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personとmilitaryに関するas365n2のブックマーク (9)

  • 既定路線の詭弁 - 大石英司の代替空港

    ※ USS New York, ship built with steel from World Trade Center, leaves dock http://network.nationalpost.com/np/blogs/posted/default.aspx (記事のURLがやたら長いので、その上のurlを貼ります。頁を下がると出て来るはずです) 今日は、こういうニュースが、CBSで流れていました。WTCの残骸を一部使って建造されていた新鋭艦がとうとうドックを出ました。良い航海を! ※ 「羽田をハブ空港に」前原国交相、原則転換を表明 http://www.asahi.com/politics/update/1013/TKY200910130028.html 森田健作@自民党の芝居がかった演説を聴いていると当に愉快痛快ですね。昨日は、前原さん、火消しに追われていましたが、もし羽

    既定路線の詭弁 - 大石英司の代替空港
    as365n2
    as365n2 2009/10/18
    「江畑謙介「自民寄り」と発言 民主党代議士ブログ炎上」への言及
  • 江畑謙介氏、死して論点を残す - やまもといちろうBLOG(ブログ)

    遅れましたが、江畑謙介氏が早逝されたとのこと、お悔やみ申し上げます。 恥ずかしい話なのですけれども、私は安全保障の中でもハードウェアとしての軍事についてはさほどの見識はなく、通り一遍の知識に過ぎないので江畑氏が行っていた論述の正誤や質の高低について論ずるほどの資格は有していません。 で、その江畑氏が亡くなられたことに関連して、民主党の首藤信彦氏が珍しい論述をされていたため一部で炎上騒ぎになっていたので見物しに逝きました。 ある軍事評論家の死 http://blog.goo.ne.jp/sutoband/e/03fdc5aba5f001a0c2f1cfc0e88696de 江畑謙介「自民寄り」と発言 民主党代議士ブログ炎上 http://www.j-cast.com/2009/10/13051574.html 個人的に感じる部分で言うならば、江畑氏が自民寄りというより、兵器に詳しい分どうして

    江畑謙介氏、死して論点を残す - やまもといちろうBLOG(ブログ)
    as365n2
    as365n2 2009/10/18
    首藤信彦。"死を悼むよりは死してなお論戦相手"
  • 追悼を口にしつつ故人を誹謗した首藤信彦という最低の民主党議員

    亡くなられた途端に誹謗中傷をするんですか。それも内容は全て勝手な思い込みによる妄想・・・どうして江畑謙介さんがこのような最低の人間に辱めを受けなければならないのですか? 卑劣な真似を行ったのは首藤信彦(すとうのぶひこ)という民主党議員です。 ある軍事評論家の死 - すとう信彦 & his band 内容を引用するのも気分が悪いです・・・出鱈目な話を並べ立てて、勝手な思い込みだけで誹謗中傷を行っている・・・江畑謙介さんの人となりを知る人なら、誰もがこの首藤信彦の日記を否定するでしょう。◇下心のない男 軍事評論家・江畑謙介 私は4年前に、首藤信彦の事を記事にしたことがあります。 (2005年3月24日)説明責任を果たすべき国会議員「すとう信彦」 国際連合安全保障理事会決議1718という根拠があるのに「対北朝鮮経済制裁は国際法違反だ」と出鱈目な主張を行い、嘘を吐いてまで北朝鮮を庇う一方、イスラエ

    追悼を口にしつつ故人を誹謗した首藤信彦という最低の民主党議員
  • 政権与党議員、すとう信彦氏は軍事の専門家か その1

    すとう信彦氏のブログによると、氏は最近御尊父を亡くしたそうです。 御尊父はシベリアに抑留されていたそうです。シベリアの抑留生活は過酷だったでしょう。その過酷さから逃れるために自ら進んで仲間を売ったり、あるいは洗脳された人も少なくないとされています。帰国後スリーパーとなっていた人物もいたはずです。 すとう氏の御尊父がそのような人物だとはいいませんが、その可能性は否定できないでしょう。証明のしようがありませんからね。 ただ、すとう氏の言動などを見ているとかなり共産国にシンパシーを感じているようにもとれます。ご尊父から何がしかのえいきょうがあったのかとも思えなくもないですが。 例えばこのような文章をみたら、すとう氏やその家族は不快に思うでしょう。 ですが、すとう氏が「ある軍事評論家の死」と題したブログで書いていることは大同小異です。ご人にはその自覚がないのでしょうが。 http://blog.

    as365n2
    as365n2 2009/10/18
    江畑謙介評をめぐって。
  • 江畑謙介「自民寄り」と発言 民主党代議士ブログ炎上

    亡くなった軍事評論家の江畑謙介氏について、民主党の衆院議員がブログで「自民寄りだった」と発言したところ、ブログが大炎上した。しかし、議員は「撤回やお詫び」を拒否、その発言に理解を示す専門家も出ている。 江畑謙介氏と言えば、1991年の湾岸戦争で鮮烈にお茶の間デビューを果たした。NHKに連日出演し、兵器や戦略について日人離れした詳細な解説ぶりに、新鮮な驚きを持って聞いた人も多いに違いない。独特の髪型も話題になった。 「撤回することも、お詫びをすることもない」 その豊富な知識は、上智大生時代からの雑誌投稿やイギリスの軍事専門誌「ジェーン」の日特派員などを通じて培ってきたものだ。米軍のアフガニスタン攻撃(2001年)やイラク戦争(03年)でも活躍し、著書は多数に上る。著名になってからは、政府の委員をも務めていた。 こうした経緯から、政治色は薄く中立的との見方もある。同じ専門分野で江畑氏をよく

