タグ

ブックマーク / arisan-2.hatenadiary.org (9)

  • 不安定な職場を移動させられ続ける人々 - Arisanのノート

    ときどきテレビや新聞に、首を切られた派遣労働者が、警備の仕事や介護職など、人手が不足して困っているところに勤め口を見つけている、ということが報じられる。 これは、応急処置もいいところで、どう考えても問題の「解決」につながるような事態ではないはずだけど、何か「足りないところに人材が流れて、世の中うまく回ってますよ」みたいな報道のされ方になってるときがあり、あんまりだと思う。 大体、いま人手が足りないで困ってる職種の多くは、賃金が安いとか雇用が不安定だとか、労働条件がよくないから成り手が少ないわけだ。 不安定な雇用のされ方をした結果として首を切られた人たちが、都合よくそういうところに補充されても、そういった職種の条件の悪さが改善されるわけではない。むしろ、賃金が上がったりする理由がなくなってしまうぐらいだ。 問題になってるのは、低賃金の不安定な雇用の仕方をされてきた人たちがいて、その人たちへの

    不安定な職場を移動させられ続ける人々 - Arisanのノート
  • 金光翔さんのこと - Arisanのノート

    こちらの記事で知ったが、金光翔さんに対する、勤め先の岩波書店と、同労組によるいじめ・圧力が、ひどい状況になっているらしい。 http://watashinim.exblog.jp/ http://shutoken2007.blog88.fc2.com/ これは絶対にあってはならないことである。 一般論としても、もちろんそうだ。 会社側・組合側に「正当な理由」があるとは到底思えないが、かりにどんな理由があっても、一労働者に対する会社ぐるみの圧力とか、組合ぐるみのイジメが許されるはずはない。 まして、出版社のことではないか。 岩波側は、自社の出版物の著者の悪口をかくなとか、いろいろ理屈をつけてるようだけど、編集者とか出版に携わる人間が、自分の会社や組織に関わることを批判できなくなったら、どうなるんだよ。 さらに、金光翔さんが「インパクション」に載った『<佐藤優現象>批判』の筆者であるだけに、な

    金光翔さんのこと - Arisanのノート
  • 探偵ナイトスクープ(末尾追記) - Arisanのノート

    関西には「探偵ナイトスクープ」という人気番組があるが、先日、番組が20周年を迎えたか何かを記念して、過去の評判のよかった回の再放送をやっていた。 ぼくが見たのは、93年の2月のある週の放送だった。 当時は上岡龍太郎が「探偵局長」として司会をしていた(現在の局長は西田敏行。秘書は当時も今も岡部まり。この人は、この番組と、村上龍の「リュウズ・バー」以外に出てるのを見たことがない。)。 ちなみに、上岡の盟友、横山ノックが大阪府知事に当選するのは、この二年後である。 さて、その番組の中で、次のようなエピソードがあった。 ある所に、学校か何かに元は置かれていて、今は事情があって道端に放置されている二宮尊徳の銅像があるのだが、それを見て不憫に思った視聴者のおばあさんが、なんとかちゃんとしたところに再び置かれるようにしてもらいたいとの「依頼」を番組に送ってきたのである。 この依頼を受けて、銅像をリヤカー

    探偵ナイトスクープ(末尾追記) - Arisanのノート
  • セーフティーネットとしての文化行政 - Arisanのノート

    承前。 http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20080728/p1 世の中には、それこそ必死に努力してても競争に敗れて倒産する会社、職を失ったり、頑張って働いてても努力したほどには給料が上がらない人など、ごまんといる。 今、大阪府が大変な財政難で、無駄をできるだけ切り詰めてと行ってるときに、「文化」の保護にだけ、競争原理に反してまで金をつぎ込むというのは納得できないという人は多いだろう。 実際、「文化」と呼ばれるジャンルのいくつかは、金持ち(ブルジョワ)の趣味であったり、王侯貴族の援助(パトロン)があってはじめて成立してきた、「金い虫」的なものである。小泉元首相が好きらしいオペラなどは、そのさいたるものであろう。 かつて文化大革命の折には、そのような種類の文化は、人民大衆に負担をかけるだけの社会全体のぜいたく品として、糾弾され切り捨てられた。日でも、それに影響を受

    セーフティーネットとしての文化行政 - Arisanのノート
  • 誰でもよかった - Arisanのノート

    引き続き、八王子の事件について。 このような事件では今回に限らず、加害者の現状とか生い立ちがどうだったかというようなことが、社会の状況と結び付けられたりして論じられることが多いが、ぼくはむしろ、今回殺された人が若い女性のアルバイト店員だったということを、よく考えるべきではないかと思う。 「アルバイト」といっても、この方の場合は大学生で、就職が内定していたということだが、重要なのは犯人にとって、そのときどう映ったか、ということである。 犯人はたしかに(この事件に限らず)、「殺すのは誰でもよかった」というふうに言っている。だが、「誰でもよかった」ということはつまり、出来るだけ殺しやすい対象、抵抗されることが少なそうな相手、無防備な人を狙う、ということであろう。 少なくとも、そういう選択の下に行動する可能性が高い、ということになる。 とすると、男性よりは女性、大人よりは子ども、社会や権力の中心部

