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bookと仏教に関するakihiko810のブックマーク (22)

  • 『禅と福音 仏教とキリスト教の対話』を読む - 関内関外日記

    禅と福音: 仏教とキリスト教の対話 作者: 南直哉,来住英俊 出版社/メーカー: 春秋社 発売日: 2016/08/22 メディア: 単行(ソフトカバー) この商品を含むブログを見る 南 キリスト教の場合、「神がこの世界をつくった」とか「最後の審判がある」ということが神の言葉として聖書に出てくる以上、これを否定したらキリスト教にならない。ところが仏典は、どこからどこまで読んでも、悟った瞬間どうなったかといった話はない。ニルヴァーナがどういう状態なのか、ニルヴァーナが何であるか、まったくわからない。 結局、一番肝心要のことは読んだ人間が想像して解釈するしかない。その真偽を判定する根拠はパーリ経典のどこにもない。テーラワーダの人が何を言っても「あんたはそう思うのね」以上の話にはならない。 おれは仏教をいろいろと読んでいたが、仏教徒と異教徒の対話というものは読んだことがなかった。山折哲雄と

    『禅と福音 仏教とキリスト教の対話』を読む - 関内関外日記
  • 『超越と実存「無常」をめぐる仏教史』を読む - 関内関外日記

    超越と実存 「無常」をめぐる仏教史 作者: 南直哉 出版社/メーカー: 新潮社 発売日: 2018/01/26 メディア: 単行 この商品を含むブログ (1件) を見る 「超越と実存」と言われると、なにやら近現代西洋哲学(よくわからない)のような雰囲気があるが、実のところ「無常をめぐる仏教史」のなので安心してほしい。いや、おれが安心しただけなのだけれど。 とはいえ、もちろん、「超越と実存」は書の大きなテーマである。これをもとに著者が仏教史を突き刺している。 「超越」的存在は、時には「質」や「実体」などと呼ばれ、その存在を前提とすれば、無常の実存は「現象」とか「属性」などと規定される。 すなわち、私が思想には仏教と仏教以外しかないという言う意味は、「実存」と「超越」との関係で考えるのか(仏教以外)、「超越」抜きで考えるのか(仏教)どちらかだ、ということである。 その上で、さらに著者は

    『超越と実存「無常」をめぐる仏教史』を読む - 関内関外日記
  • 『〈仏教3.0〉を哲学する』第一章の読書ノートとコメント - Logues

    藤田一照・永井均・山下良道の3氏による共著『〈仏教3.0〉を哲学する』(春秋社、2016年)の第一章の読書ノートとコメントです。読み進むにつれて随時加筆していきます(最新の更新は2016/11/20)。このの目次や、著者による内容紹介、関連情報などはこちらをご参照ください。 この記事の目次 鼎談の前に 第一章 瞑想について――〈仏教3.0〉をめぐって はじめに 〈仏教3.0〉、〈仏教2.0〉、〈仏教1.0〉 「有心のマインドフルネス」と「無心のマインドフルネス」 「子犬=私」の瞑想と「子犬≠私の瞑想 「無我」と質と実存 前反省的自己意識について 瞑想の主体とはなにか 仏教をアップデートするために 「慈悲の瞑想」について 「小乗的」か「大乗的」か ◎質疑応答 第二章 「自己ぎりの自己」と〈私〉 第三章 死と生をめぐって 鼎談の前に 書の出版の3年前にあたる2013年に出版された藤田氏と

    『〈仏教3.0〉を哲学する』第一章の読書ノートとコメント - Logues
    akihiko810
    akihiko810 2018/02/09
    藤田一照・永井均・山下良道の3氏による共著
  • [書評] ごまかさない仏教(佐々木閑・宮崎哲弥): 極東ブログ

    仏教学者の佐々木閑に、仏教者と称する評論家・宮崎哲弥が、仏教とは何かといったことを問うという、出版社あるあるの対談書だろうと、『ごまかさない仏教(佐々木閑・宮崎哲弥)』(参照)について予断をもっていた。というのも、宮崎について、もうずいぶん昔になる、というか曲がりなりにも小林よしのりのゴーマニズム宣言を読んでいたころのことだ、宮崎が仏教者であることがその漫画でおちょくられていた。小林に共感しない私ではあったが、宮崎の仏教観もヘンテコなものだなと思ったものだった。人の宗教観というのは存外に変わらないものだから、宮崎のそれも同じだろうし、佐々木も最近の国際的な仏教学を知識を淡々と語るくらいかな、いずれ私が読むような対談でもあるまいと思っていた。『ゆかいな仏教 』(参照)みたいなかなと。 が、この『ごまかさない仏教』は、そうでもなかった。おもしろい。読み進めるにつれ、勉強になってしまうのであ

