早稲田大学・藤本憲正様からのメール 大学で政治学を学んでおりますが、 人間そのものを深める学問は講義ではほとんどありません。 どちらかというと戦術や戦略に関わる 科学的な知識、論理が中心です。 そちらもとても大切だとは思いますが、 それらを学んでも人間的に深まったという満足度は ほとんどないものです。 むしろ人間的には醒めた卑しい人間に なってしまいがちのように感じていました。 上手く表現できませんが、いわゆる中途半端なインテリのような存在です。 『致知』のような人間を深める学問を基礎として学んでこそ、 そのような戦術、戦略の知識が生かせるのだと思いました。 国家社会や人のためという意識もなく、 人間的な深みもないまま戦略をとっても卑しいだけです。 そのようなことにならないためにも、 常に基礎の人間学を意識したいと思います。 私は人間学を学び始めたばかりではありますが、 古典、歴史、人物研
西尾幹二のインターネット日録 バージョンアップならびにアドレス変更のお知らせ 皆さまにおかれましては、長らくご利用いただきましてまことにありがとうございます。 さてインターネット技術の進歩は著しく、便利になると同時に危険もございます。 そのためソフトウェアのバージョンアップをおこない、また通信の暗号化をおこなうことといたました。 新しいアドレス(URL)は下記の通りでございます。 https://ssl.nishiokanji.jp/blog クリックして新しい日録へ移動していただきますよう、お願い申し上げます。 お見苦しい点もあると思いますが、コメントご指摘いただきますれば幸いです。 ちなみにコメント投稿の際には、半角の数字を入れていただくことになりました。 これも安全策の一つでして、お手数をおかけしますがよろしくお願いいたします。 平成28年2月28日 管理人敬白
ホテルから大学への道は世界遺産にも 指定されている旧市街を通る。 本当に楽しみで、しかし 二日だけである。 そう、もうあっという間に終わってしまった。 ミラベル公園を通る。 美しい。 ヨーロッパの庭園は幾何学 に基づいており、 日本庭園とは異なるプラトン的 領域を刺激される。 会場に着き、Jim Laukesを 見ると、何やら見覚えのある Tシャツを着ている。 「あれ、それ!」 ボクが数年前につくった 「Qualia」のTシャツをJim Laukes が着ていてくれた。 Einsteinを組み合わせた画像は、 qualia-manifesto.comのトップページに 掲示していたもの。 復活させようかしら。 自分自身のトークは、 The origin of non-locality in consciousness という題。 質疑応答が楽しかった。 二日間たっぷり量子力学と意識の 関係に
最近、「観察」(observation) ということが面白くなって、 電車に乗った時など、人の動きなどを じっくり見ることがある。 大学院に入った時、指導教官だった 若林健之さんに、科学者というのは 何を観察して研究ノートに書くかが全てだと 教わった。 だから研究ノートには良いものを使え、 と言われた。 若林さんは、ケンブリッジのMRCに 留学していて、 その当時からの慣習で黒と赤の背表紙の ノートを使っていた。 数年後、私自身がケンブリッジに留学すると、 みんなこのノートを使っていた。 読売新聞の「著者来店」の写真で 私が持っているノートがそれである。 http://www.yomiuri.co.jp/book/author/20050426bk01.htm Black n' Red といって、 イギリスでは文房具店で普通に手に入れることが できる。 「観察」というのは、つまり、自分の主
夢は、昼間に体験したこと、 蓄積された記憶が整理されるプロセス である。 それがあたかも「私」という 自我の全体にかかわるような形で 進行することが面白い。 記憶を整理するだけならば、 純粋に情報論的な理屈に基づいて 自我と無関係に行えば良いようなものを、 あたかも自分がその中に包み込まれて しまったような感覚を伴って 全てが進む。 つまりは、体験というものは、「自分」 というものに関係して整理しなければ 意味がないことという ことなのであろう。 常に、「私」が関与する形で 世界に関する知識を調えることで、 初めて「生きる」ことに資する。 知識というものが、「私」という 存在にかかわる形でいかに整理 されるか? これは、インターネット上に大量の 情報が蓄積されるようになった 現代において、特に大切な命題になっている。 梅田望夫さんとの共著『フューチャリスト宣言』 の中でも発言したように、
京都から帰ってきて、 汐留で打ち合わせ。 有意義な時間であった。 上野の国立博物館に。 レオナルド・ダ・ヴィンチの 『受胎告知』を池上英洋さんと 一緒に見る。 先日、NHKの番組の収録の ときにもじっくり見ることが できたが、今回も30分ほど、 絵の前に立って動かなかった。 池上さんは、東京芸術大学での 布施英利さんの後輩。 西洋美術史、特にレオナルド・ ダ・ヴィンチをご専門としている。 「レオナルドは、当時の一般的な 画家とは異なって、 自分の技法に自信がなかった、というか、 迷いに迷ったあげく、一筆だけ 描いて、その日を終わる。そんなやり方を していたという記録が残っています」 と池上さん。 レオナルドの『受胎告知』には、 このテーマについて 当時描かれていた様々な絵の技法とは 明らかに異なる方法が採用されており、 さまざまな画期的イノベーションが 含まれているという。 私は、前回この
空は青く澄み渡っていた。昭和59年4月8日。グリコ事件の犯人グループが、江崎グリコに現金6000万円を要求してきた取引指定日である。日曜日の午前中。休日は夕刊がないので、ふだんなら阪神支局には、当直明けの記者が1人いるだけである。だが、この日は違った。三々五々、記者が集…
