室町幕府の将軍、足利義満の姿を描いたとみられる肖像画が、新たに見つかりました。黒々としたあごひげや若々しい表情などが特徴で、調査を行った専門家は「新しい義満像を読み取ることができる重要な発見だ」と指摘しています。 見つかった肖像画は、縦1メートル余り、横40センチほどの大きさで、僧侶の姿をした人物が畳に座っている様子が描かれています。 東京都内の男性が古美術商から購入し、その後、東京大学史料編纂所などが調査したところ、顔つきや衣装などから室町幕府の3代将軍、足利義満の出家後の姿を描いたと判断されました。 義満の肖像画として広く知られている京都の鹿苑寺所蔵のものと比べると、黒々としたあごひげや顔のしわが少なく若々しい表情などの特徴が見られます。 史料編纂所などは、この肖像画は描かれた布地の絹や押された印の特徴から、義満の死後150年ほどたった西暦1550年前後に描かれたとみています。 中世に
奈良・春日大社が所蔵する太刀について、12世紀の平安時代後期につくられた「古伯耆(こほうき)」と呼ばれる最古級の日本刀だったことが分かった。春日大社が22日発表した。平安時代から武家に伝わる「伝家の宝刀」が、南北朝~室町時代初め(14~15世紀)に大社に奉納されたとみられ、日本刀の歴史を考える上で重要な資料として注目される。 日本の刀剣は、古代遺跡での出土品や正倉院宝物などにみられる反りのない「直刀」から、平安後期に反りなどの付いた現在の日本刀の形が成立。伯耆国(現鳥取県中西部)で作られた「古伯耆」などが最初期のものとされる。 刀は無銘で、刃の長さが82・4センチ。鞘(さや)などの外装は南北朝~室町時代に作られた黒漆山金作太刀拵(くろうるしやまがねづくりたちこしらえ)とされる。大社によると、刃文の特徴などから古伯耆の中でも最古とみられる刀工「安綱(やすつな)」の作の可能性がある。このほかに
明治時代に発見されたあと宅地開発などの影響で所在がわからなくなり、研究者の間で幻の貝塚と呼ばれていた縄文時代の遺跡が、東京・豊島区の住宅街でおよそ120年ぶりに見つかりました。周辺には大規模な集落が広がっていたと見られ、貴重な発見だと注目を集めています。 ことし10月、豊島区の東武東上線の下板橋駅付近の住宅街で建物の建て替え工事が行われた際に大量の土器や貝が見つかり、当時の記録と出土した遺物や場所がおおむね一致したことなどから、池袋東貝塚だと確認されました。 この遺跡は蒔田鎗次郎という考古学者が発見したことが、明治29年に発行された東京人類学会誌に掲載された論文に記されていましたが、戦災や戦前・戦後の開発などで失われた可能性も指摘されるなど、研究者たちの間では幻の貝塚と呼ばれていたということです。 遺跡からは、縄文土器のほか、ハマグリやカキ、それにシカやイノシシなどの動物の骨が大量に見つか
後世に残す価値のある歴史的資料を対象にしたユネスコ(国連教育科学文化機関)の「世界の記憶」(旧・記憶遺産)に、国内候補の古代石碑群「上野三碑(こうずけさんぴ)」(群馬県)が登録された。日韓の団体が共同申請した「朝鮮通信使に関する記録」も登録が決まった。ユネスコが31日未明(日本時間)に発表した。一方、第2次大戦中に多くのユダヤ人を救った外交官・杉原千畝(ちうね)の資料(杉原リスト)は登録されなかった。 上野三碑は、飛鳥時代~奈良時代前期、今の高崎市内に建てられた「山上(やまのうえ)碑(ひ)」「多胡碑(たごひ)」「金井沢碑(かないざわひ)」の総称。朝鮮半島からの渡来人との交流から生まれたものとされ、漢字や仏教の広がりなど東アジアの文化交流を示す資料だ。 朝鮮通信使は朝鮮王朝から日本に派遣された外交使節団。豊臣秀吉の朝鮮出兵で両国の交流は途絶えていたが、江戸幕府が対馬藩を介して交渉し、1607