  • だから仏教は面白い! 前編 (ニー仏(魚川祐司)著  - 石見太郎のブログ

    最初は仏教について、浅い内容かと思いましたが、軽い文体でありながらかなり深い点まで解説してあり、当に勉強になりました。他の書籍で疑問だったことも明らかになりました。 『ではブッダがなぜ「自分の悟ったことは人に喋らないでおこう」と考えたかというと、それは彼が自分の教えを「世の流れに逆らうもの(パティソータガーミン)」だと理解していたからです。 ・・在家の人々にゴータマ・ブッダが説く教えというのは、基的には「施論・戒論・生天論」といわれるものです。これは簡単に言えば、布施をして、戒を守っていれば将来いいことがあるよ、ということ。・・「善いことをすれば、来世ですごくいい感じに生まれられるよ(生天できるよ)」という話になるわけです。

    だから仏教は面白い! 前編 (ニー仏(魚川祐司)著  - 石見太郎のブログ
  • FC2Blog - 現在アクセスが集中しています

    現在アクセスが集中しています 現在アクセスが集中しており表示しにくい状態となっております。 申し訳ございませんが、しばらく時間を置いてからアクセスするようお願いいたします。 FC2総合インフォメーションブログ 最新障害情報・メンテナンス情報ブログ FC2公式Twitterアカウント(FC2に関する情報をお知らせしています) 30秒後にトップページへ移動します

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  • 中村元『原始仏教』を読む - 関内関外日記

    ナーガールジュナとかむずかしすぎんよ、というところから、今度は釈尊の直の教えに近いところをうろついてみた。というわけで中村元『原始仏教』を読んでみた。 原始仏典 (ちくま学芸文庫) 作者: 中村元出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2011/03/09メディア: 文庫購入: 2人 クリック: 6回この商品を含むブログ (31件) を見る ……「我(霊魂)および世界は常住であるか、あるいは無常であるか? 我および世界は有限であるか、あるいは無限であるか? 身体と霊魂は一つであるか、あるいは別のものであるか? 修行を完成した完全な人格者は死後に生存するか、あるいは生存しないのか?」などの質問を発せられたときに、かれは答えなかったといわれています。イエスともノーとも答えなかったことが、実は一つのはっきりした立場を表明しているのです。なぜ答えなかったのかといいますと、これらの形而上学的問題の論議

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  • ● 本:『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』(魚川祐司著) : ソルティはかた、かく語りき

    2015年09月18日18:55 カテゴリ●読んだ・マンガ●仏教 ● :『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』(魚川祐司著) 2015年新潮社刊行。 このを書店の仏教書コーナーで見つけて、ざっと立ち読みしたとき、「ついに出てきたなー」 と心のなかで叫んだ。 日テーラワーダ仏教協会が設立されて20年余、中心的指導者であるアルボムッレ・スマナサーラ長老の八面六臂の活躍によって、テーラワーダ仏教を学びヴィパッサナー瞑想実践する人が今や日中に広がっている。その著者は仏教書としては異例のベストセラーを重ねている。 むろん、テーラワーダ仏教(上座部仏教あるいは原始仏教)はそれ以前に日に入っていて、在日のタイ人やミャンマー人を中心に細々と信仰されていたであろうし、大乗仏教に飽き足らぬ日人の求道者が個人的にタイやミャンマーに渡って修行したり出家したりということはあった。 が、今日ここま

    ● 本:『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』(魚川祐司著) : ソルティはかた、かく語りき
    akihiko810
    akihiko810 2015/12/27
    >dukkha(苦)はしばしばanicca(無常)と関連付けられながら語られるが、欲望の対象にせよその享受にせよ、因縁によって形成された無常のものである以上、欲望の充足を求める衆生の営みは、常に不満足に終わるしかない
  • 賭けという意志の世界の極限で現れる「善」の世界 講談社 今日のおすすめ

    akihiko810
    akihiko810 2015/12/24
    『善の根拠』(南直哉)
  • オウム真理教と仏教の欺瞞 : 仏教的世界観で諸相を観察する

