今日(既に昨日になっている)はオフ会だった。わたしが入っている「在日コリアン」コミュのオフ会。 単純に感想を書くと、みんな初対面だったんだけど(そりゃそうだ。だって、わたしはあのコミュのオフ会は初参加だもん)、なんて言うのかな、取り敢えず、ハンドルネームを聞くと「ああ」ってみんな思うような人だったって言うか、わたしもそれなりに書き込みはしている(していた?)ので、まぁわたしがどういう人間かは分からないにせよ、レズビアンであることくらいは多分、みんな知ってたと思う(笑) でもねー、確かに初対面は初対面なんだけど、で、わたしは誰も知り合いがいないオフ会ってのは、とても人見知りをするので苦手なんだけれど、でもなんだかよく分からないけど、とても楽しかった(笑)真面目な話からエロい話まで、ごっちゃごちゃで。 あ、初めて「マッコリ」っつーどぶろくみたいな酒も飲んだ。ちょっとだけね。あとはよく分からない
ふと気がついたのだが。 「ゲイ・レズビアンは人口の数%います」 という、よく聞くフレーズは、正しい。 「ゲイ・レズビアンの人権を守りましょう」 という、よく聞くフレーズも、正しい。 だが、この二つを組み合わせた 「ゲイ・レズビアンは人口の数%いるので、人権を守りましょう」 というフレーズは正しくない。 論理的でない、あるいは論理があるとすれば、危険な論理だからだ。 すなわち、「少数だといっても、クラスに一人くらいはいる、けっこうな数なので、人権を尊重しましょう」という論理が成り立つとすれば、 「人口の0.000001%しかいなくて、日本に1人くらいしかいないので、そんな、めったにいなくて、一生会うこともないようなやつの人権はふみにじってもかまわない」という論理も成り立ちかねないので。 ありがちな言説だけに要注意。 もちろん 「数%なので、選挙民としてもあなどれません」 「数%なので、性教育
クィア学会第一回大会@広島修道大に。シンポジウム「<日本>は<クィア>か?」を拝聴。シンポジストは中村美亜さんと田崎英明さん。 中村さんは「"人種化"問題とクィア・ポリティクス」と題して発表。発表ではまず、アメリカにおける"queer"という概念には対立するセクシャルマイノリティのコミュニティ間をつなぐという意図があったが、日本では仲間の連帯に向かったと、日本における<クィア>の受容を概説。次に、2002年のGwen Araujo殺害事件(彼女に性的関心を持った男が彼女がトランスであるということに逆上し彼女を殺害したというもので、裁判では「トランス・パニック」が争点となった)とこの事件を分析したTalia Bettcherの論文(トランスフォビアは性器とジェンダー表象を結びつける異性愛主義規範であり、人を「人種化」し暴力を容認する社会問題だとする)から、身体とアイデンティティと自己のオーセ
11月9日に開催されたクィア学会の分科会に行ってきた。*1クィア学会ということで、論題も多種多様。法や歴史、哲学的な考察もあれば、実証研究や運動論もあった。その中で、私が度肝を抜かれたのがローラン・エリック「日本における性人類学のフィールドワークでの”性的参与” ―男性同性愛学的な研究の例」である。 エリックさんは、日本の男性同性愛者を対象に、インタビュー調査を行っている。その際、インフォーマント(調査対象者)を、本来は性的な相手を募集する場で探したという。エリックさんは、その行為を、場のルールを無視した、領域侵害だと考えている。その前提の下で、インフォーマントから、性的行為*2の誘いを受けたとき、調査者はどう対応すべきかについての方法論を考察している。また、フランスで同様の調査を行ったときには、インフォーマントから性的行為の誘いを受けることはほとんどなかったという。さらに、日本で別の目的
2004年9月執筆。抄録。 ふと思いたって、『ヴァン・ヘルシング』を見てきました。すでにPS2向けのアクションゲーム版が発売済みですが、映画のほうも、家庭用アクションRPGゲームのフォーマットを多分に意識して作られているように見受けられます。まず本編から独立したプロローグのシークエンスがあって、映像テクノロジーと世界観のデモンストレーションがおこなわれ、それから主人公が登場し、ある使命を与えられるところから本編がスタートする。主人公はアイテムを獲得し、仲間を集めてパーティーを組み、マップ上を移動しながら情報を集めて、しかるべきイベントを消化し、アクションステージで襲ってくる何種類かの敵キャラクターを粉砕してゆくと、最終的な謎の究明とラストボスへのルートが開け、そこまで集めてきた情報とアイテムを駆使してボスを倒すと、真のエンディングに到達できる。(主に日本製の)アクションRPGゲームの典型的
