というのに一時期関心を持った。すっかり忘れてしまったが、ぼんやりアウトラインは覚えている。 基本的に家康は呪法を必要としていた。おそらく秀吉の霊力の封じ込めであったと思う。 意外に家康はアルケミストだったっぽい。神仙薬の関心を持ち続けたというか、彼の後家ごのみもそれの関連かもしれない。また死因も案外自家薬中毒だったかも。 なぜ厭離穢土・欣求浄土なのかがよくわからない。 普通は⇒岡崎市/徳川家康公について 1560年5月19日、織田信長と今川義元による桶狭間(おけはざま)の合戦は、信長が急襲によって義元の首を討ち取られます。 今川方の部将として出陣した家康公(当時19歳で、名は「松平蔵人(くらんど)元康」)は、織田軍の追撃を恐れ、尾張大高城から近臣18人とともに大樹寺へ逃げ帰りました。 しかし、前途を悲観した家康公は、祖先の墓前で自害しようとします。 そのとき、大樹寺13代住職の登誉上人(と