    オウム真理教事件が日歴史上未曾有の事態であったにもかかわらず、キッチリ総括されたようには思えない。なかんずく、宗教の立場からこれを批判する意見表明がなかったのは残念に思う。 宗教(特に伝統仏教)からの検証・自己批判がないので、また、「宗教って怖いよね~」的に相互監視しあう「日教」(by 山七平)に舞い戻ってしまった感は否めない。 (個人の内面としての)オウムの問題は何も解決されていない。 なぜ、アレが一部の人たちに熱狂的にウケてしまったのか(現在でもシンパの勢いは衰えていない)、その犯罪的性格を魅力足らしめているものは何なのか? 伝統仏教からの検証は全然ないわけではなくて、たとえば曹洞宗の南 直哉さんは著書「賭ける仏教」(宮崎哲弥との共著)で、鋭く仏教の内蔵する「反社会性」をついている。 (この人は凄いです。ラカンやウィトゲンシュタインといった西洋哲学の物のナイフをもって、仏教を

    オウム真理教と仏教の欺瞞 : 仏教的世界観で諸相を観察する
    akihiko810
    akihiko810 2015/12/24
    「賭ける仏教」
  • 『仏教思想のゼロポイント』 - 一条真也の新ハートフル・ブログ

    一条真也です。 『仏教思想のゼロポイント』魚川祐司著(新潮社)を読みました。 「『悟り』とは何か」というサブタイトルがついています。 著者は1979年千葉県生まれで、東京大学文学部思想科で西洋哲学を専攻、また同大学院人文社会系研究科でインド哲学・仏教学を専攻しています。2009年末よりミャンマーでテーラワーダ(上座)仏教の教理と実践を学びつつ、仏教・価値・自由などをテーマにした研究を進めているとか。 書の帯 帯には「日仏教はなぜ『悟れない』のか――。」「大型新人による決定的な《解脱・涅槃》論!」「末木文美士氏 佐々木閑氏 宮崎哲弥氏 推薦!!」と書かれています。著者は、仏教の開祖であるゴータマ・ブッダが求め、達成した解脱・涅槃(仏教の原点=ゼロポイント)を明晰な論理力と巧みな文章力で説いています。発売以来、大きな話題になっているようです。 書の帯の裏 書の目次構成は以下のようになっ

    『仏教思想のゼロポイント』 - 一条真也の新ハートフル・ブログ
    akihiko810
    akihiko810 2015/12/20
    仏教的名著 ニー仏 魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』>仏教の本質は、『世界』を超脱した無為の常楽境を知った上で、そこから敢えて、物語の多様に再び関与しようとすることにある
  • お金、セックス、戦争、そしてカルマ『西洋の欲望 仏教の希望』

    仏教の智慧から、現代をほぐした一冊。 巨大な問題を扱っていながら、わたし個人の「つらさ」を見透かされているように感じる。さらに、自分の中の仏教的な見方に気づくというよりも、むしろ、今までの知的探索のアプローチと重なっていることを思い知らされた。 資主義と格差社会の根源的な理由や、承認欲求・応答システムとしての性文化、持続可能な戦争のモチベーションなど、現代社会の問題を「仏教」というレンズを通して捉え直し、解きほぐす。「十分なお金を持つとはどういうことか?」「ブッダは遺伝子組換え品を認めるか?」など具体的な問いを立て、「空」、「無我」、「縁起」、「カルマ」といった仏教思想の観点で斬る。すると、そこに潜む「dukkha(苦)」が露になる。 残念ながら、こうした諸問題を一気に解決する手はない。ただし、わたしがどんな姿勢で向き合えばいいかは、分かる。イデオロギーや文化により常識化されたアタマか

    お金、セックス、戦争、そしてカルマ『西洋の欲望 仏教の希望』
  • 迷える外人の禅修行

    仏・独・伊・スペイン・ポーランド・イスラエルでベストセラーになっているという宣伝文句に惹かれて、「静かなる旅人」というを読んでみた。これはフランスの女性画家が中国に留学して絵の勉強をする体験記で、なかなか面白かった。これに味をしめて次に「迷える者の禅修行」というを読む。こっちは、ドイツの青年が禅の修行をするために日に留学するという話で、これもドイツ青年自身による体験記なのだ。 この二つを比べると、面白いという点では「静かなる旅人」のほうだったが、考えさせられるという点では「迷える者の禅修行」のほうが勝っていた。ネルケ無方が、歯に衣着せぬ調子で日仏教の「ダラク」を批判しているからだ。それで、ここではまず、「迷える者の禅修行」のほうから先に取り上げることにする。 著者のネルケ無方は、1968年生まれだというから、当年42歳になる。彼は父祖伝来の知的エリート一家に生まれていて、彼が生まれ

