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  • 大和一向一揆。戦国大和の宗教戦争 - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 一向一揆というと、加賀一向一揆、長島一向一揆、歴史マニアの方なら三河一向一揆などが有名ですね。 興福寺の勢力が強かった奈良、大和国とは一見無縁のようにも見えますが、実は興福寺や筒井氏をはじめとする国人達と願寺門徒たちの、激しい闘争が繰り返された地であることをご存じでしょうか。 大和における浄土真宗 大和天文一揆 寺内町の興亡 現在の奈良を形作る 大和における浄土真宗 さて、大和国といえば、古代からの仏教勢力が、精神世界だけでなく世俗権力としても大きな力を振るっていたことで知られます。 特に平安末期から中世にかけては、興福寺が事実上、大和の支配者として君臨していました。 www.yamatotsurezure.com このような大和にあって、鎌倉新仏教の浄土真宗が入り込む余地などないかに見えますね。 浄土真宗の草創期である鎌倉時代、やはり奈良盆地での布教は難しかったよう

    大和一向一揆。戦国大和の宗教戦争 - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2020/06/11
    中世大和で激しく争った興福寺と本願寺。この両宗教勢力は、現在の奈良を形作るうえで大きな役割を果たしました。
  • 「法隆寺の鬼」と呼ばれた男。最後の法隆寺宮大工、西岡常一(5) - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 不世出の宮大工、西岡常一棟梁をご紹介してきた当記事も今回が5回目で、最後となります。 薬師寺では金堂と西塔が再建され、その後も伽藍復興が続くことになります。 www.yamatotsurezure.com 常一は引き続き薬師寺棟梁として、この大事業に携わっていきました。 白鳳伽藍の復興 事に仕えて意気に感ず 知識人になるな さいごに 白鳳伽藍の復興 1979(昭和54)年、西塔の再建が進む中、中門と回廊の再建、そしてかつての伽藍にはなかった玄奘三蔵院の新たな建立が決まり、常一はこれらの設計試案に携わります。 後に昭和、平成と続くことになる薬師寺の復興伽藍構想が具体的に動き出したのはこの頃でした。 1981(昭和56)年4月に西塔が再建されると、次は中門の実施設計にあたり、翌1982(昭和57)年に中門の工事が始まります。 中門は、国宝である法隆寺東大門と同じ、天平の様式

    「法隆寺の鬼」と呼ばれた男。最後の法隆寺宮大工、西岡常一(5) - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2020/06/03
    西岡棟梁の生き方は到底真似の出来るものではないですが、様々な生きるヒントを与えてくれます。
  • 奈良から名古屋へ新幹線通勤している件(番外・テレワーク編) - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 www.yamatotsurezure.com 2020年4月から、会社の部門異動で勤務先が名古屋になり、自宅のある奈良県大和郡山市から名古屋まで通勤することになった、…のもつかの間。 折からの新型コロナウィルス感染拡大にともなって、私の勤務先でも4月の中頃から環境の整ったメンバーから在宅勤務に切り替わっていき、私も4月末のGW直前からテレワークすることになりました。 長距離通勤にも慣れてきた頃だったので、戸惑いもありましたが、こればかりは仕方がありません。 という訳で、1か月足らずで新幹線通勤が中断。 再び人生初の体験です。 今年はまだ半分も終わってないというのに、個人的にも次々と色々なことが起こる年になりました。 どこで働くか テレワークで困ったこと テレワークでよかったこと どこで働くか さて、在宅勤務が決まって最初に悩んだのが、「どこで働くか」。 在宅勤務なんだ

