/06/04
    <橋梁レポ-13>戦慄の大廃橋。
  • 【山さ行がねが】隧道レポート 国道121号旧道 非道隧道

    三島通庸(みちつね・みっちー 1835-1888)。 私は、果たしてこの名を何度連呼しただろう。 いまや私のPCは“み”と入れるだけで三島通庸と出るまでに成長した。 国会図書館のサイト「近代デジタルライブラリー」で閲覧することが出来る『三島通庸』(平田元吉 明治31年刊)と言う書は、三島の死後10年めに書かれたもので、未だ多くの三島道が現役で活躍していた当時の記録として、きわめて貴重である。 「通庸十年の間、東北に開鑿せし道路は、其の延長実に三百五十里内外にして (中略) 其の工夫を役せしこと三百万人を下らざるべく(中略)橋梁は約百八十を架し、隧道は十個を穿てり……」 ここでは、その名称と現状だけ列挙してみようと思う。リンクが張られているものは既にレポート済みだ。 栗子山隧道  (△現存・閉塞) 二ツ小屋隧道 (○現存) 刈安隧道   (×開削) 関山隧道   (○現存) 座頭頽隧道  (

  • 【山さ行がねが】廃線レポート 会津線旧線 大川ダム水没区間

    最大の内陸盆地である会津盆地の雄都・会津若松。 ここを発して、大川(阿賀川)沿いの国道121号を南下すること15kmあまり、若松の奥座敷と呼ばれる芦の牧温泉のホテル群の、大川峡谷にへばり付くように群れている姿を見るだろう。 更に南下すれば、車窓はますます緑を深くし、ついには長いトンネルに視界を奪われる。そして、いくつかのトンネルを抜けると、あなたは谷を満たす広々とした水面を見る。 大川ダムによって昭和62年に完成した人造の湖、若郷(わかさと)湖である。 この水面下には、49戸の暮らしとともに、歴史深き道たちが幾つも沈んでいる。 鶴ヶ城におわす殿さまの治世のころ、盛んに行商人達が行き交った“南山通り”こと、「会津西街道」。 猛威を振るった天下の土木県令三島の落とし子、明治の「会津三方道路」。 そして、この国道の旧道。 更に、国鉄会津線の線路もまた、延々5.8kmに渡って付け替えられている

  • 【山さ行がねが】廃線レポート 磐越西線 松野隧道

    蔵の街喜多方の片隅に、いまから80年近くも昔に廃止された、一つの鉄道隧道がある。 一般の書籍などでは、おそらくこれまで取り上げられたことはなく、決して派手な存在ではない。 大正7年6月12日をもって通行できなくなったその隧道……松野隧道の廃止理由は、隧道自体の変状にあったという。 それは、決して穏やかな最期ではなかったのだ。 いまや誰も語らなくなって久しいが、おそらくそこにはかつて、慌ただしく測量する鉄道夫達の姿や、それを脇目に恐る恐る通過する蒸気機関車、近在の里々から多くの野次馬も集まったに違いないし、地域の新聞社もここを取材したかも知れない。 かつてこの場所で、……まだ真新しかった一の隧道が廃止された。 その、痕跡を探しに、私は初めて会津の山へと潜った。 四方を山に取り囲まれ、さながら一つの国のような会津地方。 実際に近世までは一つの行政区としてこの地方は存在していたが、その北端に位

  • 【山さ行がねが】廃線レポート 原町森林鉄道 新田川支線

    今回紹介するのは、山行がとしては初の福島県内の森林軌道となる、原町(はらまち)森林鉄道新田川(にいだがわ)支線である。 福島県はかつて南東北3県内最大の林鉄路線網を有しており、特に浜通地方と呼ばれる太平洋岸のエリアから、内陸の阿武隈高地の奥深くへと伸びる路線が多数存在した。 原町森林鉄道もまたそのような路線のひとつで、常磐線の原町(はらのまち)駅は、扇状に山地へ広がった路線網の要であった。 新田川線はその名の通り、新田川に沿って上流を目指した路線で、原町郊外の大木戸付近で線から分岐した新田川線はやがて新田川のV字峡谷に出会い、その後は終点の野手上付近まで新田川と限られた谷間のスペースを奪い合う様にして伸びていた。 昭和4年頃に竣功し、戦後の昭和34年に早々と廃止されている。 この原町駅から終点まで23kmほどもある長大な路線の中で、私が探索を試みたのは中盤の新田川渓谷と呼ばれる部分である

  • 【山さ行がねが】廃線レポート 常磐線 旧隧道群11連発 その1

    これから数回にわたり紹介するのは、常磐線の旧隧道たちである。 常磐線は東京都荒川区にある日暮里駅と宮城県岩沼市の岩沼駅を太平洋岸に沿って結ぶ全長343kmあまりの幹線鉄道である。 首都圏と東北地方を繋ぐ鉄道として東北線を補完するのみならず、福島県浜通地方や茨城県海岸沿い及び宮城県南部の動脈となっており、多くの特急列車や貨物列車が日夜疾駆するこの路線は、東北地方では東北線に次いで歴史の深い鉄道である。 その誕生には東北線同様、日鉄道株式会社が深く関わっており、明治38年に日鉄道によって現在利用されている全線が完成している。 その翌年には国有化され、それまで「磐城線」や「海岸線」などと呼ばれていた路線は、「常磐線」が正式名称となる。 全線開通以前の明治31年に開通した久ノ浜~小高間は丘陵が海岸線に落ち込む縁に鉄道が敷かれており、これらの起伏を突破するために多くの隧道が建設された。

  • 【山さ行がねが】廃線レポート 万世大路工事用軌道

    万世大路工事用軌道は、おそらく正式なこの路線の名前ではないだろう。 しかし、我々は机上・実踏のいずれの調査においても、正式と言える名前に出会えなかったので、この名前をレポートのタイトルとして、採用した。 実際には単に、「工事用軌道」「工事線」などと呼ばれていたようである。 万世大路は、歴史的に見ても東北地方では最も著明な道路遺構である。 それは、現在の国道13号線、福島米沢間を隔てる、栗子峠越えの路であった。 日中でも数少ない、正式に「大路」を冠された道の名は、開道間もない明治14年に、ここを巡幸なされた明治天皇により賜ったものである。 以降、万世大路はその名に恥じぬ主要な街道として賑わいを見せたが、昭和に入り交通の主役は人の足から車へと替わりつつあった。 昭和8年頃から、万世大路を国道13号線の新しい峠道として改良する大工事が行われ、以後、昭和40年代に現在の東西栗子トンネルのバイパス