1903年7月18日付けの土宜法竜宛書簡に見られる図。この時期の熊楠は、和歌山県那智村(現那智勝浦町)市野々(いちのの)の大阪屋に籠って読書と植物採集、論文執筆に没頭していた。その那智山中から、熊楠はたびたび「小生の曼陀羅」と称する、科学と大乗仏教を接合する世界認識の方法を、土宜に向けた書簡において論じた。この図は、そうした試みの一つとして熊楠が描いたもので、中村元が「南方マンダラ」と呼び、鶴見和子が熊楠思想の根源をなすモデルとして紹介したために広く知られるようになったものである。 従来、数度のコピーを経た図が流布していたが、今回公開するのは南方旧邸調査の過程で、原書簡から直接デジタル撮影を行った写真である。濃淡から熊楠がこの図を描いた際の筆の流れが読みとれる。(松居竜五) このページに掲載された資料は、田辺市が所有しています。如何なる形でも、田辺市の了承なしに図版を再利用することはできま