    江畑謙介「自民寄り」と発言 民主党代議士ブログ炎上
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    as365n2 2009/10/18
    首藤信彦。元帥コメント。理科的観点vs社会科的観点、と。
  • ある軍事評論家の死 - すとう信彦 & his band

    軍事評論家の江畑謙介氏が死去した。同じ専門分野だからもちろん良く知っている。1990年の湾岸戦争というものは、自国に関する限り、これまで戦争なんて死語だと思っていた日に大きな衝撃を与えた。日には当の意味で、軍事専門家などはいない、また出てこないだろう。そのなかで、一応、擬似専門家としての役割を果たしたのが江畑さんだった。軍事情報誌のジェーン年鑑のエージェントというような役割で、日には入ってこない情報をジェーン側から手に入れて、専門家としての評価を獲得した。それでも、でたらめな評論家に比べれば、はるかに中立的で高いレベルの情報提供だった。軍事オタクという言葉もこのころから出てきたが、江畑さんはある意味、そのハシリのようなものだった。まったく紛争地や実際の戦場に足を運ぶこともなく、兵器という切り口だけで戦争を論じる、日にしか生まれない特異な軍事評論家だった。 それでもお互いに専門家と

    ある軍事評論家の死 - すとう信彦 & his band
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    as365n2 2009/10/18
    「擬似専門家」「オタクの走り」という江畑謙介評。
  • 中日新聞:栗林旧陸軍大将の論文発掘 軍の旧態鋭く批判:長野(CHUNICHI Web)

    トップ > 長野 > 5月19日の記事一覧 > 記事 【長野】 栗林旧陸軍大将の論文発掘 軍の旧態鋭く批判 2009年5月19日 栗林忠道大将 映画「硫黄島からの手紙」などで知られる旧日陸軍の栗林忠道大将が、中尉だった1919(大正8)年に発表した軍の旧態を批判する論文を、出身地・長野市の「人間・栗林忠道と今井武夫を顕彰する会」(井上昭英会長)が発掘した。同会は「軍でタブー視されていた体質を批判する勇気ある内容で、栗林の面目躍如たるものがある」としている。 栗林大将は1891(明治24)年、西条村(現長野市松代町)生まれ。長野中学校(現長野高校)卒業後、陸軍士官学校に進んだ。1944(昭和19)年、中将で硫黄島守備隊総司令官に着任。米軍上陸後、大将に昇進し、最後の総攻撃で戦死した。 論文は「吾人(ごじん)ノ軍事知識以外ノ知識ノ著シク低級ナルハ争フベカラズ」と題し、陸軍将校の

  • アーレイ・バーク - Wikipedia

    アーレイ・バーク海軍大将とその夫人のサイン アーレイ・アルバート・バーク(Arleigh Albert Burke, 1901年10月19日 - 1996年1月1日)は、アメリカ海軍の軍人。最終階級は大将。バークはアメリカ海軍史上でただ1人、海軍作戦部長を6年の長きにわたって務めた。 海軍兵学校墓地に建てられているアーレイ・バークの墓。 傍らに置かれているのは海上自衛隊から送られたリース(当時の海上幕僚長吉川榮治海将名義)。 バークはコロラド州ボルダー市近郊のスウェーデン系(祖父の姓はビョルクグレン(Björkgren)だったが、アメリカに渡った際にアイルランド風のバークと改めた)の農民の子として生まれ、1919年海軍兵学校に入校。1923年に少尉に任官し、戦艦アリゾナ、重巡洋艦チェスター、駆逐艦クレイブン乗り組みや地上部隊、海軍省兵備局勤務を経験し、この間にミシガン大学で工学修士の学位を

    アーレイ・バーク - Wikipedia
  • 栗林忠道 - Wikipedia

    栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年〈明治24年〉7月7日 - 1945年〈昭和20年〉3月26日[1][注釈 1])は、日の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。位階勲等は従四位勲一等(旭日大綬章)[注釈 2]。陸士26期・陸大35期。長野県埴科郡西条村(現:長野市松代町)出身。 第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)末期の硫黄島の戦いにおける、日軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長。小笠原方面陸海軍最高指揮官)であり、その戦闘指揮によって敵であったアメリカ軍から「アメリカ人が戦争で直面した最も手ごわい敵の一人であった」[4]と評された。 陸軍士官学校(1907年) 栗林忠道の肖像画 戦国時代以来の旧松代藩郷士の家に生まれる。1911年(明治44年)、長野県立長野中学校を卒業(第11期)。在学中は文才に秀で、校友誌には美文が残されている。当初ジャーナリストを志し東亜同文書院を受験し合

    栗林忠道 - Wikipedia
    as365n2
    as365n2 2007/07/10
    太平洋戦争において最も優秀な指揮官として挙げられる人物。「硫黄島からの手紙」
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