    迷える外人の禅修行
    akihiko810
    akihiko810 2015/08/11
    ネルケ無方『迷える者の禅修行 ドイツ人住職が見た日本仏教』
  • 「恐山」(南直哉著) - 知らない世界へ帰りたい(日本探求)

    新潮新書、2012年発行。 いきなりパワースポットで有名な恐山のの登場。 といっても、観光のではありません。 著者は永平寺で19年間修行し、その後恐山菩提寺の院代(住職代理)という経歴を持ちます。 ま、院代となったのは、偶然(?)恐山山主の娘と結婚したからだそうですが。 僧侶として内側から見つめた「恐山」とその周辺事情を記した書物ということになります。 恐山というとイタコの口寄せ、と言うイメージがありますね。 イタコは民間のシャーマン(霊媒師)で、著者の属する仏教界とは直接の関係ありません。 実は私、今から遡ること30年前の二十歳の時、恐山に行ったことがあります。 当時、大学の「民俗研究部」というマイナーなサークルに所属しており、その仲間で大祭が行われている恐山へ二十歳を迎える夏に向かったのでした。 硫黄臭が立ちこめる荒涼とした土地に到着すると、そこは別世界。 ひときわ人だかりのある一

    「恐山」(南直哉著) - 知らない世界へ帰りたい(日本探求)
  • 言語と貨幣が持つ問題 | プレタポルテ by 夜間飛行 - Part 2

    「ない」ものをあたかも「ある」かのように 記号が実体を持ったモノのように振る舞うという点に関して私が思い出しますのは、南直哉さんの「十二支縁起の『無明』とは言語のことではないか」という発言です。十二支縁起とは「苦」が生じる過程を「無明‐行‐識‐名色‐六処‐触‐受‐愛‐取‐有‐生‐老死」の12の項目の関係のあり方に求めるものであり、この考え方が「縁起」であると南氏は説明された後、十二支縁起の根である無明とは言語のことではないか、と仰います。 私は、人間の実存を考える論理モデルとして、十二支縁起を考えている。十二支縁起の最初は「無明」。私は「無明」とは、龍樹が『中論』で述べている「ことばの虚構」(戯論)、すなわち「言語に拘束されていること」だと思う。その根は「言語機能」であって、「ことばで言い切ってしまえる世界を信じたらまちがうぞ」ということではないか。 ……私は、仏教でいう「苦」は認識の

    言語と貨幣が持つ問題 | プレタポルテ by 夜間飛行 - Part 2
    akihiko810
    akihiko810 2015/03/13
    『賭ける仏教』>仏教でいう「苦」は認識のことだ、と思っている。いわゆる苦痛ではなく「無明である」ことだ。「無明」は「言語機能」だが、さらにいえば「言語の働きによって縁起や無常がわからないこと」
  • 『みんなの寺のつくり方』 - 一条真也の新ハートフル・ブログ

    一条真也です。 『みんなの寺のつくり方』天野和公著(雷鳥社)を読みました。 著者は青森県十和田市生まれ、東北大文学部(宗教学)卒。仙台市内の葬儀社で勤務したこともそうですが、現在は宗教法人「みんなの寺」の坊守(自称・寺嫁)をされています。「みんなの寺」は浄土真宗の単立寺院で、住職は著者の夫である天野雅亮氏。天野夫ともに実家はお寺ではないにもかかわらず、檀家、コネ、スポンサー、土地建物など、すべてありませんでした。それでも、四苦八苦の末に寺院を立ち上げられたのです。その情熱と行動力に感服します。 「仏教交流シンポジウム」のようす わたしは、ブログ「仏教交流シンポジウム」で紹介したパネル・ディスカッションで著者と共演させていただきました。 飛行機のトラブルで到着が大幅に遅れ、著者の参加は第2部からになりましたが、著者はミャンマー仏教の魅力を大いに語って下さいました。パネル・ディスカッションの

    『みんなの寺のつくり方』 - 一条真也の新ハートフル・ブログ
    akihiko810
    akihiko810 2015/03/09
    寺院経営 >檀家300件、葬儀が年間15回でほぼ維持できるギリギリのライン
  • 南直哉著「語る禅僧」 慈しみと縁

