今日は昨日の三宅香帆さんとのトークショーで出た話題を延長して考えてみたい。それは「対幻想」をめぐる議論のことだ。2時間弱の対談で何度かこの話題に触れたのだけれど、たとえば僕は村上春樹が近年同性の「友人」を度々登場させていることに注目する。『ドライブ・マイ・カー』には高槻という青年が登場する。同作が収録されている『女のいない男たち』には、この高槻のように男性主人公の同性の「友人」的な存在が度々登場するのだが、この「友人」はかつての村上春樹の作品に登場した「鼠」や「五反田君」とは明らかに異なっている。彼らは主人公のオルターエゴで、つまり時代の変化に適応できずに自ら死を選ぶ彼らは主人公の鏡、つまり自己対話のための装置に過ぎない。 しかし、高槻などは少し違っているように僕は思う。端的に言えば、彼らは主人公にとって他者性の高い存在として現れる。村上春樹が女性を、自己と世界との蝶番としてしか描くことが