    誰でもよかった - Arisanのノート
    atawi
    atawi 2008/07/26
    確かに、この視点の欠如は問題だわ
  • 暴動の暴力と自分 - Arisanのノート

    きのうのエントリーに寄せられたトラックバックやブクマコメントを読んでいて、ひとつ意外に思ったのは、ぼくが今回の暴動に対して「無条件に支持する」と書いたのは、そこで行使されるであろう暴力が「正当性」を持つと考えてのことだ、と思った人がいたらしいということである。 ぼくは、必ずしも今回の暴動を、その行動や暴力の正当性を理由に「無条件に支持する」と書いたわけではない。 ただたんに、自分の位置から出来る連帯の表明は、そのように書くこと以外にありえないと思ったから、そう書いたまでである。 そのことについては、後で書こう。 たしかに、生田さんのサイトに一端が書かれていたような積年の経緯や、今回の当初からの警察の対応、とりわけ放水車で放水を繰り返したりした強圧的な態度を考えても、「(たとえば)抵抗の正当性」のようなものは、十分にあると思える。 同サイトによれば、(報道では警察側の負傷者しか報じられてない

    暴動の暴力と自分 - Arisanのノート
    atawi
    atawi 2008/06/20
  • 暴動を無条件で支持する - Arisanのノート

    連日続いている釜ヶ崎での抗議・暴動に関して、「どんなことがあっても暴力はいけない」という批判がある。 それに対して、これまで警察や社会全体から、釜ヶ崎の(労働者をはじめ)人たちが受けてきた迫害、差別の持つ暴力性はどうなるのか、という反論がありうる。 だがこの二つの意見は、来対立するものではなく、「暴力」に対する批判ということでは同じ立場である。 釜ヶ崎の人たち(という集合名詞自体が、すでに暴力的だが)が経験してきた怒りや苦しみを慮った上であれば、「どんなことがあっても暴力はいけない」という批判の言葉は、「暴力」を恣意的に選別して自分に都合の悪い種類の暴力のみを非難することによって、虐げられている人、自分が現に虐げている人の怒りの表明や抵抗・抗議を、したり顔で抑圧するという、浅ましい(真に)暴力的な言明とは、まったく異なる真実の言葉となるだろう。 実際には、そうでない場合の方が、ずっと多い

    暴動を無条件で支持する - Arisanのノート
  • 「異例」の理由 - Arisanのノート

    口移しでチョコ…助手席の女を逮捕 青森http://news.www.infoseek.co.jp/society/story/13mainichiF0514m087/ 車を運転中にチョコレートを口移しでべようとし、歩行者をはねて死亡させたとして、青森地検が運転していた青森市内の会社員の男(47)を自動車運転過失致死容疑、助手席の20代の女を重過失致死容疑で逮捕したことが13日分かった。地検によると、同容疑で助手席の同乗者を逮捕するのは異例。2人は容疑を認めているという。 これはしかし、「夫婦だったら逮捕されたかなあ」と考える。どうも記事から推測すると、夫婦じゃないような書き方である。 それに、運転中に、たとえば「ちょっと(おにぎりとかを)べさせて」と言われて、助手席の人がべさせたりすることはよくあると思う。それが、こうした事故につながる可能性もないわけじゃない。 今回のケースが「異

    「異例」の理由 - Arisanのノート
    atawi
    atawi 2008/05/15
    ↓に賛同。ドライバーの視界を塞いだ、あるいは反らせた「口移し」行為が事故を引き起こした可能性として考慮に足るからこそ、同乗者へも責任が及んだとして「異例」の解釈が妥当かと。
  • 欲望とその権能 - Arisanのノート

    『キリンが逆立ちしたピアス』より 「欲望は禁止できない、しかし…」 http://d.hatena.ne.jp/font-da/20080214/1202980795 児童ポルノ規制の問題について書かれた東浩紀氏の文章を紹介しながら、書き手のfont-daさんは、「欲望は裁けない」という東氏の言明に基的には賛同しつつ、以下のように語る。 (前略)私もこれに賛同する。暴力を振るうことは禁じることができるが、暴力を欲望することは禁じられない。 その上で、私はその立場にあるのならば、次の責務があると考える。それは「欲望を行為に移さないシステムを考える」という責務である。相手を傷つける欲望を持っていても、その欲望をコントロールする方法が必要である。その方法を、いかに習得できるのか、という問題は、今、まったく解かれていない。欲望を肯定し、行為と切り離す以上、いかに切り離せるのかにも言及する必要があ

    欲望とその権能 - Arisanのノート
  • 1