    奈良から名古屋へ新幹線通勤している件(番外・テレワーク編) - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2020/05/26
    6月から、何日か出社日できそうです。
  • 「法隆寺の鬼」と呼ばれた男。最後の法隆寺宮大工、西岡常一(4) - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 最後の法隆寺宮大工棟梁、西岡常一棟梁の足跡をご紹介する記事の今回は4回目です。 www.yamatotsurezure.com 戦後、法隆寺金堂の復元修理を終えた後、広島県福山市の明王院の解体修理、法輪寺三重塔の再建に参加していた常一ですが、いよいよ常一の宮大工としての集大成ともいうべき仕事に取り組むことになります。 薬師寺宮大工棟梁となる 金堂再建 法輪寺三重塔再着工と父楢光の死 薬師寺西塔再建 薬師寺宮大工棟梁となる 1967(昭和42)年、薬師寺の管長に高田好胤が就任します。 好胤といえば、話の面白いお坊さんとして有名ですね。 仏法の種をまくことが、自身の使命と考えた好胤は、修学旅行生への法話に力を入れ、ユーモアあふれる法話が人気を博し、東京の三越劇場でも多くの聴衆を集めて法話を行うほどの有名人でした。 そんな好胤が管長となって目指したのが、歴代薬師寺住職たちの悲

    「法隆寺の鬼」と呼ばれた男。最後の法隆寺宮大工、西岡常一(4) - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2020/05/18
    薬師寺西塔の再建は、当初大きな反対に遭いました。その理由がなんと「景観破壊」です。薬師寺の復興伽藍は、「滅びゆく美」に対する強烈なアンチテーゼでもあるのです。
  • 奈良県の怪異・妖怪の伝承(8)「たたり・怨霊」 - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 古来より、恨みを抱いて亡くなった死者が、怨霊となって祟る、怪異をなすというお話は多いですね。 四谷怪談や番町皿屋敷など、怨霊は怪異譚の定番ともいえる題材ですが、今回は奈良県に伝わる怨霊にまつわる怪異譚をご紹介したいと思います。 寺つつき 蘇我入鹿の首 長屋王 井上内親王と他戸親王 怨霊とは 寺つつき さて、奈良県で怨霊にまつわる怪異というと、実のところ古代の権力争いに破れた者の、恨みや祟りといったものが非常に多いのが特徴です。 寺つつきという妖怪も、そんな怪異のひとつになります。 江戸時代の妖怪画の大家、鳥山石燕の「今昔画図続百鬼」でも描かれたこの妖怪。 聖徳太子によって討伐された物部守屋が怨霊となって妖怪となり、法隆寺や四天王寺などの聖徳太子ゆかりの寺をつついて、破壊しようとしたと伝えられます。 「源平盛衰記」では鷹に化身した聖徳太子により追い払われ、二度と現れなくな

    奈良県の怪異・妖怪の伝承(8)「たたり・怨霊」 - 大和徒然草子
  • 「法隆寺の鬼」と呼ばれた男。最後の法隆寺宮大工、西岡常一(3) - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 不世出の宮大工、西岡常一棟梁をご紹介してきましたが、今回3回目となります。 1934(昭和9)年に始まった法隆寺昭和の大修理は、日中戦争とそれに続く太平洋戦争の時期に重なり、棟梁の一人として解体修理に従事していた壮年の西岡常一は、3度の招集を受けて戦地と修理現場の往復を繰り返すことになりました。 www.yamatotsurezure.com 戦争を乗り切り、法隆寺に復帰した常一でしたが、戦後の混乱で修理は停滞し、常一も家族を抱えながらうやわずの困窮に陥ります。 1949(昭和24)年、失火により法隆寺金堂が焼失する事件がきっかけとなり、修理が格的に再開されると、常一は棟梁として金堂の復興、復元修理に取り組みました。 明王院解体修理への参加 法輪寺三重塔の再建 内弟子をとる 明王院解体修理への参加 1954(昭和29)年10月、20年にわたる法隆寺の大修理はついに