和歌山県日高川町鐘巻の道成寺(小野俊成住職)が、約450年前に室町幕府最後の将軍・足利義昭から贈られたとして保管してきた名刀「来國光(らいくにみつ)」が偽物であることが分かった。現在開催中の県立博物館の特別展「道成寺と日高川」に合わせて行った鑑定で判明。小野住職は「残念ではあるが、放浪中の将軍の持ち物としてはつじつまが合い、道成寺の歴史がまた一つ解明されたと思う。今後も大切にしていきたい」と話している。 足利義昭は将軍家の権力が弱まった室町時代末期の1568年、織田信長を頼って第15代将軍に就任したが、後に信長と対立。上杉謙信や毛利輝元、武田信玄ら戦国大名に呼び掛け「信長包囲網」を形成するなどして対抗したが、73年に降伏し、京都を追放された。 その後、将軍家の力が及ぶ地域を放浪。同年12月、室町幕府管領・畠山氏の勢力が残っていた紀伊国の興国寺(由良町)を訪れた。道成寺絵巻巻末の記述によると
戊辰戦争(1868年)で戦死した会津藩士の遺体が会津藩降伏直後に埋葬されたことを示す史料が見つかったと、会津若松市史研究会副会長の野口信一さん(68)が2日、発表した。遺体は新政府軍が埋葬を禁じ、半年間野ざらしにされたと伝えられてきた。 会津若松市民の長州藩(山口県)に対する感情的なしこりの一因になった埋葬禁止説が覆るとして、野口さんは「藩士がすぐに埋葬されたことが分かり、喜ばしい」と話している。 史料は「戦死屍取仕末(せんしかばねとりしまつ)金銭入用帳」で、戦死者の埋葬や金銭支払いが記入されている。市から調査を受託する研究会が昨年12月に発見。地元在住の会津藩士子孫が1981年に若松城天守閣博物館に寄贈した史料に含まれていた。 それによると、新政府は会津藩降伏の10日後の10月2日(旧暦)、埋葬を命令。翌3~17日、会津藩士4人が中心になって567人を64カ所に埋葬した。経費は74両(約
飛鳥時代で最大級の四角い形をした古墳、「方墳」と見られている奈良県明日香村の小山田古墳で石室内部の大規模な通路の跡が確認されました。調査を行った奈良県立橿原考古学研究所は、石室も最大級の可能性があるとして注目しています。 今回、奈良県立橿原考古学研究所が行った発掘調査で、石室の一部で羨道と呼ばれる通路の跡が新たに確認されました。羨道は幅が2.6メートル、長さが8.7メートルで、ひつぎを納めた玄室と呼ばれる部屋につながっていたと見られます。 今回の調査では玄室は確認されなかったということですが、羨道の規模からみ見て、方墳としては石室も最大級の可能性が高いとしています。 橿原考古学研究所の鈴木一議主任研究員は、「当時の方墳では石舞台古墳の石室が最大だがそれに近い規模になる可能性がある。当時の最高権力者が埋葬されたと見られる」と話しています。 埋葬された人物としては、専門家の間で、天智天皇の父親
中央アジアのキルギスで、日本の調査団が7世紀のものと見られる大量の瓦を発見し、調査団は、当時の中国の王朝の唐がシルクロードに築いた最も西の拠点の跡が確認できたとしています。 その結果、唐の様式をした7世紀後半のものと見られる瓦が、南北およそ25メートルにわたって崩れ落ちたように積み重なっているのが確認され、漢字が書かれた瓦も見つかったことから、調査団は、唐が築いた瓦ぶきの建物の跡と見ています。 中国の歴史書「旧唐書(くとうじょ)」には、7世紀後半に唐が勢力範囲の最も西に「砕葉鎮城(さいようちんじょう)」という軍事拠点を築いたことが記され、遺跡のある場所が候補地と考えられてきました。 調査団は、今回見つかった建物の跡が「砕葉鎮城」に相当すると見て、その具体的な姿が初めて確認できたとしています。 調査団の団長を務める帝京大学の山内和也教授は「建物の存在が確定できた意義は大きく、今後の発掘で、当
