卒業生総代の学生は「大学はスピーチを中止にすることで、恐怖に屈し、憎しみに報いるだけです」と訴えている
![米名門校、卒業生代表のスピーチを中止。パレスチナ支持を批判されていた](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/9fe17a4f6dc9984dd52891f8e82f1fef255cfea6/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fimg.huffingtonpost.com%2Fasset%2F66206fa92200005900fc6edf.jpeg%3Fcache%3Dh2r8S56mOx%26ops%3D1200_630)
パレスチナ自治区ガザ(CNN) 爆発の衝撃で自宅が揺れ、ノートパソコンが吹き飛んで、粉々に割れたガラスや破片の上に落下した。点滅する画面に目をやって私はため息をつき、また1台のコンピューターに、そしてこの原稿に、死を宣告することも覚悟した。私はパソコンを床からそっと拾い上げると、何とか命を吹き返させた。そして執筆を続けている。 ガザにいる私たちはこの5日間、誰もがニュースにくぎ付けになり、攻撃と反撃が交わされ、境界の両側で死者が増えていく様子を信じられない思いで見守っている。暴力は毎回、違う始まり方をする。だがここでの終わり方はいつも同じだ。パレスチナ人が重い代償を負う。私たちは永久に悲劇的な結末を予期しながら生きている。 今、私は原稿を書いている。なぜなら執筆は生命線であり、この数日の間に底知れぬ闇が深まっていく現実からの、つかの間の逃避でもあるからだ。 電気は止まり、水は不足し、家の外
元ちとせ「死んだ女の子」 作詞:ナジム・ヒクメット 作曲:外山雄三 日本語訳:中本信幸 編曲・プロデュース:坂本龍一 @RyuichiSakamotoArchive https://www.youtube.com/ryuichisakamotoarchive Chitose Hajime / Shinda Onna no Ko Lyrics by:Nâzım Hikmet Composition: Yuzo Toyama Japanese translation: Nobuyuki Nakamoto Produced and arranged by: Ryuichi Sakamoto 【配信 / Streaming & Download 】 https://LGP.lnk.to/mASZ6g トルコの社会派詩人・ナジム=ヒクメットの詩をロシア文学者・中本信幸氏が日本語に訳し、その訳詞
北東アジアで核兵器が実際に使用されるとどれくらいの人が亡くなるのか、国際情勢を踏まえたシミュレーションを長崎大学などが行い、結果を発表しました。 被害が限定的なケースでも核兵器が使用されてから数か月以内に攻撃を受けた地域の人口の25%が亡くなるという結果になったということで「核使用のリスクを直視し、核抑止に頼る安全保障の枠組みを見直す必要がある」と指摘しています。 目的は”核兵器使用されないようにするための方策 考えるため” 長崎大学核兵器廃絶研究センターは、核兵器が使用されないようにするための方策を考えるために、北東アジアで核兵器が使用された場合にどのような被害が出るか、アメリカの研究所などと共同でシミュレーションを行いました。 シミュレーションは関係する各国の核戦略や国際情勢をもとに ▽朝鮮半島をめぐって合わせて3発の核兵器が使用されるケースや ▽台湾をめぐって核保有国どうしが使用し威
戦後77年をへても終わることがない戦没者の遺骨収集。近年は遺骨の身元特定にDNA鑑定が使われるようになったが、政府はこれを積極的に活用しているとは言いがたい。そんな政府の尻をたたき続け、限定的だった鑑定対象を次々に広げさせている「異色の地方公務員」がいる。大阪府の上田慶司さん(64)。上田さんが異色なのは、自身が現場で遺骨を掘り出す活動をするのではなく、政府との交渉といった後方支援に徹していること。もうひとつは、日本人だけではなく、「日本兵」として戦場に駆り出された朝鮮半島出身者らの遺骨も家族のもとに返す活動をしている点だ。戦争体験者だけでなく、その遺族も高齢となり、願い続ける父や兄の遺骨の返還を待たずに亡くなる人が増えてきた。時間との闘いがますます厳しくなる中、「すべての戦没者を家族のもとへ」と奮闘する上田さんの足跡を追った。 ■6月はいつも沖縄 6月23日の沖縄慰霊の日。上田さんはこの