    「法隆寺の鬼」と呼ばれた男。最後の法隆寺宮大工、西岡常一(3) - 大和徒然草子
  • 奈良から名古屋へ新幹線通勤している件(1) - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 私事で恐縮ですが、2020年4月から勤め先での部門異動で勤務地が名古屋に変わり、現在自宅のある奈良県大和郡山市から、毎日名古屋に通勤しております。 2月の末に大阪から名古屋へ勤務地の変更を告げられ、家庭の事情で、家族を連れて引っ越しを伴う転勤が難しく、どうしたものかと悩んだ末に、勤め先で最近導入された新幹線通勤をチョイスしました。 今回は、新幹線通勤を選んだ経緯やメリット、デメリットなど、ご紹介したいと思います。 私と同じように、転勤を告げられ、単身赴任と新幹線通勤、どちらにしようと悩んでおられる方の参考になればと思います。 突然の勤務地異動 通勤の準備 新幹線通勤のメリット 新幹線通勤のデメリット 最後に 突然の勤務地異動 突然名古屋への勤務地変更を打診されたのが、2月の末。 家庭の事情で、家族を連れての引っ越しが難しい私は、目の前が真っ黒になりました。 単身赴任にな

    奈良から名古屋へ新幹線通勤している件(1) - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2020/04/28
    長時間通勤ですが、単身赴任より新幹線通勤を選んだ事情をまとめてます。
  • 三成に過ぎたるもの。嶋左近(4) - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 前回は筒井氏の伊賀転封から、嶋左近(島左近)の筒井氏退去、石田三成の家臣となるまでの動向をご紹介しました。 www.yamatotsurezure.com 今回は三成のもとでの左近の活躍を追っていきたいと思います。 文禄の役と大和検地 佐和山での左近 関ヶ原 文禄の役と大和検地 前回、1592(天正20)年4月に、左近のが佐和山に暮らしており、この時期には三成と行動を共にしていた可能性が高いとご紹介しました。 三成のもとでの左近の活躍についても、筒井氏時代と同じく、同時代の一次史料がほとんど残されておらず、現在知られる活躍のほとんどは、後世書かれた軍記物によるものになります。 筒井氏同様、石田氏も大名家としては絶えてしまったため、家中の文書が残らずに散逸してしまい、左近の事跡も主人の三成の陰に隠れてしまって、具体的な事実がなかなか伝わっていないということでしょう。 さ

    三成に過ぎたるもの。嶋左近(4) - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2020/04/13
    三成の家臣になった後の島左近についてまとめてみました。
  • 2020年4月、新型コロナで春のイベント中止でも桜は咲く。郡山城、馬見丘陵公園に行ってきました。 - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 今年、2020年は新型コロナウィルスの世界的流行で、様々なイベントが中止になっていますが、奈良県の春の名物イベントであった大和郡山の城址公園を中心に開催される「お城まつり」も、馬見丘陵公園の「チューリップフェア」も、今年は中止されてしまいました(泣)。 しかし、人間社会のイベントは中止されても、花は咲く。 という訳で、4月5日、何かと外出しづらい状況ですが、郡山城と馬見丘陵公園に、家族と花見に行ってきました。 大和郡山城 馬見丘陵公園 大和郡山城 4月5日の10時過ぎ、近鉄郡山駅前の三の丸駐車場に自家用車を預けて、城址公園へ向かいます。 例年、お城まつりの時期ともなれば、こちらの駐車場もこの時間帯はほぼ満車に近い状態ですが、今日はガラガラでした。 「お城まつり」の中止だけでなく、新型コロナウィルスの流行で、皆さん外出自体を避けておられるのだなと実感です。 三の丸緑地を北

    2020年4月、新型コロナで春のイベント中止でも桜は咲く。郡山城、馬見丘陵公園に行ってきました。 - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2020/04/07
    来年こそは新型コロナを克服して、お城まつりに行けますよーに❗️
  • 筒井氏退去と石田三成の家臣となるまで。嶋左近(3) - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 その人生と実像が謎に包まれた嶋左近(島左近)について、筒井順慶の家臣時代について、ご紹介してきました。 www.yamatotsurezure.com 今回は、順慶死後の左近の動向について、ご紹介していきたいと思います。 筒井氏退去 石田三成の家臣へ 筒井氏退去 順慶死後も、左近は筒井定次の旗下にあったようで、1585(天正13)年3月の秀吉による紀州攻めに参加した様子が、「根来焼討太田責細記」に記述されています。 この紀州攻めでは、定次が大きな活躍を見せるのですが、「根来焼討太田責細記」によると、激戦となった千石堀城の戦いにおいて、「根来一の荒法師」とおそれられた守将の的一坊を討ち取ったのは、左近とされています。 後の猛将イメージどおりの活躍といえますね。 同年閏8月に、筒井氏は伊賀に転封となりますが、左近もこれに従って伊賀に赴いたようです。 しかし、実際のところ、史

