タグ

ブックマーク / crow-henmi.hatenadiary.org (6)

  • どうみてもディストピアです - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    あちこちで俺ディストピアを語ってくださる方々がいらっしゃいましたので、こちらでリンクしてみました。 http://park5.wakwak.com/~rasen/diary.html 偉大なる指導者同志速水螺旋人さま。12月14日付日記。定番物を外してこれだけ出てくる引き出しの広さに脱帽です。「暗黒世界のオデッセイ」とか「収容所惑星」とか渋いチョイスです。百万迷宮の舞台設定は秀逸ですね。ホント、余りにも重苦しく、どこまで行っても出口がない。明け方の寝覚めの悪い夢に出てきそうな感覚です。スターリン体制下のソビエトも現実に存在していたディストピアとしてはレベル高すぎ。ナチが勝利した改変世界ものは結構あるのに、ソビエトが冷戦に勝利したポスト冷戦時代を書いた作品が殆どないのは悲しい限りです。 http://d.hatena.ne.jp/REV/20051214/p9 REVさま。さらっと「ハイ-ラ

    どうみてもディストピアです - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
  • 追悼の辞 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    3月22日、伊藤計劃氏が逝去されたとの報に接し、悲嘆と落胆を禁じえない。しかしながら、伊藤計劃作品に触れ得たひとりのファンとして、ただ落胆するのではなく、それを受け入れてなお姿勢を正すべきと思い、ここに追悼の辞を述べる。 すでに何度か書いたことではあるが、伊藤計劃において、人間の生とは「確率性」および「大量死と大量生」そして還元主義、再帰的近代化、ポストモダン的社会経済システムなどによって、何重にも意味を剥奪された存在であった。その根源的な無意味の上にあるヴェールをはぐことで、われわれの視点をそこへといざなうことが、彼の第1のテーマだったと解釈している。伊藤計劃は「バットマン」シリーズのヴィラン、ジョーカーのファンだった。ジョーカーが、自ら道化として振舞うことで世界のうわべのヴェールを剥ぎ取り、彼好みの真実を人々に見せようとしたのと同様に、伊藤計劃もまた、その束縛された生によって得た省察を

    追悼の辞 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
  • 推理は可能か、不可能か――「うみねこのなく頃に」におけるフェアプレイ性―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    「うみねこのなく頃に」という作品は、一見推理ゲームのように見えるが、その条件を完全に満たしているとはいえない。推理ゲームにおいては、与えられた手掛かりから得られる最もありそうな唯一の解を選び出すことが前提とされるが、当作品において与えられる情報は非常に少なく、解の発散――複数の解が同時に存在しうる状態を呼び起こしている。これは推理ゲームとしての欠陥なのか、それとも必然なのかを問うことは「うみねこのなく頃に」(以下うみねこと略)という作品を解釈する際、大きな意義を持つだろう。 まず、推理ゲームにおける推理というものが、実際には上記のごとき論理実証主義的なものではなく、テクストと読者のある種の共感性によって成立するものだということを指摘しておきたい。厳密に解が収斂するほど証拠を積み重ねた作品はさほど多くなく、多くはテクストが提示する断片的な証拠から推定されるいくつかの解のうち、よりもっともらし

    推理は可能か、不可能か――「うみねこのなく頃に」におけるフェアプレイ性―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
  • 卵と壁のアナロジーの欺瞞――村上春樹エルサレム賞講演についての雑感―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    人は卵であるとともに他者にとっての壁でもある。ほうっておけば互いにぶつかり合って粉々になる。それを互いに避けるため、それぞれ似た形の卵が互いに力学的に支えあう形の卵ケースに入ることで、互いにぶつかり合うのを避ける。しかし卵ケース同士もまたぶつかり合う。それを避けるため卵ケースの間に緩衝材を入れ、互いに支えあうようにして箱詰めする。だが卵の箱詰め同士がぶつかり合うことを和らげる仕組みはまだ完成していないし、それどころか卵ケースや箱自体の梱包が緩んできている、というのが現在だ。 ここでいう卵のぶつかりあいとは排他的権力関係、卵ケースや箱は排他的権力関係を緩和/止揚するための中間集団や国民国家などと考えて良い。これらの効力は再帰的近代化やグローバリゼーションにより失効しつつあるし、国民国家間の利害を有効なレベルで緩衝し得たものはただひとつ、恐怖の総和にほかならなかった。そこから垣間見えるのは、む

    卵と壁のアナロジーの欺瞞――村上春樹エルサレム賞講演についての雑感―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
  • 決断主義と動物化を超克するには――宇野常寛的レジームについての注釈―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    ついったからの転載・改稿。 宇野常寛が書いていたかどうかは覚えてないが、いわゆる「決断主義」の前提には「例外状態」があるのがシュミット的に正しい立場だったような気がする。では、宇野的文脈における「例外状態」とは何か。それは社会の分子化や「大きな物語の衰退」ではなく、それが現象として生み出した「万人の万人に対する不寛容」である。 社会が分子化されていても、他者との間に無関心や寛容があるならば、例外状態というほどの危機には陥らない。他者が「敵」あるいは「潜在的敵」としてあることが「決断主義」を要請する「例外状態」の質である。中間集団が解体し、スーパーフラット化した/しつつある社会から自己を差異化する欲望に基づいた再帰的自己決定は、永続的な他者との摩擦を引き起こし、リスクを高める。一方で、中間集団が担っていた保護と再分配のシステムが崩壊してしまった状況下では、ホッブス原典的な意味合いでの「万人

    決断主義と動物化を超克するには――宇野常寛的レジームについての注釈―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
  • 「ぼく」が「ぼくら」へとつながる意義――「とらドラ!」に見る後期近代と、そこにおける生の存在論的根拠―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    とらドラにオラクル不在問題(俺命名)について少し書くことにする。 この問題は「週末に「とらドラ!」の原作読んだけどよ」という増田のエントリの中で取り上げられ、それに対し有村悠氏が「『とらドラ!』について少し考えてみた」というエントリーにおいて、大体の要点を抑えたアンサーをしているのだが、これについてもう少し深く掘り下げたり我田引水してみたい。具体的には、オラクルが「物語中で」「登場人物によって」希求されているにも関わらず「不在であること」の意味――「『みんなが物事を自分ひとりで解決していかねばならない』という困難の存在」の理由と意味を、もう少し深く考えてみようと思う。 この問題に対して、増田は共同体の崩壊に、有村氏はより限定的に家族共同体の崩壊にその理由を見出したのだが、これは「再帰的近代化」における「ゲマインシャフトのゲゼルシャフト化」によるものだといえる。社会システムの発展と高度経済成

    「ぼく」が「ぼくら」へとつながる意義――「とらドラ!」に見る後期近代と、そこにおける生の存在論的根拠―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
  • 1