県は17日、韓国が竹島(隠岐の島町)を不法占拠する直前の1952~53年頃、隠岐諸島・島後から竹島に漁船で渡った際に使われた海図を初めて発見した、と発表した。コンパスで針路を確認しながら船を進めたらしく、海図には竹島と隠岐、大山(鳥取県)を結ぶ2本の線が鉛筆で引かれている。県は「竹島が隠岐の住民の生活圏内であり、日本固有の領土であることを裏付ける貴重な資料」としている。(矢沢慎一) 海上保安庁が発行した海図「日本海西部」(1949年改正版)。県の竹島問題研究会などが昨春、島後で集めた資料5578点を整理中、地元漁協が保管していたものの中から発見、昨年8、9月と今月、関係者から聞き取りを実施して、当時どのように使われていたかを確認した。 県などによると、この海図を使って渡航したのは島後の住民3人で、既に亡くなっている。遺族らの話では、3人は肥料などの原料になるリン鉱石を採取するため竹島に渡り
今回はいつものお話とは別に、大河ドラマ『軍師官兵衛』をテーマにしてみましょう。ここで黒田官兵衛は軍師だ、と捉えられていますが、軍師ってそもそも何? 戦争を実行するに際し、必要な3つの要素は「戦術(Tactics)・戦略(Strategy)・兵站(へいたん)(Logistics)」であるといわれます。 いま、信長から毛利攻めの指令を受けた羽柴秀吉を例に取ります。目の前には播磨三木城がある。これをどう攻める? 力攻めか、裏切りを誘うか、兵糧攻めにするか。それを考えるのが戦術。三木城を落とすことが中国地方の制圧にどういう意味をもつ? 時間を掛けても東播磨を掌握して対毛利戦の前線基地にするか、三木城に対応する適当な兵を割いて西進を急ぐべきか。それを考えるのが戦略。羽柴軍の兵をどこでどう募り、彼らをどうやって食べさせる? それを考えるのが兵站、です。 お隣の国の劉邦(BC256?~195年)が覇王・
セイコーエプソンは、奈良県明日香村、東京大学 池内・大石研究室、アスカラボと共同で、エプソンの新型スマートグラス「MOVERIO(モベリオ) BT-200」を用いて「古墳バーチャルガイド」の実証実験を、明日香村の石舞台古墳で2月22日、2月23日、3月1日、3月2日に実施すると発表した。 今回の共同実証実験では、エプソンが「MOVERIO BT-200」を10台提供し、AR技術を組み合わせることで、石舞台古墳の築造過程を3D映像で紹介する「古墳バーチャルガイド」サービスとして、希望の顧客に体験してもらう。
石井良助が注目したのは、表の「冒頭部分」という項目です。表記の移り変わりがあることに気づきますね。年代順にしてみると、ここは三つに分けることができるようです。石井良助はこれを、第一期(表中1~5)・二期(6~21)・三期(22~26)に分けました。 まず「前右大将政所下文」という表記が続くのが、第一期(表中1~5)です。これは当時、頼朝の称号が前右近衛大将(前任の右近衛大将〔通称、右大将〕の意)であったことによります。 それでは第一期から第二期(表中6~21)に移りかわる原因は何なのでしょうか。これは、頼朝たちがきまぐれに書式を変更したわけではありません。第一期と二期の境目にあたる1192年6月~8月ごろに何があったか―それこそがまさに、頼朝の征夷大将軍就任なのです。 1192年7月12日、朝廷は、征夷大将軍に頼朝を任じる正式決定をします。その命令が鎌倉に届けられたのが、7月26日。そし
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