明智光秀が織田信長を討った「本能寺の変」の直後、長浜城(滋賀県長浜市)にいた羽柴(豊臣)秀吉の母や妻らを安全な場所へ逃がすのに手助けした家臣に対し、秀吉が宛てた書状が見つかった。「奔走してくれてうれしい」と感謝の意を示した内容。写しなどから逃避行の史実は知られていたが、原本は長年所在がわからなかった。 長浜城歴史博物館(長浜市)によると、書状は「羽柴秀吉・秀勝連署宛行状(あてがいじょう)」(縦17・1センチ、横48・6センチ)。 本能寺の変が起きた天正10(1582)年6月2日、秀吉は中国攻めの司令官として備中高松城(岡山市)を攻略。明智光秀の軍勢に留守中の長浜城が攻められる危険があったため、母なかや妻おね(ねね、北政所(きたのまんどころ))、おねの兄らは城を脱出し、美濃国広瀬村(岐阜県揖斐川町)の広瀬兵庫助(ひょうごのすけ)の館にかくまわれたとされる。実際、光秀軍は城を占拠したが、秀吉は
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