特攻隊は「よくやった」(1944年10月)→特攻作戦続行・拡大 戦争終結は「もう一度戦果を挙げてから」(1945年2月)→東京大空襲、全国焦土化、沖縄戦 「海軍にはもう艦はないのか?」(1945年4月)→大和特攻、2時間で4千人戦死 沖縄をアメリカに売った「天皇メッセージ」(1947年9月) 戦争責任は「言葉のアヤ」、原爆投下は「やむを得ない」(1975年10月) こちらの記事へのコメントで要望を頂いた件、面白そうなのでやってみた。 昭和天皇裕仁のクソな「思し召し」と言えば、すぐ思い当たるのはつぎのようなものだろう。 特攻隊は「よくやった」(1944年10月)→特攻作戦続行・拡大 海軍特攻隊の生みの親と言われる大西瀧治郎は、必ずしも特攻作戦に積極的ではなく、これを「統率の外道」と呼び、こんなことまでしなければ戦えない状況になっていると知れば、天皇が戦争を止めてくれるだろうと期待していたと言
泣き叫んで天を仰ぐ女性、虚な瞳でこちらを見つめる子ども、包帯から血が滲み出た負傷者…戦争や貧困で苦しむ人たちといってイメージするのはそんな人々の姿だろうか。争いや貧しさに心を痛める。なぜこうなってしまったのか、原因を考えようとする。様々な分析や解説を読んだり聞いたりすることはできる。しかしいつまで経っても終わらない争いに感覚が麻痺してくる。彼らはもともと不幸になる運命で、そういう星の下に生まれたんじゃないかとさえ思えてくる。不幸な人は、もともと不幸で、もうどうしたって不幸に違いない、と・・・。 オマルさんの貫禄トルコで暮らす街を案内してくれるオマルさんでも、イラクは少なくとももともと貧しいところでも、戦火が絶えないところでもなかった。 オマルさんと私が初めて会ったのは2013年、イスラム国が支配を広げる前のイラクで通訳として知り合った。当時も治安はよくなかったものの、人々の間にこれからよい
きっとあなたはこの記事をクリックすることはない。その理由を説明しよう。内戦転落から7年がすぎたシリアからは、惨状を伝える記事や画像が発信され続けているが、SNSでのシェア数は世界的に激減している。終わりの見えない戦闘と市民の悲痛な叫びに対して、世界の人々の関心は薄れてしまったのだろうか。 ほとんど暗闇といっていい地下の防空壕に身を寄せ、爆撃から身を守る。後ろで子どもたちが行き交う気配がする中、22歳のヌール・アダムは動画を撮りながら、みずから画面に向かって話す。「子どもたちはここで食事をし、眠り、ここで生活しています。他に行く場所はありません。外では空爆が続き、建物と町が破壊されています」 その後、毎日、より広く世界の人々の目にとまってほしいという思いから、砲弾の飛び交う地上へ出て建物の屋根に上り、インターネットにつないでTwitterに動画を投稿する。これまで数百回かそれ以上、繰り返して
【3月7日 AFP】包囲された街で飢えてやつれきり、時には死の危険にさらされ、また時には自ら死を望む若きジャーナリストに、いったいどんな言葉を掛けられるだろう? 励ましや、仕事に対する称賛を並べるばかりだが、計り知れない無力感は拭い切れない。 「気を強く持って。われわれには君が必要なんだ。頑張って。諦めないで」 レバノン・ベイルート(Beirut)にいる私や同僚らは、シリア・アレッポ(Aleppo)を担当するカラム・マスリ(Karam al-Masri)記者との日々のやりとりの中で、こうした言葉を何度送ったことだろう? われわれはカラムに敬服している。空腹や恐怖、爆撃を耐え忍んできたからだけではない。これらあらゆることに直面しながらも、記事や目撃した詳細、写真、動画をわれわれに送り続けてくれたからだ。われわれは常にこう伝え続けた、ただ君に無事でいてもらいたい、自分の身をいたわって、この地獄
映画「この世界の片隅に」がヒットを続けている。しかも様々な賞を総なめだ。 自分は大変幸いなことに、公開後の割と早い時期に片渕須直監督のインタビューという仕事をすることができた。インタビューを手配したY中さんに感謝である。 「この世界の片隅に」は、一次資料の塊だ アニメーション映画「この世界の片隅に」片渕須直監督(前編)(日経ビジネスオンライン 2016年12月8日) 「本来は、アニメは1人で作れるものです」 アニメーション映画「この世界の片隅に」片渕須直監督(後編)(日経ビジネスオンライン 2016年12月9日) 私は、「この世界の片隅に」は単なる映画の傑作ではなく、文化史的な事件だと思っている。 決して誇張ではない。この映画により、私達は70年昔の戦争を、今と地続きの“そこにあった/そこにある現実”として改めて認識しなおすことになったのだから。 もうあの戦争が、「いつかどこかであった、自
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