明治24年(1891)、栄一は渋沢家の家法と家訓を制定した。江戸時代の豪商たちも、よくこうした規定をつくっていたが、栄一のそれは近代的なものであった。これに協力したのが、東京帝国大学の教授で法学者の穂積陳重だったからだ。 穂積は栄一の長女・歌子の夫である。多くの会社の経営に関わるうち、栄一は多額の金銭や株式を所有する富豪となっていった。そこで家法を設けて渋沢同族株式会社をつくり、これらを保管・運営することにしたのである。 同族会社の創立メンバーは全部で10名。宗家の当主である栄一、その後妻の渋沢兼子(かねこ)、長男の渋沢篤二。さらに支家として、穂積陳重(長女・歌子の夫)、穂積歌子(栄一の長女)、阪谷芳郎(次女・琴子の夫)、阪谷琴子(栄一の次女)、渋沢武之助(栄一の次男)、渋沢正雄(栄一の三男)、渋沢愛子(栄一の三女)である。 ただ、このうち栄一の跡継ぎに決まっていた長男の篤二が、栄一の大き
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