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ブックマーク / www.highriskrevolution.com (6)

  • どうしてハドソンはROMカートリッジを自社生産しなかったか? | Colorful Pieces of Game

    『ハドソン伝説』に関係して「どうして独自カートリッジを生産しなかったか理由が書いてありましたか」と「ファミコンの最初期から任天堂さんがサードパーティとの生産委託の契約書を持っていた」という、正直な話として、1983-84年当時のことをいろいろ勘違いされているなというツイートを見かけたので、ちょっとここに書いておきたい。 まず「ナムコは独自でROMを生産したのに、どうしてハドソンは独自で生産しなかったのか?」。 答えは簡単で、ナムコはすでにマニュファクチャとして基板を大量生産する能力があったけど、ハドソンにはなく、なおかつそんなことをする金もなかったから。 当時、つまり84年ごろのハドソンはせいぜい数十人しか社員がいない小さな会社で、83年時点で売り上げが全部合わせて20億程度。 ROMの生産委託の2億行かないぐらいの費用すら、集めた問屋の注文を銀行に見せて、ようやく融資してもらっているサイ

  • PCエンジンminiのお手伝いしてました | Colorful Pieces of Game

    30年前あったPCエンジンという8ビットゲームマシンは、僕にとってとても思い出深いハードだ。 なんせこのハードでゲームを作るプロ側に立てるようになったのだから、そりゃあ思い出も深い。 そのPCエンジンがレトロゲームマシンの復刻ブームでミニとして出るという話になり、なんとそれのお手伝いをさせてもらえることになり、スタッフロールに名前が出ることになってしまった。 30年やっていると、こんなボーナスが出ることもあるんだなと思った。 ではなんのお手伝いをしてたのか? あまり具体的な個々の内容に触れないように書くと、30年前のソフトとハードの中身の説明ということになる。特に多かったのは圧縮・メモリの質問とビデオ周りの質問。 実は圧縮は難しくなくて、当時の圧縮はグラフィック側はLZSSを使って、コレはこんな数字を設定してますよって話を伝えたりすれば「なるほど!」でだいたい終わった。 奥村先生が当時のソ

    dnsystem
    dnsystem 2019/09/26
  • イースⅠ・Ⅱ通史(8):『ファザナドゥ』開発物語(1) | Colorful Pieces of Game

    これはイース通史の中で、イースとは直接的には関わりのないエピソードなのだけど、ハドソンが『イースⅠ・Ⅱ』の許諾を取る上では、大きな問題になった…と思われる『ファザナドゥ』のエピソードだ。 まず『ファザナドゥ』という作品について、簡単に説明しておきたい。 『ファザナドゥ』はファルコムの大傑作ソフト『ザナドゥ』を、ハドソンがファミコン用に移植したゲーム、ということになっている。 「ということになっている」というのは、発売されたゲームが、まるで別物だから。 ここで名誉のために書いておくと『ファザナドゥ』は、まあまあ出来がいいRPG要素の入ったアクションゲームだ(RPG要素の入ったと書いているのは経験値による成長サイクルがないのでCRPGとは呼び難いから)。 ただアイテム名やモンスタ―名、それとも称号に共通しているものがある以外は、何一つ『ザナドゥ』と共通点がなく、「どうして『ザナドゥ』の名前がつ

    dnsystem
    dnsystem 2019/04/18
  • PCエンジンの開発環境(CDROM篇)::Colorful Pieces of Game

    当然ソフトもあってhu7用のBIOSのバイナリ、BIOSのシンボルファイル、ユーテリティ的なPCエンジン用のソース、あとCDエミュレータ、CDに書き込むソフト、CDからテープにバックアップ/レストアするソフト、ADPCMのエンコードソフト、などがセットに入っていたはず。 ここで時代的に説明しておかないといけない話を一つ書いておく。 現在ではCDROMだろうがDVDだろうが、マスター(工場でプレスするデータ)はBD-RもしくはDVD-RもしくはCD-Rで提出するのが常識だが、PCエンジンのCDROMのマスターはほぼ全てMT(8ミリビデオテープ)で提出していた。 というのも、最初はCD-Rが存在しなかったから。当たり前だが、存在しないCD-Rでマスターを入れられるわけはない。 そして当時、CDROMのマスターの方法として一応確立されていた方法はいくつかあったが、ハドソンが選んだのはExabyt

    dnsystem
    dnsystem 2017/06/29
  • ハドソンがファミコンに参入するまで(1)::Colorful Pieces of Game

    これは1984年に、ハドソンが初のサードパーティとして、ファミコンに参加するときの物語だ。 前のポストで、野沢さんの証言を元にブログを書いたら、いろんな人から細かい情報が集まって、どんな風にハドソンがファミコンに参入したのか、そのプロセスはどういうものだったのかを、ようやくその全貌が正しく明らかになったと考えられるようになったので、再度具体的に書いていきたい。 ところで、この記事は、前の物とかなり激しくかぶるのだけれど、前のものを消すとどのように変化したか? が分かりにくく、かつ前回のに付け加えをするには、あまりに多すぎるので、あえて新しい記事としてアップロードすることにした。 あと今回、何人か名前を出して欲しくないといわれた関係者が現れてしまったので、野沢さんの言葉と一緒に、当時のハドソン関係者と、今のところは伏せておくことにしたい。 …って考えてみたら、野沢さんの名前出していいかどうか

  • 完売御礼など::Colorful Pieces of Game

    あけましておめでとうございます、今年もよろしくお願いします。 頒布したが完売して嬉しかったのを兼ねて、出してしまったの補足をいろいろ書いていきたい。 まず、一番大きかったことが「嵐の結界」を誰が思いついたのか分かったこと。 当につい最近わかったのだが、実はこれが僕には長年の疑問だった。 というのも、イース1のマニュアルに結構しっかり書いてあるストーリーであるにもかかわらず、1・2を作ったとき、山根は全く嵐の結界について拘泥していなかった。また大浦君と桶谷君も気にしていなかった。つまり、実際にゲームを作っていた人間にとって、それほど重要な設定ではないのは明らかだった。だいたい当に重要と考えている設定だったら、1・2で山根が定期船のコンテを出してくるわけがない。 「では誰が考えた設定なんだ?」というのは気になっていた。 もちろん誰も気にしていないからいいだろう…という事は出来るが、それ

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