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暴動に関するatawiのブックマーク (2)

  • 暴動の暴力と自分 - Arisanのノート

    きのうのエントリーに寄せられたトラックバックやブクマコメントを読んでいて、ひとつ意外に思ったのは、ぼくが今回の暴動に対して「無条件に支持する」と書いたのは、そこで行使されるであろう暴力が「正当性」を持つと考えてのことだ、と思った人がいたらしいということである。 ぼくは、必ずしも今回の暴動を、その行動や暴力の正当性を理由に「無条件に支持する」と書いたわけではない。 ただたんに、自分の位置から出来る連帯の表明は、そのように書くこと以外にありえないと思ったから、そう書いたまでである。 そのことについては、後で書こう。 たしかに、生田さんのサイトに一端が書かれていたような積年の経緯や、今回の当初からの警察の対応、とりわけ放水車で放水を繰り返したりした強圧的な態度を考えても、「(たとえば)抵抗の正当性」のようなものは、十分にあると思える。 同サイトによれば、(報道では警察側の負傷者しか報じられてない

    暴動の暴力と自分 - Arisanのノート
    atawi
    atawi 2008/06/20
  • 暴動を無条件で支持する - Arisanのノート

    連日続いている釜ヶ崎での抗議・暴動に関して、「どんなことがあっても暴力はいけない」という批判がある。 それに対して、これまで警察や社会全体から、釜ヶ崎の(労働者をはじめ)人たちが受けてきた迫害、差別の持つ暴力性はどうなるのか、という反論がありうる。 だがこの二つの意見は、来対立するものではなく、「暴力」に対する批判ということでは同じ立場である。 釜ヶ崎の人たち(という集合名詞自体が、すでに暴力的だが)が経験してきた怒りや苦しみを慮った上であれば、「どんなことがあっても暴力はいけない」という批判の言葉は、「暴力」を恣意的に選別して自分に都合の悪い種類の暴力のみを非難することによって、虐げられている人、自分が現に虐げている人の怒りの表明や抵抗・抗議を、したり顔で抑圧するという、浅ましい(真に)暴力的な言明とは、まったく異なる真実の言葉となるだろう。 実際には、そうでない場合の方が、ずっと多い

    暴動を無条件で支持する - Arisanのノート
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