中世の大和は守護が置かれず、正式な命令はないが興福寺の別当が事実上の守護職として守護権を行使した。興福寺の別当は一乗院と大乗院が交互に任じ、それぞれ藤原摂関家の子弟が入室した。そして両門跡を中心として大和の支配体制が整備され、大和の有力名主たちは衆徒あるいは国民として興福寺の配下に組み込まれていた。衆徒とは興福寺の寺僧でいわゆる僧兵、国民は春日大社の神人で俗体の武士であった。興福寺の支配は奈良から遠く離れた東吉野郡にもおよび、吉野郡を代表する領主で丹生川上神社神主の小川氏も大乗院門跡の国民としてその支配下にあった。 両門跡は平安末期より対立関係にあり、南北朝時代になると一乗院は南朝方、大乗院は北朝方に分かれて対立を続けた。必然的に両門跡に属する衆徒と国民も南北に分かれて対立、大和各地で抗争が繰り返された。その結果として、両門跡の権威は次第に衰え、衆徒・国民たちの自立への動きが活発化していっ