    P69 ”こう考えると、私が何であるかは、自分が自分以外の「他のもの」と、どのような関係をつくり出していくのか、によることになる。その実践の結果ではなく過程を、私は「主体性」と呼びたい。 われわれの存在とはわれわれの関係である。よって、その存在の充実はその関係の充実である。そして関係の充実とは、すなわち「他者」とのかかわりの対等性と多様性をできうる限り求めていくことである。ならば、われわれの豊かな生とは、関係が実際にはお互いの異なりとして成り立つがゆえに、その異なりに耐え、そしてそれを受け容れ合って、ついにはともに楽しめることである、と私は思う。” ◇ P113 ある禅寺に仲の良い兄弟弟子がいた。あるとき、弟弟子のほうが兄弟子の部屋に遊びにいくと、兄弟子がお茶をたてている。 「誰のためにお茶をたてているんですか」 「飲みたいという人がいるんだよ」 「だったら、その人にたてさせればいいじゃな

    akihiko810
    akihiko810 2015/02/22
    その矛盾と摩擦こそが我々の存在の実相だと断言するのが、仏教の縁起。摩擦があってもなお関わり続け、互いに異なることを怖れず、あえて出会いを求めるには、決意と想像力が必要だろう。これを仏教は「慈悲」
  • 【書評】「人は死ぬから生きられる—脳科学者と禅僧の問答」|神馬譲blog

    神馬譲blog 東京在住の作曲家、神馬譲(じんまゆずる)の公式ブログです。 音楽制作の話題と映画のレビューが中心になります。 PR プロフィール プロフィール|なう|ピグの部屋 ニックネーム:Yuzuru Jinma 性別:男性 誕生日:1981年5月13日 血液型:A型 お住まいの地域:東京都 自己紹介: 神馬譲(じんまゆずる)。 作曲家 (主に劇伴・ゲーム音楽) ・ピアニスト。 北海道の映像制...>>続きをみる ブログジャンル:読書/音楽 メッセージを送る アメンバーになる プレゼントを贈る [記事作成・編集] ブックマーク 神馬譲公式サイト [一覧を見る] 最近の記事一覧 【映画レビュー】「父、帰る」 【映画レビュー】「きみに読む物語」 最近の気になった記事のまとめ 2 【映画レビュー】「ユージュアル・サスペクツ」 【書評】「一流の思考法 WBCトレーナーが教える「自分力」

    akihiko810
    akihiko810 2014/08/03
    茂木健一郎、南直哉
  • 呉智英『つぎはぎ仏教入門』を読む(1) - ひじる日々

    つぎはぎ仏教入門 作者: 呉智英出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2011/07/23メディア: 単行購入: 9人 クリック: 84回この商品を含むブログ (33件) を見る 筑摩書房のIさんより呉智英氏の新刊『つぎはぎ仏教入門』を献いただきました。 『封建主義者かく語りき』『現代人の論語』『マンガ狂につける薬』などの著書がある評論家の呉智英氏は、実はそうとうな仏教書読みでもあったそうです。 僕は個人的に、呉智英氏が高田馬場で開いていた論語素読の私塾『以費塾』に通っていたので、学恩に報いるためにも、書評とまでいきませんが、何回かに分けての内容紹介と寸評を試みたいと思います。 専門家が書いた仏教書は、緻密な記述によって、まるで深い森のような荘重な趣を漂わせているけれど、読む者はその深い森に迷い込んでしまい、出口は見えない。そんな仏教書を、蛮勇を振るって好きなように読み、仏教書以外の

    呉智英『つぎはぎ仏教入門』を読む(1) - ひじる日々
  • 『賭ける仏教』 (1)イントロダクション - しょぞうこわらし【書蔵庫童子】

    賭ける仏教: 出家の懐を問う6つの対話 作者: 南直哉出版社/メーカー: 春秋社発売日: 2011/07/29メディア: 単行 クリック: 4回この商品を含むブログ (1件) を見る 著者の南直哉(みなみじきさい)さんは、曹洞宗の和尚さんだそうです。某元社長とは全くの別人です。 「仮想問答」とのことですが、実際の問答の相手は・・・なんとなく分かりますよね。 以前、私は、「生や死や、それに絡んだ生き方についての探求なんて、心理学とかカウンセラーじゃなくて、昔から伝統的な宗教がやってきたことだし、その分野でやったほうがよっぽど安全な仕事ができるじゃないか」・・・みたいなことを書かせていただきました。『間主観カウンセリング』の時です。 しかしながら、あの時抱いた私の伝統的な宗教に対する期待なんか、今日では、単発の事例としては叶うこともあろうでしょうけれども、一般化した営みとしては、なかなか希

    『賭ける仏教』 (1)イントロダクション - しょぞうこわらし【書蔵庫童子】
    akihiko810
    akihiko810 2013/09/12
    『賭ける仏教 出家の本懐を問う6つの対話』 南直哉  よい本 名著