金曜日。 ゼミで、野澤真一が統合失調症と絡めて、 ドーパミン系の働きについてレビューする。 野澤は、一貫して「うつ状態」の問題に 関心を持っていて、しかしそれはなかなか リサーチとして立ち上げにくいからと、 随意運動の問題へと「着地」したはず であったが、 金曜日のレビューはまたもや「先祖返り」 したようにやっかいな精神性のことを 扱かおうとしていた。 私は、困ったなあと思いながら野澤に言った。 君がやろうとしていることは、普通の 修士論文のプロジェクトとしては重い。 普通の10倍くらいの文献を読まなければ ならないんじゃないか。 君は「自発性」というけれども、 それが何であるか、きちんと記述しようと 思ったら、関連したことを言って きた人たちはたくさんいるわけであるし、 一度それらの流れを押さえなければね。 それと、どこかの時点で、精神科の 人と話した方がよいんじゃないか。 野澤が興味を
サンフランシスコ発--Google共同創設者Larry Page氏には次のような持論がある。人間のDNAは約600Mバイトの容量が、LinuxやWindowsなど現代のOSよりもコンパクトに圧縮されたものである。 Page氏によると、人間に対するプログラミング言語があるとすれば、それは人間の脳の働きをも包括するだろうという。同氏は米国時間2月16日夜、当地で開催されたAmerican Association for the Advancement of Scienceの年次カンファレンスで壇上に上がり、自身の仮説を繰り広げた。同氏は、脳のアルゴリズムはそれほど複雑なわけではなく、計算能力を駆使することにより、将来的には擬似できるものであると思うと述べた。 Page氏は、ヒルトンホテルの会場いっぱいに集まった科学者らに対し、「Googleでは実際に大規模な人工知能を構築しようという試みに取り
「20世紀初頭のイギリス自由主義思想の変容」なんていうテーマの勉強をしていると、「何のためにそれを勉強しているのか」、「どのようにそれを勉強すべきか」という2つの問いに、常に悩まされる。前者は研究の意義についての悩みであり、後者は研究の方法についての悩みだ。 前者については、今日の政治思想や社会思想と呼ばれる分野で「自由主義」(リベラリズムでも良い)が問題にされる場合、20世紀初頭のイギリス自由主義思想が注目されることがほとんどないという事情が絡んでくる。思想に興味がある人は、リベラリズムと聞けば、たいがいは「ああジョン・ロールズなんかのことね」と思うだろう。または思想「史」という歴史的観点に興味がある人だったら、ロックやJ.S.ミルなども思い浮かべるかもしれない。 しかし20世紀のはじめにイギリス自由主義がどのような思想的経緯を辿ったかなどというテーマに興味を持つ人は、「イギリス経済思想
学士会の夕食会で、團藤重光先生に おめにかかった。 日本の刑法学における重鎮。 私も、法学部時代はその御著書で 勉強した。 学士会の理事長もされており、 講演前、 となりで食事をいただきながら いろいろとお話をうかがった。 「あなたのやられている分野と 刑法学の境界領域は、アメリカで 随分やられているでしょう」 「はあ」 「やはり、主体性理論との関連に おいてね。」 「はい、私たちも、agencyや、free will の問題には関心を抱いています。」 「あなたの脳科学の先生は、どなたですか」 「伊藤正男先生です。」 「ああ、伊藤先生ね。伊藤先生の論文を引用 したことがありますよ。」 講演の時間となり、私は「知の総合性」 についてお話させていただいた。 昨年、京都大学で湯川秀樹、朝永振一郎 両博士の生誕100年の記念シンポジウムが あったのを機に、 私は湯川博士の生涯をもう一度 振り返って
知識も人間のためにある。だから、人間の役に立たない知識というものには意味がないわけ。極論すれば、ごたごたやっていたソクラテスが何だかんだやっていたような知識はほとんど意味がない。ところが、意味ある知識が急に出てきた。そして世の中がらがらと変わってきた。 ものの役に立たないことを言う学者たちに対し、ドラッカーはかなり批判的です。『現代の経営』に、その象徴として、外科手術のことを書いている。昔、外科手術をやる時は、学者先生がその手術に関する声を出して本を読む。ところが、ここに患者がいて、その足を切ったりなんかしているのは、先生ではなく床屋であると。だから、ほとんどの場合患者は死んじゃう。でも、大きな声で朗読をしている先生が、手術費の大半を持っていく。それが昔の外科手術だったそうです。 ものの役に立つものとして、ドラッカーが注目したのは、手段としての技術です。それが最初は技能であった段階には、特
社会生態学者、ピーター・ドラッカー氏のほぼすべての著作は、同一人物によって邦訳されている。ものつくり大学名誉教授の上田惇生氏である。上田氏は翻訳者にとどまらず、ドラッカー氏の編集者であり、情報収集の助手でもあった。ドラッカー氏は何か原稿を書くと、タイプ原稿をそのまま上田氏にファクシミリで送って意見を求めたという。 こうした関係を30年以上続けた結果、ドラッカー氏は上田氏について、「私より私の著作に詳しい」と評し、ある著書の前書きで上田氏のことを「私の分身」とまで呼んでいる。その上田氏が昨年、初めてドラッカーに関する本を出版した。『ドラッカー入門 万人のための帝王学を求めて』である。 題名の通り、ドラッカーに関する入門書として準備された。ただし巻頭で上田氏は「本書のテーマは、あえていうならば、このモダンの世界観からポストモダンの世界観への重心の移行であり、そこにおけるポストモダンの旗手として
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