旗旗 - ブログ「旗旗」 : 「おいコラ!在日!」と言われた時 by 草加耕助 大分昔のエントリのようだが(はてなブックマークで見つけた)実に興味深かった。「差別を非難しているが自分も無自覚に差別している人を非難する」内容なのだが、『その「差別を非難しているが自分も無自覚に差別している人を非難する」人が差別問題(少なくともその重要な一側面)に無自覚』という、メタ的な構造になっていたからだ。筒井康隆の断筆事件以来差別問題が趣味のひとつである私としては、ここにもう一段メタを重ねてみたいと思う。 最初の方からなんとなく「一部の動物はもっと平等である」的な戯画的危うさを予感しながら読んではいたのだが、背中につららを突っ込まれたような恐怖が走ってしまったのはこの部分、 「自分が部落だろうが在日だろうがユダヤ人だろうが、そんなことどっちでもよろしい。私という人間の評価や人生になんの違いもありま
しゃべくりメモ。 ・『LotR』三部作:全編通じて、あっちではイケメンがギラギラしながら美少年に迫り*1、こっちではイケメンふたりがひねもすいちゃいちゃいちゃいちゃ…、と、古典的ハリウッド映画の「見る・欲望する男性=ヒーロー → 見られる・欲望される女性=エロティックなスペクタクル」という性別分業がほぼ無効化し、「ヒーローとして物語進行の主導権を握る」のも「エロティックなスペクタクルとして肉体をディスプレイされる」のもここでは男性。ただし、『王の帰還』での戴冠式は結婚式*2を兼ね、三部作をしめくくるラストショットが夫婦(♀×♂)と子どもふたり(♀+♂)の核家族のホーム・スイート・ホームのドアであることからも明らかなように、一面では異性愛主義は徹底遵守される。つまり、「女性を除外した異性愛男性同士の濃密な絆」という、昔ながらのホモソーシャルが強化されて回帰してきた形態ともいえる。ただし、この
資料紹介 ジェンダークィア、あるいはジェンダーの自由の公正な分配 --「トランスジェンダリズム」批判 1.はじめに 私も編集段階から関わった書に、 『トランスジェンダリズム宣言・性別の自己決定権と多様な性の肯定』 がある。この書は、性別の越境について、「性同一性障害」というものの見方に対して、「トランスジェンダー」(これの意味するところは後で論じる)という見方を提示するものであった。この書が出版されてから2年、その間に「性同一性障害特例法」の成立・施行、それに付随するマスメディアでの「性同一性障害ブーム」があり、情勢は大きく変わった。それと共に、「トランスジェンダー」というあり方の意味するものも、大きく変質したのではないかと思う。本文は、この書の出版と、それに関連した動きについての、私なりの総括である。 この点、提示された「トランスジェンダリズム」とは、最大公約数的に見て、性別を個人の
ごめんなさい、以下にトランスに関して考える上で重要な取り組みを文章化するとしたら、どのようなものになるかを試したらくがきがあります。ですが、それは私の実際の正義ではなく思考実験の一つとして書いたものですので、その点勘違いしないで下さい。 トランスジェンダーに対する生活の保護や差別の反対を考えるとき、えてして「トランスジェンダーの人に対してどのような対応・措置が必要か」という論点に絞られるときがあるかもしれない。 もちろんそれも重要なのだけれど、実は私たちにはもっと身近に考えるべきことがある。それは私たちの消費・維持しているジェンダーに関した文化であり、すなわち美的基準だ。 たとえば私は日常的にレディスも着ているが、ジーンズとか比較的ユニセックスな格好しか着たことはない。そんな私だけれど、男装したいという欲求と同程度には女装をしていたい欲求がある。が、外見が男性な私がスカートとかを着たら、お
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