    筒井氏退去と石田三成の家臣となるまで。嶋左近(3) - 大和徒然草子
  • ならまちに残る花街を巡る。元林院町、木辻。 - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 近年、街歩きを楽しむ方も増え、奈良ではいわゆる「ならまち」エリアが、散策スポットとしてとても人気が出ていますね。 このならまちエリアに、2か所、かつて大いに栄えた花街があるのをご存じでしょうか。 元林院町 木辻 元林院町 まず最初は、元林院町です。 場所はこちらで、猿沢池のすぐ西側にあります。 元林院町は江戸時代には絵師が多く住み、絵屋町とよばれた地域でした。 明治以前には遊所としての記録がないため、花街としては明治維新前後に発展した新興の街だったようです。 1872(明治5)年に遊廓芸妓置屋の開業許可が出されており、前年の1871(明治4)年に「木辻・元林院遊所に来所の者役人より会所に取調書面差し出すこと」というお触れが出ていることから、この年以前には、すでに遊郭が存在していたと考えられます。 1877(明治10)年には堺県が「売淫並売妓席貸業取締規則」を布告し、旧大

    ならまちに残る花街を巡る。元林院町、木辻。 - 大和徒然草子
  • 奈良県の怪異・妖怪の伝承(7)「ガタロ」 - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 奈良県に伝わる妖怪、怪異の伝承をご紹介してきましたが、今回はガタロについてご紹介します。 ガタロといわれて、ぴんとこない方も多いかもしれませんね。 日各地に河童の伝承が伝わっていますが、奈良県地域では水辺に棲むといわれる同種の妖怪はガタロ、もしくはガタロウと呼ばれて伝承されてきました。 奈良県各地に伝わるガタロの伝承とは、どういったものなのか見ていきましょう。 下市町 五條市(旧大塔村地域) 川上村 ガタロ除け 北中和地域 さいごに 下市町 奈良県内では、特に南部の吉野郡に多くのガタロの伝承が残されています。 まずは、下市町に伝わる伝承です。 下市町大字善城(ぜんぎ)にある浄土真宗の古刹、瀧上寺(りゅうじょうじ)の西側に吉野川の支流である秋野川が流れていますが、この川にガタロの伝承があります。 場所はこちらになります。 瀧上寺の裏にある銚子の淵にはガタロが出て、たびた

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  • 大和な雛まつり2020で、町屋物語館を訪れました。 - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 今年は暖冬ですが、いよいよ3月に入り、格的に春の陽気となってきましたね。 毎年、大和郡山では、2月の末から3月3日にかけて、旧市街を中心とした登録文化財や商店、商業施設などで雛飾りを展示するイベント、「大和な雛まつり」が開催されています。 www.yamato-koriyama.com すっかり大和郡山の春の風物詩ともなっているイベントです。 地元なんですが、今年ようやく見に行くことができましたので、メイン会場の一つである町屋物語館の展示を、今回ご紹介したいと思います。 さて、まずメイン会場の一つとなっている、町屋物語館ですが、こちらの建物は、大正時代に建てられた、現存する貴重な遊郭建築です。 この町屋物語館については、別の記事で詳しくご紹介していますので、よろしければこちらもご覧ください。 www.yamatotsurezure.com まずは、玄関から。 さっそく

