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ブックマーク / www.newsweekjapan.jp/asteion (8)

  • 日本では出版されなかった日系ブラジル人の「デカセギ文学」が教えてくれること

    小説やエッセー、音楽など日系ブラジル人による創作活動は日でも発信力を持ちつつある。そもそも「デカセギ文学」とは? 『アステイオン』99号の特集「境界を往還する芸術家たち」より「文学の現在とその可能性」を一部抜粋> 「デカセギ文学」の先駆者たち 「デカセギ文学」あるいは「在日ブラジル系文学」と呼べるものは存在するのだろうか。この問いへの答えは容易ではないが、少なくとも稿を執筆している2023年現在、「デカセギ文学」を自認する作者も、在日ブラジル人による文学に特化した研究もまだ見当たらない。 名の付くジャンルとしては確立していないものの、在日ブラジル人による文学的な試みは小説、アンソロジー、クロニクル、エッセー、写真集、新聞の投稿欄に掲載された読者の文章の単行化など、多岐にわたる。 しかし、在日ブラジル人が執筆して出版物として流通している文学作品は数が限られている。最も知られる2冊の著

    日本では出版されなかった日系ブラジル人の「デカセギ文学」が教えてくれること
    egamiday2009
    egamiday2009 2024/05/12
    “彼らが日本では出版にこぎ着けるまでのノウハウがなかったが、ブラジルならば出版界とのパイプを有した”
  • 海外で活躍した「日本人」芸術家たちが問う「日本」と「日本人」の意味

  • 日本は翻訳大国でありトランスボーダー大国、『万葉集』は世界を代表する翻訳文学である

    翻訳、国境、ジェンダー、身分、言語......を超える『万葉集』。上野誠・國學院大學教授[特別専任]と 翻訳家のピーター・J・マクミラン氏に誌編集委員の張競・明治大学教授が聞く。『アステイオン』99号特集より「境界を往還する万葉集」を3回にわけて転載。編は上編 張 号の特集テーマの「境界を往還する」とは、片仮名で言うと「トランスボーダー」、つまり「国境を越えた」という意味ですが、今は「様々な境域を超えた」という意味の「超域性」として広く捉えられることが多いように思います。 今日は、上野誠先生とピーター・J・マクミラン先生にお越しいただきました。奈良時代後期に成立し、日最古の歌集と言われる『万葉集』を「トランスボーダー」的側面から捉えると、どのようなことが見えてくるのか、存分にお話しいただきたいと思っております。 型を破るトランスボーダー大国日 張 早速ですが、僕は、マクミラン先生

    日本は翻訳大国でありトランスボーダー大国、『万葉集』は世界を代表する翻訳文学である
  • 文系研究者は「利益相反」を明らかにしていない? 実験科学者からの問い

    <理系は研究成果の客観性を担保する際に「COI」を表明するが、文系はどのように研究対象と適切な距離を表明するのか? その難しさについて> サントリー文化財団が編集する論壇誌『アステイオン』では、いわゆる理系・文系とが相互の研究室を訪問し、その源流を辿ることによって、それぞれの文化の融解を狙う連載企画「超えるのではなく辿る、二つの文化」を掲載している。 98号誌掲載「納得の文系に説得の理系」のスピンオフとして、研究室の訪問レポートを写真とともに紹介する。第4回目の訪問先はプラダン・ゴウランガ・チャラン氏(国際日文化研究センタープロジェクト研究員(当時))。 ※第3回「植物の土壌」研究者を訪ねた驚き──けいはんなで文系と理系を考える から続く。 理系では近年、論文発表の際、利益相反(conflict of interest; COI)について表明しなくてはならないことが増えている。 例えば

    文系研究者は「利益相反」を明らかにしていない? 実験科学者からの問い
  • 庶民のコレクションが貴重な大衆文化のセーフティーネットに──浪曲史の編み直しに向けて

    「昭和拾年 帝国浪曲技芸士銘鑑第三月改訂」発行元:立志社(国際日文化研究センター所蔵)。この時期、複数の発行元が浪曲の番付を制作していた。立志社は代表的なもののひとつ。一番下の段に女流が列挙されている。撮影:筆者 <芸術的とはみなされにくい大衆文化だからこそ、資料が希少であり、保存は急務となっている。『アステイオン』96号より「アーカイブの夢、地方からの照射──浪曲史の編み直しにむけて」を転載> 市井のコレクターによって、集められ、救われることがある。芸術的とはみなされにくい大衆文化にまつわるモノが、前代の貴重な存在と認識されはじめたときに、その資料の収集・保存が急がれることがしばしばある。 その時に気づくのは、公的な機関が眼をむけなかったモノたちにとっては、コレクターの収集が潜在的なセーフティーネットとなってきたということだろう。 国際日文化研究センターでは、「浪曲SPレコードデジタ

