皇太子時代の昨年7月、研究者の一人として講演する天皇陛下=東京大学伊藤国際学術研究センターで(陽明文庫HPより) 天皇陛下は、平安時代以降の貴族の乗り物「牛車(ぎっしゃ)」に関する論文を、即位前に出版された刊行物に寄稿されていた。学習院大学史料館客員研究員として二十年以上にわたる研究成果の一つで、研究を通じて交流のあった専門家の証言などから、一次史料に誠実に向き合う学者・天皇の素顔が浮かび上がってきた。 (編集委員・吉原康和)
昭和天皇の実像に迫る第一級の資料を、手に取って読めるようになります。 初代宮内庁長官が戦後占領期などの5年近くにわたる昭和天皇との対話を詳細に書き残した『拝謁記』が、今年12月から順次公刊されることがわかりました。 『拝謁記』は、戦後の日本国憲法のもとで昭和23年から5年半にわたり宮内庁やその前身の宮内府のトップを務めた田島道治が、手帳やノートあわせて18冊に在任中の600回余りの昭和天皇との対話を詳細に書き留めたもので、長年極秘に保管されたあと、おととし夏に内容が明らかにされ、大きな反響を呼びました。 『拝謁記』によって、昭和天皇が ▽敗戦後の退位を巡る問題が決着したとされる東京裁判の後にも、退位の可能性に言及していたことや、 ▽独立回復後の安全保障が現実的な課題となる中で、戦前のような軍隊を否定しつつも、再軍備やそれに伴う憲法改正の必要性に繰り返し言及していたことが初めて明らかになりま
天皇陛下は12月23日、85歳の誕生日を迎えます。来年、2019年4月30日に退位しますが、即位以来、皇后さまとともに19回28カ国、皇太子時代からだと通算51カ国の外国訪問を重ねてきました。「国際親善の基は人と人との相互理解」との考えから、各国の指導者だけでなく、市民とも積極的に交流してきました。 なかには、第2次世界大戦後50年以上たってなお、日本による戦争の被害を訴える人々の心の傷を目の当たりにする旅もありました。過去への姿勢が問われた訪問のうち、1992年の中国、98年の英国、2000年のオランダ訪問を、当時を知る人々の証言から振り返ります。 先代から持ち越された宿題 天皇の中国訪問は、先代からの宿題だった。 昭和天皇は訪米を控えた1975年9月26日、米タイム誌のインタビューで「もし日中平和友好条約が締結され、中国を訪問する機会が訪れれば非常にうれしい」と答えている。 侍従長を長
日米開戦前日の1941年12月7日夜、東条英機首相が政府高官に開戦について語った内容が、メモとして残っていることがわかった。東条はこの日昼、開戦当日の予定を昭和天皇に説明したことにも言及。戦争に反対していた天皇が開戦を決意し、軍が一致して行動する状況になったことで「すでに勝った」と発言するなど、太平洋戦争に突入する前夜に高揚する東条の胸中を初めて伝える貴重な史料だ。 メモは、当時の湯沢三千男内務次官(1963年死去)の遺品から見つかった。東条の言葉を便箋5枚に書き残したもので、「十六年十二月七日(日曜日) 午後十一時二十分」との日時も書かれている。 昭和天皇は主戦派の陸軍を抑えるため、41年10月、陸相の東条に組閣を命じ、外交交渉で戦争を回避する検討も求めた。だが米側の最終提案「ハル・ノート」が届き、交渉を断念。12月1日の御前会議で開戦を最終決定し、8日未明、米ハワイの真珠湾を攻撃した。
参議院議員 西田昌司 オフィシャルブログ Powered by Ameba 参議院議員 西田昌司 オフィシャルブログ Powered by Ameba 東京事務所のおかぴです。 本日参議院では、10時から沖縄及び北方問題に関する特別委員会が、午後1時からは内閣委員会が開かれました。 内閣委員会では昨日に引き続き、特定複合観光施設区域整備法案について審議されました。委員会の冒頭45分は、東洋大学国際観光学部の佐々木一彰准教授、静岡大学人文社会科学部の鳥畑与一教授、阪南大学の桜田照雄教授からの意見陳述があり、その後参考人に対する質疑がありました。自民党からは和田政宗先生が質疑に立たれ、IRの役割や規模、カジノを含むIRの効果などについて参考人に質問されていました。 西田議員は、朝8時より開かれた党本部での部会「歴史を学び未来を考える本部」に出席しました。 この会は月に2度ほど開かれており、これ
歌舞伎座の会員誌である「ほうおう」を読んでいて、『雷神不動北山桜』(なるかみふどうきたやまざくら)の見どころを読んでいたら、いきなり変成男子に出会ったのでメモ。手元にある『歌舞伎手帖』も見たが、この件については何も書いていなかった。 この話はもとは1742年に初演。そこで背景の重要人物の陽成天皇はもともとは女として生まれるはずだったが、女を変えて男になった<変成男子>であったという話である。その行法を行ったのは、鳴神上人である。安倍清行が、陽成天皇の異母兄である早雲が天皇になるとよくないから、本来女子として生まれる陽成を男にする行法であった。 陽成天皇は平安時代前期の9世紀末に皇位にいた。Wikipedia を読んだけれども、私の知識がなさすぎて、そこに書いてあることと変成男子との関係がまったく分からない(笑)また、18世紀の半ばに、陽成天皇が本来は女だという設定が歌舞伎に出る社会というの