    大和な雛まつり2020で、町屋物語館を訪れました。 - 大和徒然草子
  • 筒井の右近左近は真実か。嶋左近(2) - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 前回は、謎に包まれた嶋左近(島左近)の出自について、諸説をご紹介しました。 www.yamatotsurezure.com 今回は、またもや謎だらけの、筒井氏時代の左近について、ご紹介したいと思います。 筒井順慶の家臣となった時期 筒井の右近左近 筒井順慶の家臣となった時期 さて、左近といえば、幼くして父を失って家督を継いだ筒井順慶を、若年の頃から支えた侍大将と巷間伝わっていますね。 しかし、意外にも、松永久秀と激しい抗争を繰り広げた、永禄から元亀にかけて、同時代の一次史料には、その名は全く見えません。 左近の名が大和国に見える最も古い痕跡は、春日大社の参道に奉納された1577(天正5)年4月の日付とその名が刻まれた石灯篭になります。 時期的には、前年に信長から塙直政の後任として、筒井順慶が大和守護に任じられ、半年後に松永久秀が信貴山城で滅亡するといった時期です。 もっ

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  • 奈良県の怪異・妖怪の伝承(6)「多武峰の神像破裂」 - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 今回は、平安時代から江戸時代まで度々起こった、多武峰妙楽寺(現談山神社)の「神像破裂」という怪異についてご紹介します。 かつて、天下に異変があるとき、妙楽寺の裏山で藤原鎌足の墓所がある御破裂山(ごはれつざん)が鳴動し、妙楽寺に祀られた鎌足の神像が破裂するという怪異が、幾度も起こり、破裂の記録は「多武峯大織冠尊像御破裂目録」として、現在談山神社の社宝として残されています。 文化財・社宝について|談山神社 しかし、この神像破裂という怪異は、一般にはほとんど知られていないと思います。 今回が初見という方も多いと思いますが、それはどういうことでしょうか。 寺社が発信する中世の怪異とは 神像破裂とは 繰り返される破裂 破裂の終焉 寺社が発信する中世の怪異とは さて、現在「怪異」といえば、幽霊や妖怪などが引き起こす、得体のしれない事象をイメージされるのではないでしょうか。 しかし、

    奈良県の怪異・妖怪の伝承(6)「多武峰の神像破裂」 - 大和徒然草子
  • 奈良県の怪異・妖怪の伝承(5)「マンガ、アニメでおなじみの妖怪」 - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 妖怪というと、水木しげるの漫画や京極夏彦の小説などの創作作品で登場し、広く知られるようになったものも数多くあります。 というか、むしろ皆さんがご存じの妖怪の多くは、そういった創作作品を通して初めて知ったというものが、ほとんどではないでしょうか。 今回は、そういった創作から知名度の高い、奈良県ゆかりの妖怪たちをご紹介したいと思います。 砂かけ婆 べとべとさん 白粉婆(おしろいばばあ) 砂かけ婆 「ゲゲゲの鬼太郎」ですっかりおなじみの妖怪ですね。 ですが、奈良県の伝承に由来する妖怪であることは、ご存じない方も多いのではないでしょうか。 伝承に残る砂かけ婆は、寂しい森や、神社のそばを人が通ると、バラバラと砂を降りかけて驚かせる妖怪で、その姿を見た者はいないと伝わるものです。 とってもシンプルな怪異の伝承ですね。 姿を見たものがいないのに、どうして「婆(ばばあ)」といわれるのか

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  • 謎に包まれたその出自。嶋左近(1) - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 嶋左近(島左近)といえば、関ケ原の戦いで西軍を率いた石田三成の重臣として知られています。 特に関ケ原の前哨戦ともいうべき杭瀬川の戦いで東軍を打ち破り、関ケ原の戦いでも石田隊の主力として奮戦して武名を轟かせ、今も小説漫画映画ゲームなどにも登場する戦国の有名人です。 一方、これだけ有名にもかかわらず、その実像に謎が多い武将でもあります。 特に三成に仕える以前、筒井氏時代の活動については、信憑性において有力な多聞院日記などの同時代に書かれた一次史料にほとんど名が見えず、その出自や、いつから筒井順慶の家臣だったのか、などについても深い謎に包まれています。 三成に仕える以前は、大和国の国人大名である筒井順慶の有力家臣で、幼主を松倉右近と支えた、などの巷間伝わる左近像の多くは、江戸時代に書かれた軍記物「和州諸将軍傳」などにしか見られないもので、諱や出生にも諸説入り乱れていると