奈良市の平城京跡で、奈良時代中頃〜後半の一町(約1万5千平方メートル)規模とみられる邸宅跡が見つかり17日、奈良市教委が発表した。中央付近では2棟を一体的に利用したと考えられる大型建物跡などが出土し、市教委は一等地に建てられた貴族の邸宅跡と推定している。 発掘現場は平城宮跡や法華寺の東側。「条坊」と呼ばれる碁盤の目状の都市区画で「左京二条四坊十坪」に当たり、「佐保」と呼ばれた地域に位置する。「十坪」の中心付近約2877平方メートルを調査した結果、建物の柱穴や柱の一部などが見つかり、遺構の配置などから少なくとも一町を使った邸宅跡であることが判明した。 奈良時代中頃〜後半の遺構は掘っ立て柱塀跡に囲まれた状態で、5棟の建物跡が出土した。柱穴から、ひさしを含め東西約18メートル、南北約10・8メートルの掘っ立て柱建物と東西約12メートル、南北約3メートルの掘っ立て柱建物が南北に軒を接するように建ち
古代ヤマト王権の「ワカタケル大王(雄略〈ゆうりゃく〉天皇)」の名を金の線で記した「金錯銘(きんさくめい)鉄剣」(国宝)が出土した埼玉県行田(ぎょうだ)市の前方後円墳「稲荷山古墳」(5世紀後半)で、後円部中央の地下に、未知の埋葬施設の可能性がある構造物らしきものが確認された。東北大の研究チームと県立さきたま史跡の博物館の共同調査でわかった。 「鉄剣の持ち主=古墳のあるじ」という見方もあったが、今回の発見は鉄剣の持ち主とは別に、古墳の「真のあるじ」が埋葬されている可能性を示すものだ。 鉄剣(長さ73・5センチ)は1968年、後円部で見つかった。中央から少しずれた場所の地下約1メートル前後で、握り拳大の石と粘土をそれぞれ敷き詰めた「礫槨(れきかく)」と「粘土槨」の計2基の埋葬施設(長さ5・7~6・5メートル、幅1・2~1・9メートル)が発見され、そのうちの礫槨から鏡や武具、馬具などとともに出土し
歴代の天皇や皇族の陵墓の保全管理に伴う調査について宮内庁は28日、単独で実施してきた前例を転換し、新年度から陵墓のある自治体の教育委員会や考古学研究者に協力を要請する方針を示した。調査の成果は地元教委と共同で発表し、幅広く国民に伝える。 同庁は、歴代の天皇や皇后、皇太后などを埋葬した場所を「陵」、それ以外の皇族は「墓」として管理し、総数は898基に上る。研…
◇240人歌詠み 続日本紀に記述 ◇平城京跡 遺構出土せず 奈良市の平城京跡の発掘調査で、平城宮の正門・朱雀門の南西側の一角に、建物がない場所が広がっていた可能性が高いことがわかり、県立橿原考古学研究所が15日、発表した。奈良時代に儀式が行われた朱雀門前の広場の一部とみられる。(早川保夫) 調査地は積水化学工業の工場跡で朱雀門から南へ延びる朱雀大路のすぐ西側。門前にバスターミナルを整備するため、9月から1980平方メートルを発掘した。 その結果、平城京を碁盤目状に走る大小の通りで区切られた区画のうち、朱雀大路に面し、朱雀門に最も近い2区画では奈良時代の建物は見つからなかった。 朱雀大路を挟んだ東側でも、平城宮の造営のためとみられる鍛冶工房群(奈良時代前半)の廃絶後は建物の形跡がなく、朱雀門の前は東西とも広場だった可能性が高まった。 また、朱雀大路のすぐ西側を平行に走る小路(路面幅約5メート
古墳から出土した古代の鏡、「三角縁神獣鏡」を復元して光を当てると、反射した光が裏に描かれたものと同じ文様を映し出す現象が起きることを、京都国立博物館などの研究グループが明らかにしました。 研究者は、当時の権力者が神秘的な鏡を使い権威を高めたのではないかと注目しています。 京都国立博物館の村上隆学芸部長などの研究グループは、古代の鏡の三角縁神獣鏡が、作られた当時、どのような性質を持っていたのか調べました。 発掘された実物はさびついてほとんど光を反射せず、磨くこともできないため、比較的保存状態のいい愛知県犬山市にある「東之宮古墳」から出土した三角縁神獣鏡にレーザー光線を当てて、形を精密に計測しました。 そのうえで、実際と同じ銅などを使い、3Dプリンターと呼ばれる装置で複製し、表面を磨いて、作られた当時の姿に仕上げました。これに太陽の光などを当てると、反射した光が、鏡の裏に描かれた物と同じ文様を
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