Posted September. 22, 2017 09:13, Updated September. 22, 2017 09:32 1975年7月17日、戦没者戦災犠牲者を追悼する沖縄の「ひめゆりの塔」。皇太子明仁親王(当時)が訪問した時、火炎瓶が飛んできた。洞窟に潜伏して1週間待っていた2人の青年の犯行だった。第2次世界大戦当時、玉砕作戦で12万人以上の沖縄の住民が犠牲になった。戦争責任がある天皇の長男の訪問が許せなかったのだ。事件の収拾後、皇太子は訪問を終えた。 ◆天皇が20日、埼玉県日高市の高麗神社を初めて訪れた。高句麗最後の王である宝蔵王の息子若光と遊民1799人が亡国の恨みを抱いて1307年前にここに定着し、子孫は若光を称えて神社を建てた。参拝すれば出世するという俗説もある。参拝後、首相や大臣になった政治家だけでも斎藤実をはじめ6人。「捜査が解決する」という噂も一時広まり、検
「これでいいじゃないか」――。日本国憲法起草のもとになった連合国軍総司令部(GHQ)草案の受け入れをめぐり、1946年2月22日に昭和天皇が幣原(しではら)喜重郎首相(当時)と面談した際の天皇の発言を示すメモが、憲法学者の故宮沢俊義・東大教授のノートに記されていたことがわかった。「安心して、これで行くことに腹をきめた」という幣原氏の心情も記載されている。 ノートには、46年9月ごろ、宮沢氏ら貴族院特別委員会のメンバーが幣原氏から首相官邸に呼ばれ、「内話を聞かされた」なかでの、幣原氏と昭和天皇のやりとりが備忘録的に記されていた。高見勝利・上智大名誉教授(憲法)がメモの記述を見つけた。ノートの原本は立教大学図書館に所蔵されている。 幣原氏と面談した際の昭和天皇の発言に関しては、GHQ作成の資料に、天皇自身が徹底的な改革を望み、草案を「全面的に支持する」と述べたとの記載があり、様々な文献にも引用
「中国観」明確に示した天皇=佐藤首相、発言を利用か−「内奏」重く受け止め マイヤー駐日米大使(左)と会談する佐藤栄作首相=1969年11月11日、東京・首相官邸 昭和天皇は戦後も、首相や閣僚と個別に会い、所管事項について口頭で報告を受ける「内奏」を通じて国政に関して意見交換し、歴代首相らは天皇の発言を重く受け止めてきた。史料や日記などの公開で天皇の政治的発言が公になることはあった。ただ国連中国代表権問題が佳境を迎えた1971年、昭和天皇が佐藤栄作首相(当時)に「蒋介石支持」を促し、佐藤氏がそれを米大使に伝えていたことについて、成蹊大学法学部の井上正也准教授(日本外交史)は「外交問題で昭和天皇が明確な姿勢を示した記録は珍しい」と解説する。 昭和天皇「蒋介石支持を」=国連代表権問題、佐藤首相に促す−日米文書で判明 日本国憲法は第4条で「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政
蒋介石総統率いる中華民国(台湾)政府が国連の代表権を失う直前の一九七一年六月、佐藤栄作首相が米国のマイヤー駐日大使(共に当時)と会談した際、昭和天皇から「日本政府がしっかりと蒋介石を支持する」よう促されたと伝えていたことが分かった。秘密指定解除された米国務省の外交文書で判明した。台湾の国連代表権維持への後押しを伝えたものとみられる。天皇の政治問題への関与発言が公になるのは極めて異例だ。 この問題について、日本の外交文書にも「陛下が(中国問題を)心配しておられた」というマイヤー大使に対する佐藤首相の発言が記載されている。昭和天皇の発言の背景には、蒋介石が終戦直後に中国に残った日本人の引き揚げや天皇制の尊重、対日賠償請求権の放棄など「以徳報怨」(徳をもって恨みに報いる)と呼ばれる寛大な対日政策を取ったことに「恩義」や「信義」を持ち続けていたことがあると思われる。しかし、国連代表権は七一年十月、
13年前に公開された大正天皇の活動記録、「大正天皇実録」について、宮内庁は個人情報の保護などを理由に一部を黒塗りにした当時の措置を見直し大部分を公開しました。病弱で悲運の天皇として知られる大正天皇の体調や病状、未発表の動静などの詳細が明らかになりました。 一方、去年完成した昭和天皇実録は個人情報にあたるものも可能なかぎり、公開するとして黒塗りは行われず、NHKでは大正天皇実録についても同じ基準で公開するよう申請し、宮内庁は当時の措置を見直して黒塗り部分のおよそ8割を解除しました。 この中には、病弱だった大正天皇が事実上、引退する原因となった発語障害や歩行困難などの体調の異状や、晩年の脳貧血の病状などが詳しく記されている箇所もあります。 また、即位後、元老の山県有朋などの要人と頻繁に会っていたことや、第1次世界大戦について軍の幹部から、たびたび説明を受けていたことなども分かりました。 こうし
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "信楽焼" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2014年2月) 信楽壺 ロサンジェルス・カウンティ美術館蔵 一重口水指 銘 柴庵(ひとえぐちみずさし めいしばのいおり) 桃山時代 東京国立博物館蔵 重要文化財 信楽焼(しがらきやき)は、滋賀県甲賀市信楽を中心に作られる陶器で、日本六古窯のひとつに数えられる。一般には狸の置物で知られているが、後述のように多様な発展を遂げている。中世に生産された蹲(うずくまる)でも知られる。 信楽は、付近の丘陵から良質の陶土がでる土地柄である[1]。長い歴史と文化に支えられ、伝統的な技術によって
「歌はかけがえのない喜び」 岡本知高(高知県宿毛市出身)CDデビュー20周年 ベストアルバム発売 3月に宿毛市、高知市で公演
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く