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マルクスに関するdonotthinkfeelのブックマーク (4)

  • ボリス・グロイス『デュシャンによるマルクス、あるいは芸術家の2つの身体』

    ボリス・グロイス『デュシャンによるマルクス、あるいは芸術家の2つの身体』2010年 試訳 Boris GROYS, Marx After Duchamp, or The Artist’s Two Bodies, e-flux journal #19 october 2010. -> link 20世紀への変わり目に、芸術は芸術の大量生産という新しい時代へ入った。それ以前は芸術の大量消費の時代だったのだが、我々の過ごす今、状況は変わってしまった。この変化を導いた2つの主要な発展がある。それは第一に、イメージを生産し流通させる新たな技術手段の登場であり、第二に、我々の芸術に関する理解の転換、何が芸術で何が芸術でないかを定めるために私たちが用いる規則の変化である。 まずは、第二の発展から始めよう。今日我々は、芸術作品を、主にひとりの芸術家による手仕事で作られた物としては捉えていない。芸術家の労働

    ボリス・グロイス『デュシャンによるマルクス、あるいは芸術家の2つの身体』
  • シュッタブラタ・セングプタ インタビュー(エピローグ) - ART iT(アートイット)

    Still from The Capital of Accumulation (2010), two synchronized video projections with sound, 50 min; two books in vitrines. All images: Courtesy Raqs Media Collective. 私のうちにあって緯度は拡がり インタビュー / アンドリュー・マークル I. II. III. エピローグ ART iT あなたの考え方にはマルクス主義の強い影響が感じられます。若い頃にはローザ・ルクセンブルクの読書会に参加していますし、その経験は「The Capital of Accumulation」(2010)にも落とし込まれています。その一方で、マルクス主義はインドで独自の発展を遂げました。マルクス主義との関わりについて教えてもらえますか。 シュッタ

  • 抽象と具象 - アート哲学・糸崎公朗blog3.2

    私の「フォトモ」は有り体に言えば「具象」であり、現実の模倣である。しかし現実を単に模倣することは、職人的ではあるが知的であるとは言えない。そこで私の「非人称芸術」は具象と抽象の垣根を越えようとしたのだが、しかし当にそうなっていたのだろうか? あらゆる「意味あるもの=具象物」に対し、その意味を捨象した視線を投げかけるならば、それらはことごとく「意味のないもの=抽象」へと変貌する。と言うのが「非人称芸術」の原理なのである。しかしこの考え自体は、十分に掘り下げられていない。 非人称芸術を再現したとされる私のフォトモは、ある水準の完成度を持っているが、その完成度は実に「意味の序列」によって成立させているのだ。意味の序列を失ったフォトモは(他人の失敗作を見て分かるとおり)文字通り意味を形成できずに紙屑になってしまう。 ここに理論矛盾が生じている。非人称芸術は「意味あるもの」から「意味」を剥奪するこ

    抽象と具象 - アート哲学・糸崎公朗blog3.2
  • エンジニアが勉強し続ける理由 - mike-neckのブログ

    これはほとんどネタです。 ここ最近、マルクスを再読していました。貧富の格差、貧困の問題とかワーキングプアーなどがニュースになっていることを見るにつけ、マルクスが気になっていたからです。マルクスが資論を書くための準備していた時期の『経済学・哲学草稿』などに、貧富の格差、ワーキングプアーといった今とまったく同じ問題が記述されていたので、マルクス経済学は超克したとかいいつつ、実は全く何も超克していないのだと思いつつ有ります。 時折、話題になる労働に関するテーマなどがあり、それらについてもマルクスの著書ですでに述べられていることがあったりします。 例えば、エンジニアが勉強し続けることについてです。 今年、このことの元になった記事はこれだと思います。 101回死んだエンジニア: 業務時間外で勉強をしなければいけない理由 簡単にまとめると、技術者は技術だけが武器であり、それが通用しなくなると歪んだ環

    エンジニアが勉強し続ける理由 - mike-neckのブログ
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