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  • 奈良県の怪異・妖怪の伝承(4)「大和郡山の不思議な話」 - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 これまで3回にわたって、奈良県各地に広く伝わる妖怪たちについてご紹介してきました。 今回は少し趣向を変えて、地域に語り継がれる不思議なお話を紹介しようと思いましたので、私の地元、大和郡山に伝わる怪異や、不思議な伝承をご紹介します。 三の丸蛙 源九郎狐 嫁取り橋の大蛇 牛の宮 三の丸蛙 まず最初は郡山城に関する怪異です。 郡山城の三の丸(現在の大和郡山城ホールから市役所にかけての区域)には、梅雨時になると2、3mmほどの、とても小さな蛙が何万匹も現れたといいます。 これを三の丸蛙といい、城で処刑された者たちの妄念といわれています。 何万匹もの小さな蛙がうごめくというのは、なかなかグロテスクな光景ですね。 現在郡山城三の丸の堀は、市役所前にちょっとだけしか残されていませんが、昔は 蛙や水辺の生き物も多かったのでしょう。 源九郎狐 大和郡山市街の洞泉寺町に、源九郎稲荷神社とい

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  • 国技相撲と向き合った不世出の哲人力士、笠置山 - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 2020(令和2)年の初場所は、奈良県出身としては98年ぶりに、徳勝龍が西前頭17枚目からの劇的な優勝を遂げました。 奈良県は、「相撲発祥の地」(あくまで神話上ですが…)ともされているものの、明治以降の大相撲の歴史の中で幕内力士は10人ほどで、奈良県出身力士は決して多いとは言えません。 そんな奈良県出身力士の中で、その異才ぶりが、際立っている力士がいます。 その名は、笠置山勝一。 昭和初期に大相撲で活躍した力士で、最高位は西関脇。 引退後は年寄、秀ノ山を襲名して、テレビ朝日系で1959(昭和34)年から2003(平成15)年まで、場所中放送されていた「大相撲ダイジェスト」の初期解説者として、お茶の間でも広く知られた人でした。 この笠置山という力士の異才ぶりを、今回はご紹介したいともいます。 異色の学士力士 「国技相撲」の誕生 現役力士笠置山、国技相撲と向き合う 笠置山

    国技相撲と向き合った不世出の哲人力士、笠置山 - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2020/01/30
    笠置山は奈良県が生んだ不世出の異才であったと思います。
  • 強訴。時の権力者を震撼させた興福寺 - 大和徒然草子

    皆さん、こんにちは。 平安時代末期から、興福寺は各所に荘園を持ち、それを守るための大きな武力も備えて、中世大和の支配者として君臨しました。 www.yamatotsurezure.com 興福寺が中世、その力を世に示した行動に「強訴」があります。 畿内の大寺院は、平安末期から自身の権益を守るため盛んに強訴を行うことで、時の世俗権力を動かしてきました。 数ある寺院の中でも、興福寺と延暦寺は「南都北嶺」と権力者から恐れられ、とくに盛んに強訴を行った寺院として知られます。 興福寺の強訴は平安時代末の10世紀から室町時代後半の16世紀にかけ、実に80回以上に及び、その多くで時の権力者たちは、興福寺の要求をのまざるを得ませんでした。 院政期以降は、朝廷も武士を動員して強訴に対抗することもあり、武力だけで権力者を動かすことは難しかったはずです。 にもかかわらず、興福寺の強訴は、どうしてこれほどまでに効

    強訴。時の権力者を震撼させた興福寺 - 大和徒然草子