    庶民のコレクションが貴重な大衆文化のセーフティーネットに──浪曲史の編み直しに向けて
  • 村上春樹を世界文学の文脈に解き放ち、「翻訳」が重要度を増す21世紀を描く

    近年、翻訳をその内部にあらかじめ組み入れる文学を世界文学として定義づけるいくつかの動きが見受けられる。そこでは、翻訳は原典に対して二次的なものではなく、むしろ世界文学そのものを成り立たせる前提となっている。 『翻訳を産む文学、文学を産む翻訳』(松柏社)は、村上春樹を世界文学の文脈に解き放ち、現代日文学における創作と翻訳の弁証法的な関係性を問うてみた。いま、確信を持って言いたいのは、21世紀において「翻訳」はこれからも重要度を増していき、世界の様々なことを理解するのに不可欠な一つの尺度になっていくのではないかということだ。 グローバル化する世界で「翻訳」を突き詰めて問うことは、私たちの存在意義を捉え直すきっかけになる。なぜなら誰もがサルマン・ラシュディの言うような「翻訳人間」になるかもしれないからだ。 次に、文化変容の観点から言えば、70年代というポストモダン移行期を起点に、戦後日社会の

    村上春樹を世界文学の文脈に解き放ち、「翻訳」が重要度を増す21世紀を描く
    egamiday2009
    egamiday2009 2022/12/20
    “世界文学の時代において、日本やアメリカ、中国の女性の間にどのような対話的な「知」が再構築され、どのような新たな文体と文脈が作り出されているのか、といった問題の探求”
  • インド生まれの『方丈記』研究者が、日本のアリの研究者を訪ねて考えた「契約」の話

    <日の古典文学を研究する筆者が、理系のラボを訪ねて思ったこととは? 理系と文系という枠を超えた学問について考えたこと> サントリー文化財団が編集する論壇誌『アステイオン』では、いわゆる理系・文系とが相互の研究室を訪問し、その源流を辿ることによって、それぞれの文化の融解を狙う連載企画「超えるのではなく辿る、二つの文化」を掲載している。97号誌掲載「解く理系に問う文系」のスピンオフとして、研究室の訪問レポートを写真とともに紹介する。第1回目の訪問先は後藤彩子氏(甲南大学理工学部准教授)。 『アステイオン』95号に発表された「学問との再契約(連載企画第1回:超えるのではなく辿る、二つの文化)」 では、筆者の宮野公樹(京都大学准教授)が理系と文系の分裂・共通性について再考しつつ、次のように問うた。 理系と文系の「再契約」は可能なのか。そもそも「理系」と「文系」という二項対立的な思考の「解消」は

    インド生まれの『方丈記』研究者が、日本のアリの研究者を訪ねて考えた「契約」の話
  • 面白さも正確さも諦めない──アカデミック・ジャーナリズムの可能性

    <アカデミズムとジャーナリズムの間に「アカデミック・ジャーナリズム」を――と、論壇誌『アステイオン』が特集を組んだ。アカデミズムとジャーナリズムの両方で通用する書き手は増えている、両者の違いは「編集者の介入」、どちらもネット上で関係性の強さに悩んでいる......。12月に行われた座談会より> 論壇誌『アステイオン』95号は「アカデミック・ジャーナリズム」特集。 2021年12月上旬、特集責任編集者の武田徹・専修大学教授が、『昭和二十年夏、僕は兵士だった』『狂うひと――「死の棘」の・島尾ミホ』などで知られるノンフィクション作家の梯久美子氏と、『核エネルギー言説の戦後史1945~1960』『核と日人――ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ』などの著作を持つ神戸市外国語大学准教授の山昭宏氏を招いて座談会を行った。 アカデミズムとジャーナリズムの方法論の違いとは何か。編集者の役割はどう変わってきたか

    面白さも正確さも諦めない──アカデミック・ジャーナリズムの可能性
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