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戦国時代に関するemiyosikiのブックマーク (5)

  • 信長の父「三河を支配」中京大教授が新説 : 地域 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

    織田信長の父・信秀が三河の岡崎(現在の愛知県岡崎市)を一時的に支配していたことが、村岡幹生・中京大教授(日中世史)の研究で分かった。今春刊行の「愛知県史資料編14」で公表された。徳川家康が幼少期に「誘拐」されて織田家の人質となったとの通説も誤りの可能性が高いという。 村岡教授が注目したのは、新潟県三条市の成寺が所蔵する、法華宗の高僧、日覚が尾張や京都からの情報を記した「菩提(ぼだい)心院日覚書状」。 「岡崎は弾正忠へ降参し、命からがらの様子」「弾正忠は三河を平定し、翌日、京都に上った」などと記されている。「弾正忠(だんじょうのちゅう)」とは、当時の官職の名称で、織田家は信長まで3代にわたってこの職を名乗っていた。村岡教授が現地で調査したところ、この書状は1547年(天文16年)に書かれたことが判明し、弾正忠とは信秀、「岡崎」は家康の父、松平広忠を指すことが確認されたという。 広忠は信秀

    emiyosiki
    emiyosiki 2014/06/29
    これは小説になりそう笑 ”徳川家康が幼少期に「誘拐」されて織田家の人質となったとの通説も誤りの可能性が高いという。”
  • 信玄の直筆書状が見つかる!【解説】弟の信繁とは - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

    武田信玄の書状の新発見です! 読売新聞がスクープしております。 長野県の旧家に伝わっていたものを、山梨県の武田氏研究の第一人者の平山優さんが鑑定しました。 そもそも信玄の直筆書状は数点しか見つかっておらず、今回の弟信繁(左馬助)宛てのものは初めてとのこと。 気になる内容は、報道をもとにしますと、天文二十三年(1554年)に、信州へ進撃していた信玄(当時は武田晴信)が、信州・小諸城の攻略に向けて、弟の信繁に対して、親族や家来に戦闘準備をさせるように指示するものとのことです。 ネットにはありませんが、新聞では書状の現代語訳や識者(丸島和洋・国文学研究資料館特任助教)のコメントも載っていました。 丸島和洋特任助教のコメント 「武田家は内紛が多く、信玄が頼れる親族は少なかった。書状は信玄が信繁に信頼を寄せ、軍事上重要な役割を任せていたことを示す一級史料だ」 読売新聞での現代語訳 「様子によっては明

    信玄の直筆書状が見つかる!【解説】弟の信繁とは - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
  • BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

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  • 河北新報 東北のニュース/「我が軍門へ」片倉小十郎の書状見つかる 敵方の重臣宛て

    「我が軍門へ」片倉小十郎の書状見つかる 敵方の重臣宛て 敵方の重臣に帰服を呼び掛けた片倉景綱の書状。急いで書いたらしく、乱れた文字を修正した箇所もある 伊達政宗の参謀役 だった片倉小十郎景綱(1557~1615年)の書状が宮城県大崎市の旧家で見つかり、所有者が仙台市博物館に寄託した。現存する景綱名の書状は10通に満たず、同博物館も所蔵していなかった。新たに見つかった書状は、摺上原(すりあげはら)合戦において敵の重臣に帰服を促す生々しい内容に加え、景綱直筆の可能性もあり、歴史研究者からも注目されそうだ。  書状はことし1月、仙台藩の事跡に詳しい東海林恒英・元仙台市博物館長らが鑑定し、署名から景綱のものと判明した。日付は「六月九日」とあり、政宗が猪苗代湖北岸で会津の芦名氏を破った摺上原合戦=1589(天正17)年旧暦6月5日=の4日後に書かれたことを示している。  宛先は、芦名氏の居城黒川城(

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    emiyosiki 2013/07/11
    初代小十郎のは珍しいですね~
  • 「悪人を懲らしめながら旅をする殿様は実在した!」~島津家久あばれ旅

    テレビ時代劇によく出てくる、悪人を懲らしめながら旅をする殿様は実在した!江戸時代に佐土原藩となった、永吉島津家の当主・島津家久がお伊勢参りをした時、至る所で悪人を懲らしめながら?旅をしていた記録『中書家久公御上京日記』が、歴史雑誌『歴史街道』8月号に紹介されています。最近、この日記は研究が進み、複数の論文が出ています。内容はアレだけど。 これが国宝文書『島津家文書』の一部なんだぜ…

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