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ブックマーク / k-onodera.net (4)

  • 『かぐや姫の物語』アニメに反逆する、おんな【レビュー下巻】

    【レビュー上巻】『かぐや姫の物語』「生命を吹き込む魔法」では、作品の表現方法における革新性について述べた。 稿では、主にシナリオ面において、「竹取物語」という、日文学史上の偉大なテキストに対し、高畑監督らがどのような意匠を加え脚色したのか、『かぐや姫の物語』の意図と哲学を探ってみたい。 「竹取物語」は、平安時代初期に書かれたものとされるが、詳しい成立年代も、作者も不明である。 内容の描写が非常に簡潔であることは前にも述べたが、それ故に、「何故かぐや姫が地上に降りたのか」、「何故月に帰らねばならなかったのか」についても謎に包まれている、ミステリアスな作品でもある。 写が確認される室町時代までに改変された可能性もある物語だが、漢文によって書かれた原文はもとより、これ以前のものが現存しないことから、一般にこれを基のテキストとして考えるのが一般的である。だから、高畑監督の『かぐや姫の物語』

    『かぐや姫の物語』アニメに反逆する、おんな【レビュー下巻】
  • 『かぐや姫の物語』生命を吹き込む魔法【レビュー上巻】

    宮崎駿は『風立ちぬ』の完成報告会見の席で、記者に「5年ぶりの監督作ですが・・・」と問われ、「5年ぶりじゃない、5年かかったんだ」と返答した。 『風立ちぬ』の実際の製作期間は3年程度であるが、このときの宮崎監督の発言は、『崖の上ポニョ』以後空白の2年、おそらく作品についての思索も合わせて「5年かかった」という意味で言っているのだろう。アニメーションという共同作業が必要な創作物でありながらも、そこに「個人の作家性」を認めて欲しいという主張が隠されているように感じるのである。 それならば製作期間8年、だが劇場用長編作品の監督としての空白期間を入れれば、「14年かかった」高畑勲監督の『かぐや姫の物語』は、彼が東映動画在籍時代に、内田吐夢を監督として計画された幻の「竹取物語」アニメーション化企画において、社内の公募による自身のアイディア(天人界=月から地球に落とされるまでの経過を冒頭部に挿入するなど

    『かぐや姫の物語』生命を吹き込む魔法【レビュー上巻】
  • 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』は「サイコー!」なのか?

    アメコミの映画化作品として業界の中心的存在となっているマーベル・スタジオズが制作し、ウォルト・ディズニー・スタジオが配給した、銀河のはみ出し者たちを主人公としたヒーロー作品だ。 マーベルコミックのなかでも、これはほとんど知られてない原作らしく、1969年発表当時の主人公達(初代ガーディアンズ)は、ヨンドゥ・ウドンタ(矢を使うネイティブアメリカン風の男)以外は、今回の映画版に登場しておらず、映画版ガーディアンズは、2008年に発表されたコミックに描かれたチームを採用している。 こんなに知られていない原作を使用するというのは、さすがにマーベル作品も映画化のネタが無くなってきたのか?とも思えるが、同時にそのような原作でも、コミック原作映画の企画が成立するようになってきた、つまり原作の知名度に頼らなくても良くなってきたという状況の証左であるともいえるだろう。 だがそれよりも、この企画の最大の驚きは

    『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』は「サイコー!」なのか?
    batta
    batta 2014/09/23
  • 『思い出のマーニー』米林作品の「反創造」姿勢とは

    以前、ブログ記事『借りぐらしのアリエッティ』 脅威!不毛の煉獄アニメーションを書き、かなり悪し様に言葉を尽くして、米林宏昌監督をののしった。そのくらい、米林監督の初監督作『借りぐらしのアリエッティ』のつまらなさというのは、人智を超えたものだった。 そもそも、テーマやストーリー以前に、何を見せたいのか、何を感じさせたいのかが不明瞭なほど、演出のレベルが低くセンスも無いために、作品としての体(てい)を成していなかった。 仮に、目一杯好意的に見て、スタジオジブリ作品で初監督を務めることのプレッシャーや現場の意思疎通不足、混乱などを加味しながら、演出の不備を最大限に看過し擁護するとしても、それでも最も失望し驚かされたのは、作品から感じられる個性や野心の欠如、創造性の欠如、知性や主義主張の欠如、ユーモアと観客へのサービス精神の徹底的な欠如という、あまりにも根的な資質や姿勢が欠如していたことであり、

    『思い出のマーニー』米林作品の「反創造」姿勢とは
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