多分、増田が理解してる以外に問題があったと思うよ。 増田が家事もせず、かといって病院に行って体調不良を直そうともせず、みたいに 将来に展望がもてない状態だと、そりゃ相手もついていけないよ。
私は猫かぶりです 心の中にたくさんにゃんこを飼っています。かぶるにゃんこは星の数。 卑屈なにゃんこ 晴れやかな気分のにゃんこ オタクなにゃんこ 眠るの大好きなにゃんこ 人に気を遣いすぎるにゃんこ 冬の澄んだ星空が好きなにゃんこ 人と目が合わせられないにゃんこ 家族が大好きなにゃんこ 不安に支配されたにゃんこ 夢見がちなにゃんこ 遠くでそれらを見つめる灰色にゃんこ・・・ 私は猫かぶりです そんな私は悩みます。思春期なのです、当たり前に悩むのです。 自分が時々分からない。どれが本当の自分か分からない。分からないから無性に不安になるのです。 だから、どれが本当の自分なのか、ずっと探していたのです。 けれど最近 思います。 いろんな猫をかぶるけど、自分の個性はどれなのか、自分を探していたけれど、 所詮、猫というフードをかぶっているだけなのです。 人より着替える回数と種類が多いだけなのです。 考えよ
自分だってみんながそうであればいいと思うけれど、「正しく感謝する」って結構難しい。感謝を示すことは「誰にでもできる」のは確かだけどそこに至るのは簡単ではないし、ましてやできるのが自然、ではないと思う。 少なくとも言葉で「ありがとう」といえば感謝かというとそれは違うと思う。まず「ありがとう」という気持ちを感じることが難しいのだ。 こういう感謝の感情は、きちんと訓練したり教育しないとそういうものだと理解できないし、身につかない。 少なくとも私にとってはそうだった。 小学生のころ、よく「感謝を知らない子だ」って言われてた。やるべきことをやっただけなのに感謝の言葉を言われたり、逆に頼んでもないのにおせっかいを押し付けられた時に感謝「しなければいけない」ということがよく理解できなかった。感謝というのがどういうもので、それはどういう行為に対して感じる「べき」がよくわからなかった。家族の愛情云々の問題も
祖母が二人の子を抱えて夫と死別したのがまだ30歳になる前のこと。 数枚残っている写真を見れば、ずいぶん美しい人だったことが分かる。洋風の顔立ちでどう見ても白人の血が混じっている。祖先には白人はいないはずだが、どこかで血が混じったのかもしれない。 子を抱えた祖母は生きるために、子を育てるために働きに出た。これという産業もない田舎町。幾つかの会社を経営する地元の金持ちの家に、通いで家政婦として勤めた。 やがてその家の主人の子を宿した。どうも強姦まがいのことがあったらしい。 それで生まれたのが僕の父。 私生児に人権などなかった時代だった。はらませるだけはらませておいて、責任をとるつもりもなかった主人は、何もしなかった。 祖母は亡き夫の兄夫婦に頼んで、その夫婦の戸籍に僕の父を彼らの実子としたうえで、養子縁組をして僕の父をひきとった。 父が5、6歳になる頃まではそれなりの生活費も与えられて、わりあい
あれはおそらく幼稚園に入る前のことか、むかしはおおらかと言うか、その年齢の頃の子が近所にひとりで出かけることがあった。 子供の時を思い出せば、なぜあんなことにああも無心になれたのかと不思議に思うほど、ひとつの遊びに何十分も、何時間も、熱中していたものだ。 僕は近くの公園の砂場で、お城を作っていた。 サンドアートのまがい物のようなものだが、子供なりに手の込んだものだった。 それを作り、そろそろ完成かという頃に、近所の同い年くらいの子がつかつかとやって来て、僕のお城をけり壊した。 子供がすることだ。 しかし今振り返っても、僕は同じく子供だったが、そういうことをするという発想自体が無かった。 その時、僕が思ったのは、人には二種類いるということだ。 砂のお城を作る人間と壊す人間。 作って喜ぶ人と壊して喜ぶ人。 一言一句そのままに、3歳の頃の僕はそう思った。 人間の中にある邪悪を見たごく初期の一例だ
仮に10人で8つのいすを取り合ういす取りゲームをやってみたとする。普通に考えれば、2人は必ずいすには座れないことになる。 このいすに座れなかった人に対していろいろ言うことはできる。いわく、 「もっと俊敏に動く努力をしなかったからだ」 「本気で座る気がないから座れないのだ」 と。しかしまあ何をどういっても、ゲームを放棄する人が出てこない限り、2人が座れないのは事実なのであって、それを解決するにはいすの数を増やすしかない。この状況に対して個人が適応しようとするならば、「よりがんばっていすを取る方法を考える」というのが妥当なところであろう。ただいすが不足した状態でゲームを繰り返せば、前回座れなかった人が決死の努力でいすを取りにきたら今度は自分がいすを失うかもしれないという状況はずっと変わらない。 自己責任論はゲーム参加者の適応的な視点からならまだ許せるけれど、いすの数をどうこうできる立場にある人
これを読んで思い出した。 私も同じような事を思った事がある。 といっても私は女性なので、そう思い始めたのは大学に入る前からなんだけども。 いつごろから男女平等だとかそういったことを考え始めたのか、記憶にないが、中学生の時には既に考えていた覚えがある。 やはりこのエントリを書いた人のように、素朴に男女平等を信じていた、という感じだった。 しかし高校へ進学してから、妙だなと思い始めた。周りの女子たちの男女観が、意外と古風なのだ。その頃の自分は女=料理って何じゃそりゃ!と普通に思っているような感じだったが、女子たちは案外「女=料理、家事」「やっぱり女だからいつかは結婚したいし子供もうみたい、それが女の幸せ」みたいな事を考えている、というか、受け入れている、というのか。成績がいつもクラスで5番以内には入る子が何故か「私は女の子だから勉強が苦手」とか「女の子だから数学が苦手」とか言ってるのである。意
年末あたりに生まれて初めて痔になっちゃいました。 「痔」って聞くと、なんとなくギャグっぽい感じがします。 今までは正直、侮ってましたが、実際は地味ぃーにキツいんですね、痔って。 全然ギャグとかじゃありません、笑えませんよ、ちっとも。 私は今のところ出血しないタイプの痔なのですが、 気を抜くと(というか抜かなくても)、こう、みょるっと出てきちゃうんです。 粘膜的というか、腸壁的なナニカが。 立ってたり中腰だったりするともうダメです。 確実に、*から、ヤツが、「こんにちは!」って出てきます。 呼んでねーよ引っ込んでろと言いたいところですが、 言ってもしょうがないので実力行使で対処します。 *←押し込め!!! いや、押し込むてなによ…、とか思った方もおられると思います。 ですが、そうでもしないと、ずーーっと地味に痛いのです。 そのうえ、腫れます。 粘膜的なナニカが、肥大化してきます。 たぶんちょ
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